先日、水野結雅の手製の冊子「不器用」と、俳句甲子園の常連校でもある名古屋高校文学部の部誌「文學帖」第十三号を受け取りながら、感想も返せないままになっていたので数句ほどここで鑑賞する。
作者はみな高校生なのでゼロ年代生まれとなる。(※水野結雅はこの4月から高校1年生)
以下は名古屋高校文学部「文學帖」第十三号(二〇二二年十月)から。
草餅の餡の仄照る夜行バス 幸村遥都(高二)
「草餅」と夜行バスの取り合わせの間を「餡の仄照る」が繋ぐ。これで長旅のさなか、間食に草餅を食べたという事柄ではなく、車内の灯りや外の街、あるいはトンネル内などの灯を浴びた草餅という物件にピントが合う。
移動中に食べそうなものとしてはあまり思い浮かばない草餅のかじられて晒されたしっとりとした中身が、無機質な人工の灯りとふれあうさまが清新。
まわりの乗客が寝静まっているなか、誰と話すこともなく食べる草餅に、ふと己の分身のような旅の孤心が宿りもする。
薔薇の芽やチーズケーキを二口で 永井宏征(高二)
何の変哲もない内容から豊かな瑞々しさが引きだされている。薔薇の芽が予感させる花の美しさを瞬時にチーズケーキの味覚に転じ、それをためらいもなく二口で食べてしまう少しももったいぶらないスピード感が通り過ぎた後、世界は美しく、そして食べ得るものでもあるという錯覚のような認識の余韻が生じ、後にはもとのままの薔薇の芽が残る。もとのままとは言いながらも薔薇の芽が担うイメージは句のなかで明らかに変容し、「チーズケーキ性」とでも呼ぶべきものを帯びた薔薇の芽となっている。
咲いてしまった薔薇の花や、甘い一方のケーキであったら締まらない句となっていた。
空蝉や金具の軋む革鞄 近藤荘良(高二)
幼虫の姿をそっくり残した蝉の殻の動かないゆえにかえって際立つ生命感と、鳴き声を立てるかのように金具を軋ませる革製の鞄は、どちらも生きものの体組織を素材とする容器という共通点をもってひそかに互いを認めあう。
しかし「金具の軋む」なる措辞からは、重く荷の詰まった革鞄も想像され、空蝉のように鞄のなかが今うつろとなっているのか否かは判然としない。もし荷が詰まっていた場合、その中身は殻を抜け出た蝉の成虫のように、独自の生きものとなって鞄から旅立ちそうなイメージもひそかに生じる。
金具の軋みはあらゆる生けるものと、そのなれの果てたる空蝉や革鞄の苦痛のかすかな記憶のようにも思える。
南風腹筋の溝深くあり 幸村遥都
南風と健康な身体というさして遠くない題材が取り合わせられているにもかかわらず、「腹筋の溝深くあり」と、密着する視線でもって身体をなぞりつつ句に彫りつけてゆくような言葉の流れが、句を読み下したときに充実感をもたらす。
そして腹があらわになっているので、描かれていなくとも海が自然に想像されるがその部分は句からは省略されている。密着する視線と省略された外光のはざまで腹筋が南風になぶられる。それはあたかも世界から掘り起こされ膚の官能性そのもののようだ。
なおこの句は特集「日間賀島合宿十句連作」なる企画のなかのもので、同じ一連に《級長の足が綺麗で夏深し》《合宿の友の寝顔や月涼し》といった句があり、器物のように見られた身体の一部と外光とのはざまに清潔な色気と生気が生まれる点で同趣向。
以下は水野結雅「不器用」から。
子規の忌のふりかけの黄のほぐれけり 水野結雅
子規というとその克明な食事の記録から強烈な食欲の人との印象が強くて、ふりかけ程度で納得してくれるだろうかとの思いが過ぎりもするのだが、ここではほぐれる「黄」のふりかけの慕わしさと「子規の忌」とが連なるキ音によって結ばれていて、そういえばニュアンスの複雑微妙さに乏しく目に刺さる警告色の「黄」の明るさは子規の句風に通じるところがあるのかもしれないと思わせられもする。
質素ながら飽きがこない柔和にほぐれるふりかけの食事が子規を親しく誘い出すさまには、やせ蛙相手に見得を切る一茶のような嫌みはなく、新鮮な古拙といった撞着語法を用いたくなる素直なよさがある。
再婚の父に日永の浮子流れ 水野結雅
実体験としての親の再婚は、ある程度以上の高齢の作者にはあまり起こらぬ事態だろう。現実にいくらでも起こりうる事態であるにもかかわらず、まずその点で俳句に入りにくかった題材。
句はドラマのワンシーンのようにまとめ上げられているが「日永の浮子」が、それを見やる父と子の、想いとも無想ともつかない視線と意識を淡々と受けとめつつ流し、図式的でない含みに富んだ清澄な明るさを句にもたらしている。