2023年4月17日月曜日

048*2023.4

 


10句
津へ   佐藤文香

10句

10句
万愚節前後    高山れおな

10句

散文
パイクのけむり XXⅥ ~花より男子五句集感想~  高山れおな

散文

小川軽舟『無辺』感想  佐藤文香

小川軽舟『無辺』(ふらんす堂)が第57回蛇笏賞、第15回小野市詩歌文学賞を受賞したそうだ。
軽舟さん、おめでとうございます。下記は送りそびれていた感想に、ちょっと書き足したものです。


前句集『朝晩』は「勤め人」としての俳句に特色があった。
ぱっと思いつく結社の主宰には専業俳人が多いが、小川は関西と関東を往き来するサラリーマンだった。「鷹」という大きな結社の主宰と会社役員のどちらもを全うするのは常人のなせるわざではないだろうと思うが、小川は「一般人の日常の味わい」に多く詩を見出すことで、ひとつ個性を獲得したように思う。
が、『朝晩』へのお礼メールで、私はえらそうにこんなことを書いていた。

あえて昭和30年代生まれの「標準世帯」のサラリーマン・夫・父の等身大を俳句の中で演じることが、のちの時代における“昔語り”の価値を持つということと解釈しました。

   芙蓉咲き自分らしさといふ鑑
   押し通す愚策に力雲の峯

いわば大衆性の未来を見据えた句作であり、何十年か先の朝の連ドラになりそうな句集だと思います。愚策の句は「雲の峯」の配合がなんともダサくて最高でした。筋肉のなさそうな二の腕で、一生懸命力こぶをつくっている50代男性の姿が見えてきます。

 とはいえ、私自身は現状、たとえ古びるとしても、言葉のあり方を発明し続けることに興味があるタイプの人間でして…軽舟さんの今回の作品のなかで、自分が考えていることと近いのは、下記のような取り合わせの作品でした。

   夕空は宇宙の麓春祭
   種馬は仔馬を知らず春の川
   溶岩垣を離れて高し黒揚羽
   大根畑雲みづみづと流れけり
   喫煙所驟雨の後の虹高く
   立葵小溝も潮の差しきたる

空色と奥に広がる宇宙、そして地の祭、その音、のように、五感のいくつかが刺激され、句のなかに時空が広がり、風を吹き込まれたような気分になれます。

さらに、(上五+中七連体形)切れ(3音の名詞+かな)という句型に好きな句が多かったです。
   バスタオル胸に取り込む躑躅かな
   福助の月代青き夕立かな
   讃美歌の文語やさしき芙蓉かな   (以下略)


さて、今回の『無辺』はどうだろうか。
見たかんじだと、サラリーマンとしての生活を描くことについては『朝晩』までで手応えが得られたようである。小川は現在62歳。キャリアも一段落する年齢だ。
一般人風のほがらかさは安定していて、なかでは次のような作品をいいと思った。

   バーベキュー薫風汚すこと楽し
   歯を磨く娘に並び初鏡
   住職は煙草をやめず桃の花

一般人「風」というところがミソで、句としてはしっかり面白みがある。バーベキューのあの煙が薫風を汚すと見立てる→「楽し」、歯を磨く娘と並びうる関係性→しかも「初」鏡、住職が煙草、しかも「やめず」→桃の花、のように平凡なように見えて2段展開している。

   若葉して神戸は古き港なり
   梅咲いて大きな犬にさはりたし

これらは植物の季節変化+ふつうの感慨・願望だが、上五をテ形にし、切れを句の途中につくらないことで、ふっくらと仕上げたところによさがある。

   ニュータウンの小さき葬式月静か
   珈琲はデカフェ夜長の窓あけて
   春泥もアドバルーンも昔かな

ニュータウン(の葬式!)、デカフェ、アドバルーンなどを句材として取り入れつつ(アドバルーンは昔を思い起こすものかもしれないが句材として手垢がついているものではないだろう)、「月」「夜長」「春泥」といった確実性の高い季語と無理なく結びつけ風情をものにする。

   蜜豆や出てみたかりし文学部

これは作者のプロフィールなしには読めない句だ。高卒の人の句か、東大法学部卒の人の句かで気持ちの成分が変わってくる。もちろん小川は後者で、しかもその後もドロップアウトせずに勤めを続けた(ている)わけだが、だからこそ僻みなどではなく純粋な文学への憧れ、さらにいえば文学のために身を持ち崩してしまえる(た)ような人たちの人生への憧れが、蜜豆のように甘くきらきらと、少し懐かしい色味でここに映し出されている。人生に幾度もある分岐点のうち、かなり初期の大きな分岐が学部の選択だったはずだ。文学部に進んだパラレルワールドの小川青年は、どんな60代を迎えただろう。

私佐藤の好きな傾向ということであればこのあたりか。

   干草や鳥も楽器も星座なす
   野に遊び爪なまぐさき夕かな

一句目は干草と星の句で、白鳥座、琴座といった星座名の話はずなのに、「干草」という実体を伴う季語に続けて「鳥」「楽器」と置くことで、そのふたつをいったん干草と等価に見せるマジック。「星座」が出てきたところで、リアルの「鳥」「楽器」ははかなく消え星々に変わり、干草の香る切ない夜となる。二句目、野遊びの夕べという穏やかな情感に「爪なまぐさき」という恐ろしい「本当」を挿入することで詩としての強度を高めた。

一番心に残ったのは、雪の二句だった。

   雪雲の須臾の夕映雪ちらつく
   終りなく雪こみあげる夜空かな

どちらの句も雪雲の空の景で、一句目は夕映のわずかな時間、二句目は長い夜。雪を生み出す空に時間・空間を与えることで、雪それ自体に踏み込んだ作品である。

あとがきに「無辺より来たって今在るものは、いつか無辺に消え去る。その過程で偶々出会えた物や心の端正な姿を、俳句の形に残しておきたい。」とある。「端正な姿」というところ、身辺のものどもを「端正」と見るのは、端正な人の心のありようであり大変小川らしく素敵だが、一方であんまり端正だと「私は」退屈してしまいそうだな、とも思う。

でもたぶん大丈夫だろう。

   電脳界曼荼羅無辺空海忌

句集『無辺』の表題句はこの作品。空海が持ち帰ったのは彩色両界曼荼羅。ネットワークに支配された曼荼羅のような電脳世界の果てしなさに立つ我々を、空海はどう見るだろうか。

「無辺」というタイトルと句集の装幀は端正さが際立つが、〈電脳界曼荼羅無辺空海忌〉という句には普通のサラリーマンが普通のおじいさんや普通の主宰になってしまわない覚悟が感じられて面白い。
どんな層をも代表することなく、小川軽舟ひとりの小川軽舟らしさが普遍に至る作品を期待したい。

パイクのけむり XXⅥ ~花より男子五句集感想~  高山れおな

最近出た句集の感想をいくつか。 

大島雄作『明日』 本阿弥書店 2022.4.22
最近出た句集だと思って読んだのだが、いよいよ本稿を書こうと奥付を確認したら一年前の刊行だった。積ん読になっていたもろもろの本が、一年の間にシャッフルされてわけがわからないことになり、最近いただいたつもりで拝読したということらしい。

新緑に入りて育てむこころの帆

もちろん山口誓子の〈炎天の遠き帆やわがこころの帆〉に言葉を借りている。誓子の句が詠まれたのは昭和二〇年(一九四五)八月二二日。つまり戦闘は終わっていたものの、ミズーリ号上での降伏調印すらなされていないタイミングだった。「わがこころ」の内実は単純ではないとして、この句が敗戦の衝撃そのものの、あるいはそこから自己を立ち直らせようとする心意の形象であることは間違いあるまい。一方、大島の句に特徴的なのは「こころの帆」を「育てむ」としていることで、心意のあり方という意味では、誓子の句よりもむしろ茨木のり子の「自分の感受性くらい」の方が近かろう。茨木の詩が自らへの辛辣な叱咤激励という印象であるのに比べれば、ごく親和的で明るい詠み口となっているとはいえ、掲句もまた自分の感受性を自分で守ろうとする態度の表明であるに違いない。

ネガフィルム透かしては捨て緑の夜
父の日の金剛力士像仰ぐ
百歳にならねば虹を歩まれず

一句目は終活の一情景ということになるのか。ネガフィルム自体がもはや前代の遺物であるという大状況と、プライヴェート写真はじつのところ本人(たち)にしか意味がないという事実が重ね合わせになったところにあわれがある。「緑の夜」はフィルムの物質感をさらに強める効果をあげている。

二句目はどこかのお寺の山門の仁王像を見ている場面。仁王像を詠んだ句は、其角の〈からびたる三井の二王や冬木立〉をはじめ現代に至るまで例が多いが、「父の日」と取合わせたことで、彫刻が体現する男性性そのものが焦点化された。仁王像は彫刻としてはじつは碌なものがないというのが、長年、仏像を見てきた者としての実感である。東大寺南大門のものだけが、規模のみならず彫刻的質の点でも突出してすぐれており、あとはまあまあという程度に纏まっていれば御の字で、拙劣な作がはなはだ多い。如来像や菩薩像なら造型的に拙くとも霊性を感じさせるようなケースもあるが、仁王像の場合はそうもいかない。世の大方の仁王像は、基本的に空疎で間抜けなのである。といったようなことも、この句を受取る際の味わいになり得るのだが、作者が仁王像一般について、そこまでの知識やご意見をお持ちかどうかは知らない。

三句目は、作者が古稀前後で詠んだ句であることが、鑑賞の前提になるだろう。百歳まで生きることも充分あり得るが、さすがにそこまでは達しない可能性の方が高く、古稀と言えば立派な老人ながら百歳まではまだ三十年あり、しかし年取ってからの三十年はあっという間かもしれない・・・といったようなあれこれを思いながらの「百歳にならねば」であろう。

形代に息かけ吾はだれだらう
烏賊釣り火丹波丹後の隔てなく
虫籠を買ふ家なのか檻なのか
胡蝶蘭あふれ店の名覚え難(にく)
秋草やダム放水の吼ゆるごと
ボルゾイの如く凩過ぎゆけり

これらの句にも惹かれた。一句目の自己意識の揺らぎ、四句目の軽妙な風俗スケッチと、まことに自在だ。

髙橋亘『機影の灯』 朔出版 2023.3.1
大島雄作氏は句歴四十年以上のベテランで、『明日』は第六句集だった。髙橋亘氏は、年齢は大島氏より十歳上だが、七十歳近くなって俳句を始めたらしく『機影の灯』は第一句集。

雨傘の襞に残りし桜かな
かなぶんに貸したる指の痛きかな
川一つ挟む二駅夏の雲
スキップの少女輪に入る盆踊
若布刈舟昔太陽族の海
虫の音や川面に走る電車の灯
睡る子に睡る母の手冷房車
夏蝶の鍵盤たたくごと舞へり
凩や店の名前に灯が入る
子ら競ふ山なりの尿(しと)たんぽぽへ

総じて一句の面白さのポイントが明快。これは長所でも欠点でもあるだろう。ともかく、手堅く、きっちり作られた作品が揃っている印象。中でも、「睡る子に」の句は、つつましい言葉遣いによる的確な描写が光る好句だと思う。

野上卓『冴返る』 本阿弥書店 2023.3.30
この作者も、髙橋亘氏と同じく句歴は十年強といったところで、本書が第一句集である。やはり基本的に句意明瞭な作りだが、髙橋氏に比べるとかなりケレン味がある。政治や風俗に対する風刺的な視点があるし、人生観自体が一種の翳りを帯びている。

うすらひを渡るサイレントマジョリティ
鳥曇ルオーは神を暗く描く
ダライラマ猊下の思ひつちふれり
遠足の続きを生きてゐる気分
ガガンボやあやしき神の設計図
釣り堀にネクタイ垂らす二人かな
噴水や時間の謎は解けぬまま
昆虫が一番まじめ秋暑し
とりどりの安手の傘も秋時雨
鮟鱇の受口鉤に残りたる

井上弘美氏の跋文によれば、現役時代から戯曲を書き、短歌の方では俳句に先行してすでに歌集が二冊あるらしい。要するに文学志向ということなのだろう。じつはこの人はあちこちに投句していて、収録句の半分は「汀」に載ったものだが、「残る半分は新聞や俳句大会で活字化されたもの」だそうだ。実際、上に引いた十句のうち、「うすらひを」「ダライラマ」「噴水や」の三句は私が朝日俳壇で採ったもので、他にも讀賣・毎日・日経・産経の各紙に投句しているようだ。「うすらいひを」の句は、自分が最初に取ったからというのでもないが、独自性という点では際立っていよう。「サイレントマジョリティ」みたいな長ったらしいカタカナ語が、すんなりと五七五に収まっているのは見どころだし(中八だがほとんど気にならない)、意味性の点でも冴えている。

仁平勝『デルボーの人』 ふらんす堂 2023.3.31
二〇一四年から二〇二二年までの二百六十句を収め、単行本としては第四句集。これもまずとりあえず十句を引く。

づかづかと夏の踊り子号に乗る
夏草の土手を登れば線路あり
店番の子が蜜豆を食べてをり
生き残りたる雀荘の秋灯
楽隊の背後に冬将軍がをり
初夢の弟生きてゐて威張る
日が暮れて聞き覚えある秋の声
長き夜の初めのはうに寝てしまふ
マネキンの頭つるつる寒波来る
駅前に食堂があり山笑ふ

大島雄作、髙橋亘、野上卓の三氏は、句歴にはかなり幅があるし、作風だって少しずつ違う。しかし、俳句に対する態度にはこれといった違いは感じられない。というのも、仁平氏を横に置いた場合の話で、年齢性別でくくるとみんな七十代男性になるのだが、仁平氏は他の三人とはなんだか違うなあと思うわけである。その理由を考える上で、あとがきに次のようにあるのが参考になる。 

五七五のリズム自体は、いわば通俗である。そして俳句は、自身の通俗さから出発し、その通俗さを対象化する詩なのだと思う。

これを俳句一般の話とするとなんだかよくわからない。しかし、仁平氏の俳句のことと考えればすんなり腑に落ちる。いや、俺は俳句一般の話をしているんだと氏は言うだろうけれど、やはりこれは態度論的にかなり例外的な立ち位置だろう。実際、先に見たお三方などは、句風から言えば「通俗さから出発」することを必ずしも嫌わない人たちのような気もするが、「その通俗さを対象化する」ことは考えたこともないものと推測する。このあたりが当方の「なんだか違うなあ」の一応の説明になろう。で、私は、仁平氏の句集を読むのに前後して、仕事の関係で、大田南畝関係の本に少しく目を通していたのだが、おお、仁平俳句は天明狂歌じゃんということに気づいてしまったのである。

天明狂歌というのは、古典和歌の言葉をもじりつつ当世風俗を詠むといったあたりがジャンルの中核にある志向で、古典和歌のような用語の制約はないものの、詠み口は案外上品で、風刺性を忌避していた。正系和歌(同時代であれば桂園派など)に対する通俗という自らの立ち位置に完全に自覚的だったのは言うまでもない。仁平の今回の句集ではもじりはそれほど目立たないが(引いた十句のうちでは〈づかづかと夏の踊り子号に乗る〉が高野素十の〈づか/\と来て踊子にさゝやける〉のもじりになっている)、初期の『花盗人』や『東京物語』にはその種の句ばかりが並んでいた。天明狂歌の風刺性の忌避は、仁平の時事俳句嫌いとパラレルだろう。その上で天明狂歌は江戸自慢の方向へ走るのだが(一八世紀後半は、江戸に上方に対抗できるだけの文化的実体がようやく備わった時期だった)、これは仁平俳句における“聖代としての昭和中期庶民文化”の礼讃と対応する。掲出十句のうちでは、〈店番の子が蜜豆を食べてをり〉が典型的。昔はああだったね、こうだったねというのを俳句の形にして一緒にしみじみしようというのが、つまりは仁平の句集の全体に通底する気分なのだ。仁平でなくともその種の句を作る人はそれなりにお見掛けするものの、みなさん仁平ほどのこだわりはないし、自覚的でもないので、そこが仁平の異質性として際立ってくる所以であろう。 

北大路翼『流砂譚』 邑書林 2023.4.1
やはり第四句集である。興に入った十句を挙げる。

寒夕焼ラードで揚げる鰺フライ
殺伐とシチューを作つてゐるところ 
刻み海苔どれも困つた眉に見ゆ
埼玉と群馬の喧嘩海の家
さうかもな僕はビールでできてゐる
乗り換へのむわつと夏に再会す
向日葵のうなだれてゐる平和かな
寒鯉の百万円の眠りかな
孤独死の蚊遣に白き渦残る
つまんねえ石になつたなおばあちやん

北大路翼氏は、通俗というよりは、俗悪から出発して、自らの俗悪さを対象化することに自覚的とすべき人か。その自覚的という限りにおいて、仁平氏の句にも多少味わいが似ていなくもない。仁平氏が六十年前の庶民文化に対する愛惜を根拠にしているのに対し、北大路氏は引き延ばされた青春を愛惜するごとくだ。それにしても、二〇二一年、二〇二二年の二カ年の作で収録五百五十九句というのはさすがに無理があるのではないかと思った。加藤楸邨なんかもそんなペースだったからそれに倣ってるのかもしれないが。

2023年4月14日金曜日

047*2023.3

 


10句


散文
生物でも無生物でもないものが作りだす場 ー西川徹郎についてー  関悦史

散文

散文
パイクのけむり XXⅤ ~その後の「はれのち句もり」~  高山れおな

癸卯清明 遅配十句      高山れおな




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癸卯清明 遅配十句     高山れおな

ひるがへる袖を連ねて山笑ふ
人体に粉瘤燃えて春に入る
永き日の雲が雲脱ぐ遊びかな
神の滝はらわた見する春夕焼
星屎(ほしくそ)の剣まつるも春の宮
みな放(ま)りて放りて遙かや鳥雲に
楤の芽に刻々と舌暮れゆけり
春の水がぶがぶ飲んで壽(いのちなが)
螺髪見え蓮弁が見え海市かな
笑ふ声だんだん高しかひやぐら

二〇二三年三月一日分、同四月一四日更新

2023年4月13日木曜日

万愚節前後     高山れおな




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万愚節前後     高山れおな

雪女郎いま流眄(ながしめ)に春の水
四方のビルみな三菱か辛夷咲く
尿採れば尿温かき西行忌
花蘇枋天地明るき時に遇ふ
昼月の雀斑(かすも)や降(ふ)りし雀の子
恋猫のこゑの薔薇色万愚節
催花雨やかねて後ろに死も花も
眠り行く嬰(こ)にアオダモの咲きかかる
春塵や弾みて鴉向きを変ふ
御機嫌な鴉なりしが霞みけり

2023年4月1日土曜日

津へ         佐藤文香

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津へ         佐藤文香 

柳の芽金城に雨太く降る
春愁のほつれてミルクティーに餡
花に炒飯まるく灯さむ中村区
木曾川を西へ越えたる桜かな
川三本そして桑名や蛤の
紀伊国薄手の雲のたたなはる
蠟燭の町も思はれ弥生なり
いつか見し百五銀行花の雨
ゆふざくらかつちりぬるを若書きにて
春の星ひとみに満たし別れけり

プロパガンダ      関悦史

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プロパガンダ      関悦史

プラスチックと岩融合す春の潮
深海魚容れけむ三月のピアノ
この国の子は異次元へ消え桜
蟋蟀の浮く牛乳の春思かな
神からのプロパガンダの春の風
春眠や浜に巨人の屍の壊えて
王蟲オムライスの動く春の夢
春疾風多足の母ぞ裏返る
一本足の我刺さり立つ春の山
山と笑ふ人類ゐなくなりしあと