2021年7月16日金曜日

027*2021.7

 


俳句
▶︎意匠から  佐藤文香

俳句
▶︎水母と快速  高山れおな

俳句

散文
▶︎『菊は雪』 俳句に詳しくない読者の方のために  佐藤文香

散文

散文

おしらせ
▶︎佐藤文香第三句集『菊は雪』が刊行されました

パイクのけむりⅦ ~俳句甲子園中心主義に反対する~  高山れおな

青木亮人氏には個人的恩義(具体的には「週刊俳句」の「切字と切れ」特集のメール座談会に参加していただいたことですが)もあるのであまり言いたくはないのだが、彼の時評的な文章には、んっ?となることが少なくない。たとえば青木は、朝日新聞の俳句時評を二〇一八年五月から二年間担当しており、これは全部読んでいるが、不思議な文章が多かった。そうなる理由は一概には言えないとしても、短いスペース(原稿用紙で一・六枚ほど)で無理に趣向を立てようとするためだろうとは感じていた。 

では、もう少しスペースに余裕がある場合はどうか。最近眼に入ったのは「文藝年鑑2021」の俳句についての年間回顧の欄。じつは前年の同欄の筆者も青木で、これはちょうど原稿を頼まれた「WEP俳句年鑑2021」でかなり長文の批判を書いた。青木のその文章は、目利きの不在がどうのこうのという話に始まり、俳句自体についての判断を欠いたまま各種の贈賞儀礼だけが空しく繰り返されているのが俳句の現在だと論じる虚無的な趣旨だったが、前提となる目利きの不在云々の部分からしてほとんど俗論としか思えなかった。 

さて、2020版の青木の文章がほぼ全面的に不快であったのに比べれば、2021版の方に感じた違和感は限定的ではある。しかし、限定的ではあってもかなり強烈な違和感を思えたのは間違いない。その所以はひとことで言えば、青木の俳句甲子園中心史観にある。青木は、二〇二〇年の句集として、安里琉太『式日』、津川絵理子『夜の水平線』、鴇田智哉『エレメンツ』を、〈二〇二〇年の俳句表現の特徴〉を示すものとして特筆する。それはいいとして、安里の句集の性格を俳句甲子園に直結させてしまう手つきは、私にはずいぶん安直・雑駁なものに思えた。青木は、俳句甲子園の仕組みを説明したあと、結果的にそこで醸成された気風を次のように概括する。 

ゆえに俳句甲子園はゲーム性の高い世界観を有し、価値が点数化され、明快に勝敗がつくため、誰もが納得しうる作品を成立させる技術を尊ぶ俳句観が色濃い。例えば昭和戦後俳句が重んじた「境涯」「人間」といった価値観、つまり作品以前に存在し、点数化が困難な世界像を後ろ盾に句を詠み、鑑賞するという俳句観を完全な遺物として葬ることを決定付けるものだった。 

この一節に続いて青木は、〈やや極端な例だが〉とことわりながら戦後俳句の境涯詠のサンプルとして「鶴」誌で活躍した小林康治の名を挙げ、その句集『四季貧窮』に石田波郷が寄せた文章を引くなどした上でさらにこう述べる。 

「貧窮」に満ちた「境涯」や「俳句的人間」云々といった、言葉や作品以前に存在する「境涯・人間」等の重みを評することは俳句甲子園では存在しない(というより、教育上できない)。あくまで点数として可視化しうる技術――季語をいかに巧く詠んだか、瞬時に理解しうる句意をいかに詠むか等――を重視する俳句甲子園の感性は、平成俳句を彩る大きな存在となった。 

正直言って、唖然たらざるを得ない。私は俳句甲子園には、十数年前に一度、審査員として参加しただけで、もはや記憶もおぼろだ。松山で大学教員の職にある青木は毎年参観しているのだろうから、現場を見ている実感は実感として尊重するが、それにしてもこれでは平成の俳句がまるきり俳句甲子園を中心に回ったかのごとくではないか。 

俳句甲子園はすでに二十年以上続いており(第一回は一九九八年)、そこへの出場をきっかけに俳句にのめりこみ、俳人として活動を続けている顔ぶれも、今や二人や三人ではきかないことはもちろん承知しているし(だいたい、本ブログのオーナーの佐藤文香が代表的な一人である)、今後ともその人数は加算されてゆくのだろう。したがって、俳句界の人材の供給源としての俳句甲子園の意義を認めることには当方としても異存はない。後世から振り返って、二十一世紀の最初の二十年なり三十年なりに登場した新人の相当部分が俳句甲子園出身者のように見えるという状況も、可能性としては充分あり得る。しかし、〈俳句甲子園の感性〉が〈平成俳句を彩〉ったというのは、どう考えても話が逆立ちしている。 

〈言葉や作品以前に存在する「境涯・人間」等の重みを評すること〉の不在、〈季語をいかに巧く詠んだか、瞬時に理解しうる句意をいかに詠むか〉の重視といった、青木が俳句甲子園の特徴として挙げる要素は、じつのところ俳句界の多数がここ三、四十年来(あるいはもっと前から)、めざしてきた方向性に他ならない。もちろん、あくまでおおざっぱな方向性であって、境涯・人間の重みが全く排除されたわけでもないし、瞬時に理解されることだけをめざして俳句が作られてきたわけでもない。 

しかし、私自身の実感としても、自分が俳句を始めたころ(一九九〇年前後)には、人間探求派的なるもの(師系の話ではなく、「境涯・人間」等を尊重する態度の問題としてこう言っておく)が少なくともまだ気風的に主流派・多数派と言えるだけの重みを持って存在しており(金子兜太・森澄雄・鈴木六林男・佐藤鬼房はもちろん、加藤楸邨や能村登四郎だってまだ生きていたのである)、一方でより身近な先行世代(攝津幸彦・坪内稔典・長谷川櫂・夏石番矢・中原道夫・田中裕明・岸本尚毅・小澤實etc.)は、まさにそうした人間探求派的なものからの離脱をはかっているように見えた。もちろん、自分としては後者の驥尾に付すつもりだったのである。かくて幾星霜。身近な先行世代として上に挙げた人たちが俳句界の中枢を占め(攝津・田中は故人だが、彼らはむしろ没後に存在感を高めている!)、他方、境涯や人間を作品の上にみずから体現している(ように見える)最後の大物俳人である金子兜太が逝ってしまったところ、というのが現在の段階であろう。 

要するに、俳句甲子園の俳句観なるものが存在するとして(しかし、本当にそんなものがあるのか)、それはあくまでも俳句界が総体として進めてきたプロジェクト(?)の内側の現象にすぎない。なんであれば、俳句甲子園の産みの親たる夏井いつきの句集を見てみよ。そこに境涯や人間があるか? それはまさに〈季語をいかに巧く詠んだか、瞬時に理解しうる句意をいかに詠むか〉に注力してものされた俳句ではないか。こう言って、私は夏井を批判しているのではない。作品の表面は似ても似つかないようでも、私自身だいたい彼女と同じようにやってきたのである。青木はまさか、夏井のそうした句風が、俳句甲子園をきりもりしてきた結果、高校生たちの俳句観に影響されて生じたものだとでも言うのだろうか。夏井は余裕派的な山口青邨の孫弟子だから例として不適切だというのなら、大石悦子がまさに昨年に出した『百囀』はどうか。大石の先生は石田波郷であり、彼女はつまりは小林康治の相弟子にあたるが、この句集のどこに境涯や人間があるのだろう。私は大石の若いころの作品をよく知らないので、ここでは適切に過去との比較ができないのであるが、俳句界全体の潮流と軌を一にした変化があったのではないのかと推測する。 

さて、青木は、安里琉太の『式日』から、 

 寒雲の蒐まつてくる筆二本
 能登は雨さんせううをと女学生
 夏を澄む飾りあふぎの狗けもの
 編みさしの竹白みたる雨水かな

 といった句を挙げて、 

この老成ぶり、俳句らしさ、しかも臨場感を失わない個人的な実感が宿った表現のあしらいは並ではない。 

と賞賛している。いや、実際その通りでしょう。しかし、

かような俳句甲子園のあり方は、安里琉太の句集『式日』に如実に反映している。

というのはどうなのだ。先ほどから述べているように、〈言葉や作品以前に存在する「境涯・人間」等の重み〉との関係が希薄で、〈季語をいかに巧く詠んだか、瞬時に理解しうる句意をいかに詠むか〉に注力することは、現在の俳句のごく普通のあり方であって、安里の俳句もたいへん上手であることを除けばごく普通の俳句である。その上での話だが、はたして安里は、青木が言うような〈価値が点数化され、明快に勝敗がつく〉〈ゲーム性の高い世界観〉を内面化してこうした俳句を書いているのだろうか。私にはいささか信じ難いのだが。青木の論を読んでいると、空があんなに青いのも郵便ポストが赤いのも、みんな俳句甲子園のせいなのよという感じがしないでもない。 

ここで、やはり昨年出た、俳句甲子園出身者(しかも団体優勝の立役者にして今も人口に膾炙する最優秀句の作者)の句集でありながら青木の年間回顧には登場していない本に言及しておいてもいいだろう。それはもちろん神野紗希の『すみれそよぐ』だが、青木が無視した理由はよくわかる。なぜなら、この句集が、結婚や妊娠・出産・子育てといった、〈「境涯」「人間」といった価値観、つまり作品以前に存在し、点数化が困難な世界像〉に全面的に依拠して展開するタイプの作品だからである。ついでにさらに一年前に出た、別の俳句甲子園出身者による句集を思い出しておいてもいいだろう。それは藤田哲史の『楡の茂る頃とその前後』で、やはり恋愛などの「境涯・人間」を背中に貼り付けた作品である。 

俳句界の長らくの志向にもかかわらず、当たり前ながら、境涯も人間も死滅したわけではない。しかし、それが前面化する場合でも、戦後俳句とは異なるスタイルをとるだろうことも言うを俟たない。安里は俳句甲子園の俳句観を体現するが、神野や藤田はそうではないとする根拠は那辺にあるのだろうか。安里が高校教師となり、引率者として俳句甲子園にかかわりつづけているから? しかし、高校の教員でこそなけれ、神野だって俳句甲子園とのかかわりは保っているはずである。私としては、俳句甲子園経験は経験として、彼らはそれぞれに自分の俳句観を育て、人生の中に位置づけてきたのだろうという、ごく常識的な結論しか導き出せないのだが。

      *           *           * 

 たくさん句集をいただきながら、全然読めておらず忸怩たるものあり。来月は少しは句集のことを書ければと思う。ネットの方では、櫻井天上火という人の「終焉する歴史、無限」という五十句からなる面白い作品を読んだ。 

 表象の眠りどこまでも象の皮膚
 速度より駿馬の産まれ青嵐 
 ここに茸あそこに茸のくらい夢
 不可解な低さを兎どこまでが春
 物質の起源に蜂の音混じる
 蜜垂らす蛇を解剖けば割れ鏡
 古の正三角を犀がゆく
 真夜中を透けつつ歩く哲学の鳥
 その後八足の猫は戻らない
 磔刑の霧に循環する思想

 これらの句に感銘した。作者の年齢も性別もわからないが、たぶん若い人だろう。引いた句はそうでもないけれど、加藤郁乎風の語彙、レトリックも散見。この動物たちの跋扈ぶりからすると、安井浩司も読んでいる? そういう意味では、古風な美学的前衛系の俳句を想起させもするが、温度が低くてすっきりしたところはやはり今という感じがする。映像的でありながら映像化しきれない抽象性を帯びるといったあたりが一貫したスタイルのようだ。意味は必ずしもよくわからないものの、てにをはや構文の操作による曖昧化とは異なり、文章構造がシンプルで明快なのがすがすがしいと思った。

日記(2021.6.15~2021.7.16)  関悦史

6月15日(火)
 松本清張『西海道談綺(七、八)』、森奈津子『姫百合たちの放課後』、野尻抱介『ふわふわの泉』『沈黙のフライバイ』読了。 
 『西海道談綺』は後半、破傷風に感染して海老反りにこわ張りながらもなかなか死なず、横恋慕の妄執だけで鉱山中どこまででも歩いては不意に姿を現して襲いかかってくる登場人物がいて筒井康隆のよう。 
 暮れてから雷雨。 
 深夜に土地規制法が成立。 

 6月16日(水) 
  資料の受け渡し等。 
 仁科淳句集『妄想ミルフィーユ』読了。 
 凝り、かすみ目で校正半日手が着けられず。 

 6月17日(木) 
  歯医者へ。 
 古本屋は何も出ず。 

 6月18日(金)~19日(土) 
  不眠、凝り、首の違和、吐気。 

 6月20日(日) 
  ジョルジュ・ボルトリ『スターリンの死』読了。 

 6月21日(月) 
  動悸。散歩にも出られず。 
 高柳克弘『究極の俳句』を読んだらしいNさんからDMあり。思い出して、書評原稿を渡したきりになっていた時事通信社に問い合わせてみたら『究極の俳句』評の拙稿、とうに各地方紙に掲載されていたらしい。 
 深夜、ニッポン放送「シン・エヴァンゲリオンのオールナイトニッポン」を聴く。四半世紀前のエヴァ特番も聴いたことを思い出す。 
 關考一句集『ジントニックをもう一杯』読了。 

 6月22日(火) 
  長年使っているガスコンロの五徳の脚が焼け落ちた。 
 関中子『誰何』読了。 

 6月23日(水) 
  俳句甲子園事務局から諸連絡。 
 松本美佐子句集『三楽章』、アイザック・アシモフ『暗黒星雲のかなたに』読了。 

 6月24日(木) 
  岬兄悟『風にブギ』再読。 
 「まちカドまぞく」第2期放送が来年4月からTBSでと発表される。それまで生きなければと呟くのが紋切型の反応なのだろうが、現状では洒落にならない。自分だけではなくスタッフ、キャスト全員無事であらんことを。 

 6月25日(金) 
  パソコンがネットに繋がらなくなり、サポートセンターへの電話は時間外。その前に投句を落としてあった「100年俳句計画」の選句選評だけ済ませる。 
 赤間学句集『白露』、河野稠果『人口学への招待―少子・高齢化はどこまで解明されたか』読了。

 6月26日(土) 
  動悸、上半身が痙攣。数時間横になって苦しむ。 
 ネット接続は勝手に復調していた。 

 6月27日(日) 
  資料読み。 
 凝りひどい。

 6月28日(月) 
  俳句甲子園全国大会投句審査にようやく着手。

 6月29日(火) 
  ひどい眩暈で動けず。 

 6月30日(水) 
  荷物を発送後、自転車で知らない道に入り迷子になる。筑波山を見て方角の見当をつけ、国道に戻る。

 7月1日(木) 
  歯医者へ。被せ物用の型取り。 
 古本5点買い込む。エリアス・カネッティ『マラケシュの声―ある旅のあとの断想』は生松敬三宛の訳者署名本だった。

 7月2日(金) 
  ひどい肩凝りで覚醒。 
 星新一訳『竹取物語』読了、眉村卓『ショートショート ぼくの砂時計』再読、米岡隆文最終句集『静止線』読了。 
 父はワクチン接種2回、副反応もなく済んだらしい。 

 7月3日(土) 
  岸本葉子句集『つちふる』読了。 
 NHKカルチャー「土曜俳句倶楽部」オンライン出講。Zoomに対応出来ない受講者が出て人数が減り、余った時間に最近の句集について話す。

 7月4日(日) 
  山本敦子さんから電話。寄贈いただいていた『鈴木明全句集 今日』には辞世の句《天涯の至純至白の滝の壺》が刷られた謹呈票が挟み込まれていたが、これは鈴木さんが亡くなってからすぐ差し替えて発送したらしい。鈴木さんをぎりぎりまで御自宅で看病されたとのこと。 

 7月5日(月) 
  友人からメール。地方の40~50代はワクチン接種がどこもなかなか回ってこない模様。 

 7月6日(火) 
 やや復調し、司馬遼太郎『歴史の中の日本』、呉座勇一『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』読了。 

 7月7日(水) 
  大串章句集『恒心』読了。 
 俳句甲子園全国大会の投句審査結果を送る。 
 コールサック社から来ていた『証言・昭和の俳句』復刊版の書影と広告が公表可だそうなのでツイッターに上げる。 

 7月8日(木) 
  節々が痛みだし、鎮痛剤をのむ。 

 7月9日(金) 
  第12回裕明賞冊子の初校をようやく済ませる。 

 7月10日(土) 
  有住洋子『陸の東、月の西』、保坂和志『読書実録』‎読了。 
 荷物の受け取りのために起き出し、待っている間にABEMA TVで無料公開中だった「ウマ娘 プリティーダービー Season 2」を全話見てしまう。トウカイテイオーがやたら大けがに見舞われるのが気の毒。

 7月11日(日) 
  俳句大会の選句結果他を発送。 

 7月12日(月) 
  前回(第11回)裕明賞冊子の句会部分等の校正。 
 エリアス・カネッティ『マラケシュの声―ある旅のあとの断想、遠藤周作『口笛をふく時』、井上靖『四角な船』読了。 

 7月13日(火) 
  日野百草『評伝 赤城さかえ』、遠藤周作『楽天大将』読了。凝りがひどく、読むのが遅い。

 7月14日(水) 
  凝り。空腹なのに胸が悪くなって物が食えず。 
 国保税の通知書が来ていたが、死ぬほどではなかった。 
 北山順句集『ふとノイズ』、日原正彦詩集『はなやかな追伸』読了。 
 数日前から腕が上がりにくく、キーボードのミスタッチが激しい。

 7月15日(木) 
  歯医者で被せ物をされ、予想外な診療費が飛ぶ。 
 久々にブックオフまで行ったが何もなし。途中ずっと天気雨。 
 靴が裂けたが、靴屋の手前で鳥に糞を浴びせられ、そのまま帰って洗濯。 
 直木賞の選評の件、絶望的なものが精緻に言語化されることによる希望というものもある。

 7月16日(金) 
  睡眠ズタズタ。凝り。 
 梅雨明け、猛暑。

『菊は雪』 俳句に詳しくない読者の方のために  佐藤文香

『菊は雪』を手に取ってくださった方のなかには、俳句全般には詳しくないけれど佐藤の作品を能動的に読みたい、と思ってくださる方がいらっしゃる可能性が、ゼロではないものと思われます。

俳句というのは、いや、言葉による創作というのはほとんど今まで用いられてきたもののコピー&ペーストでありますので、たくさんの言葉をさまざまな文脈で都度理解してきた方の方が、作品の理解が早かったりいろいろなことに気づく可能性は高いでしょう。ですが、俳句に詳しい人の方が、俳句をあまり知らない人より、”俳句が読める”人とは限らない。少なくとも、私の俳句については、そんな気がしています。

そこで、今回の句集のなかでとくにはっきりと意識して他の作品からいただいてきた言葉や気分があるものに関して、そのもととなっている作品をここに書いておきます(単純に単語をいただいてきたという以上には見えないものもあるかもしれませんが)。「菊雪日記」に書いたとおり、はっきりとオマージュの対象となっている作品はかなり有名なものが多いので、俳句の人からすれば野暮の極み、お笑い草間違いなし。さらに、無意識のうちに参照している先人の作品や、心をともにしているような同時代の作家の作品もあるかもしれませんが、それに気づくような人とはとりあえず今度一緒にお酒を飲みたいです。

私は、自分の尊敬する友人たちと比較すると、あまり多くの俳句を知らないので、私みたいな人の気持ちがわかります。たくさん作品を知っていて元ネタを指摘できる人の方がすごいみたいに見えてしまったり、自分は読者としてふさわしくないのかなと思ってしまったりして、なんか、淋しい。私はどちらかといえば、そういう人に寄り添いたい気持ちがつよいです。

だから、どんな方でも、下記の作品を『菊は雪』の句と比べていただいて、あーだこーだ思っていただければ幸いです。ここで面白いと思った作家がいれば、その人の作品を読んでみるのもいいじゃないですか。というか、私にとってそれ以上の喜びはありません。作者名をクリックすると、読みやすそうな書籍にジャンプするようにしてみました。まだ句集を読んでいないという方も、下記の句を見て気になったら、どこかで手に取っていただけると嬉しいです。

* * * * * * * * * * * * *

頁数/何句目の作品に関わるか 

 p10/2 
帰り花鶴折るうちに折り殺す  赤尾兜子 

 p11/1 
あなたなる夜雨の葛のあなたかな  芝不器男 

 p11/3 
思惟をことばにするかなしみの水草をみづよりひとつかみ引きいだす  川野芽生

 p71/2 
未だ逢わざるわが鷹の余命かな  池田澄子 

 p75/3 
飛驒の
山門(やまと)
考へ杉の 
みことかな  高柳重信 

 p94/1 
蛸壺やはかなき夢を夏の月  芭蕉 

 p94/4 
分け入っても分け入っても青い山  種田山頭火 

 p106/3 
銀座銀河銀河銀座東京廃墟  三橋敏雄 

 p116/1 
春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山  持統天皇 

 p124/3 
「楽しき納涼園 五句」  渡邊白泉 

 p137/2 
みちのくの星入り氷柱われに呉れよ  鷹羽狩行 

 p162/1,2(前書きの句) 
旅の旅その又旅の秋の風  正岡子規 
面白やどの橋からも秋の不二  正岡子規

2021年7月1日木曜日

意匠から    佐藤文香




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意匠から    佐藤文香

そちらの夏へ香る書物を携へて 
梅雨晴間ためしに川の詩をくれた 
仲夏の傘で形式の街角をゆく 
色の夏マルチメディアの草原に 
組み替へて汗かく鳥をつくりけり 
美青年夏の美質を蔑みぬ 
美中年宵の構図を手土産に 
意匠から自然へ君の羽ばたきは 
天然を憎むに疲れアボカド塗る 
食卓を囲む未来のかものはし

水母と快速     高山れおな




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水母と快速      高山れおな 

水母より綺麗な人とすれ違ふ 
葉書あり螢の穴場見つけたと 
父の日の夏蝶黒く遊ぶなり
   福島県南相馬市、大悲山石仏 薬師堂 
摩崖仏のつぺら坊の夏深し
   同 観音堂 
摩崖仏千手ただよふ涼しさよ
   同 阿弥陀堂 
摩崖仏ここに在りしが新樹光 
純粋な夏の朝日に慄けり 
梅雨の駅背にレオタード女人像 
快速の梅雨の灯過ぎし夜空かな 
文学のカラシニコフの晩夏かな

メタモルフォーゼン  関悦史




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メタモルフォーゼン   関悦史 

白壁・少年・極薄(アンフラマンス)・更衣 
万緑の蔓わが窓ゆ上がり込む 
南風や卒塔婆の果はスカイツリー 
ウイルスら変異し続け夏の霜 
昼寝覚ヒトデに変はりてもひとり 
風死すや怪獣東京ならば出づ 
東京ビッグサイトや盛夏なる空無 
空蝉の代はりに話す私かな 
夏寒し路面に西夏文字吐かれ 
七月は給水塔に憑いてゐる