2023年4月17日月曜日

小川軽舟『無辺』感想  佐藤文香

小川軽舟『無辺』(ふらんす堂)が第57回蛇笏賞、第15回小野市詩歌文学賞を受賞したそうだ。
軽舟さん、おめでとうございます。下記は送りそびれていた感想に、ちょっと書き足したものです。


前句集『朝晩』は「勤め人」としての俳句に特色があった。
ぱっと思いつく結社の主宰には専業俳人が多いが、小川は関西と関東を往き来するサラリーマンだった。「鷹」という大きな結社の主宰と会社役員のどちらもを全うするのは常人のなせるわざではないだろうと思うが、小川は「一般人の日常の味わい」に多く詩を見出すことで、ひとつ個性を獲得したように思う。
が、『朝晩』へのお礼メールで、私はえらそうにこんなことを書いていた。

あえて昭和30年代生まれの「標準世帯」のサラリーマン・夫・父の等身大を俳句の中で演じることが、のちの時代における“昔語り”の価値を持つということと解釈しました。

   芙蓉咲き自分らしさといふ鑑
   押し通す愚策に力雲の峯

いわば大衆性の未来を見据えた句作であり、何十年か先の朝の連ドラになりそうな句集だと思います。愚策の句は「雲の峯」の配合がなんともダサくて最高でした。筋肉のなさそうな二の腕で、一生懸命力こぶをつくっている50代男性の姿が見えてきます。

 とはいえ、私自身は現状、たとえ古びるとしても、言葉のあり方を発明し続けることに興味があるタイプの人間でして…軽舟さんの今回の作品のなかで、自分が考えていることと近いのは、下記のような取り合わせの作品でした。

   夕空は宇宙の麓春祭
   種馬は仔馬を知らず春の川
   溶岩垣を離れて高し黒揚羽
   大根畑雲みづみづと流れけり
   喫煙所驟雨の後の虹高く
   立葵小溝も潮の差しきたる

空色と奥に広がる宇宙、そして地の祭、その音、のように、五感のいくつかが刺激され、句のなかに時空が広がり、風を吹き込まれたような気分になれます。

さらに、(上五+中七連体形)切れ(3音の名詞+かな)という句型に好きな句が多かったです。
   バスタオル胸に取り込む躑躅かな
   福助の月代青き夕立かな
   讃美歌の文語やさしき芙蓉かな   (以下略)


さて、今回の『無辺』はどうだろうか。
見たかんじだと、サラリーマンとしての生活を描くことについては『朝晩』までで手応えが得られたようである。小川は現在62歳。キャリアも一段落する年齢だ。
一般人風のほがらかさは安定していて、なかでは次のような作品をいいと思った。

   バーベキュー薫風汚すこと楽し
   歯を磨く娘に並び初鏡
   住職は煙草をやめず桃の花

一般人「風」というところがミソで、句としてはしっかり面白みがある。バーベキューのあの煙が薫風を汚すと見立てる→「楽し」、歯を磨く娘と並びうる関係性→しかも「初」鏡、住職が煙草、しかも「やめず」→桃の花、のように平凡なように見えて2段展開している。

   若葉して神戸は古き港なり
   梅咲いて大きな犬にさはりたし

これらは植物の季節変化+ふつうの感慨・願望だが、上五をテ形にし、切れを句の途中につくらないことで、ふっくらと仕上げたところによさがある。

   ニュータウンの小さき葬式月静か
   珈琲はデカフェ夜長の窓あけて
   春泥もアドバルーンも昔かな

ニュータウン(の葬式!)、デカフェ、アドバルーンなどを句材として取り入れつつ(アドバルーンは昔を思い起こすものかもしれないが句材として手垢がついているものではないだろう)、「月」「夜長」「春泥」といった確実性の高い季語と無理なく結びつけ風情をものにする。

   蜜豆や出てみたかりし文学部

これは作者のプロフィールなしには読めない句だ。高卒の人の句か、東大法学部卒の人の句かで気持ちの成分が変わってくる。もちろん小川は後者で、しかもその後もドロップアウトせずに勤めを続けた(ている)わけだが、だからこそ僻みなどではなく純粋な文学への憧れ、さらにいえば文学のために身を持ち崩してしまえる(た)ような人たちの人生への憧れが、蜜豆のように甘くきらきらと、少し懐かしい色味でここに映し出されている。人生に幾度もある分岐点のうち、かなり初期の大きな分岐が学部の選択だったはずだ。文学部に進んだパラレルワールドの小川青年は、どんな60代を迎えただろう。

私佐藤の好きな傾向ということであればこのあたりか。

   干草や鳥も楽器も星座なす
   野に遊び爪なまぐさき夕かな

一句目は干草と星の句で、白鳥座、琴座といった星座名の話はずなのに、「干草」という実体を伴う季語に続けて「鳥」「楽器」と置くことで、そのふたつをいったん干草と等価に見せるマジック。「星座」が出てきたところで、リアルの「鳥」「楽器」ははかなく消え星々に変わり、干草の香る切ない夜となる。二句目、野遊びの夕べという穏やかな情感に「爪なまぐさき」という恐ろしい「本当」を挿入することで詩としての強度を高めた。

一番心に残ったのは、雪の二句だった。

   雪雲の須臾の夕映雪ちらつく
   終りなく雪こみあげる夜空かな

どちらの句も雪雲の空の景で、一句目は夕映のわずかな時間、二句目は長い夜。雪を生み出す空に時間・空間を与えることで、雪それ自体に踏み込んだ作品である。

あとがきに「無辺より来たって今在るものは、いつか無辺に消え去る。その過程で偶々出会えた物や心の端正な姿を、俳句の形に残しておきたい。」とある。「端正な姿」というところ、身辺のものどもを「端正」と見るのは、端正な人の心のありようであり大変小川らしく素敵だが、一方であんまり端正だと「私は」退屈してしまいそうだな、とも思う。

でもたぶん大丈夫だろう。

   電脳界曼荼羅無辺空海忌

句集『無辺』の表題句はこの作品。空海が持ち帰ったのは彩色両界曼荼羅。ネットワークに支配された曼荼羅のような電脳世界の果てしなさに立つ我々を、空海はどう見るだろうか。

「無辺」というタイトルと句集の装幀は端正さが際立つが、〈電脳界曼荼羅無辺空海忌〉という句には普通のサラリーマンが普通のおじいさんや普通の主宰になってしまわない覚悟が感じられて面白い。
どんな層をも代表することなく、小川軽舟ひとりの小川軽舟らしさが普遍に至る作品を期待したい。