2022年12月15日木曜日

044*2022.12

 


10句
祝杯  高山れおな

10句
器官の氾濫   関悦史

10句
徳利  佐藤文香


散文

【訂正】「俳句雑誌 翻車魚」vol.6 手長猿号 

p12 関悦史作品 
〈何人か蒲団に縫い込まれてゐたる〉
 ↓ 
〈何人か蒲団に縫ひ込まれてゐたる〉 

 PDF版は修正後に販売予定です。

「隙自語乙」考  佐藤文香

「隙自語乙」とは「隙あらば自分語り乙(お疲れ様)」の略だそうだ。私は自分がまさに「隙あらば自分語り」タイプなので、きっと皆にこう思われているのだろうけれど、自分語りをするのがよくないということがイマイチよくわかっていないため、自分語りをし続けてしまう。

まず、私は他人の自分語りを聞くのが好きなので、自分が先手を打つ、ということがある。たとえば自分が出身地を言えば、相手も出身地を言ってくれることがある。もし言ってくれなくても、私の出身地に来たことがあるとか、特産品とか、話し始めることができる。話が弾むではないか。
なぜ他人の自分語りが好きかと言えば、基本的に他人に興味があるからである(興味のない場合ももちろんあるが)。「隙自語乙」と思う人は、そう思う相手のことが好きでないのはもちろん、好きな相手であってもその人に興味がないなどという謎の現象に見舞われているに違いない。私など、好きな相手でなくても自分語りの方には興味がある場合が多く、一人で飲み屋に行き、しばしば知らない隣の人の身の上話を聞いており、最終的に相手におごってもらってしまうことまである。その身の上話を引き出すには質問をするだけではなく、自分の情報を随時供給し、相手に「自分ばかり話して恐縮だ」と思わせないことが大切だ。
相手のことをたくさん知りたいときも、質問ぜめ、Q&Aになってしまうと相手が疲れてしまう。飲み屋などにおいては相手に話してもらって、少し落ち着いてご飯を食べてもらう時間をつくるために私の自分語りは欠かせない。相手にリラックスしてもらうためには、自分が提供する話が聞き逃してはならない重要なものであってはならない。
また、自分は本を読んだり映画を見たりしないため、感想を共有する、などということになり得ない。唯一のインプット型の趣味ともいえる宝塚でさえ、お芝居よりそれぞれの生徒に興味があるから、言ってみれば身内や友人の話の延長のようなことになってしまう。自分や相手、知っている人の話をするのが好きなのだ。

しかし、はじめにも言ったとおり私の自分語りに興味がない人も多かろう。なんなら、別に自分語りをしたくない、という人も多いと聞く。みんなもっと小説や映画の話をしたいのかもしれない。そういう場合私はその相手とどういったコミュニケーションをとればいいか。

一番いい方法は、相手と自分の1対1ではなく、自分とあと2人、趣味が合いそうな相手Aと相手Bにすることだ。そうすれば、基本的には相手Aと相手Bが話し、それを聞いていられる。自分はドリンクや料理を注文し、たまに「カツオうめぇ!」などと言っておけばいい。尊敬する友人であるAとBの話は自分にとって有益な場合がとても多い。居酒屋であってもメモを取ったりする。ふたりの話がつながらなくなったところで少し私が自分語りをすれば、案外盛り上がったりするものだ。
1対1の場合は、一緒に絵画やライブなどを見に行き、その感想を言い合えばいい。あるいはおいしいものを食べ、飲み、それについて感想を言い、わからないことを質問すればいい。ここ10年くらい、自分の知識や思考はほとんどこういう現場で培われてきた。要するに、自分の持ち札が自分語りしかなくても、相手の話を丁寧に聞いたり、その場で感想が言えたりすれば、学ぶことは多く友達も増えるということである。
何度も同じ相手と飲むときには、自分語りネタが重ならないようにしていかないといけないが、「またあの話か」と思ってくれているあいだは話を雑に扱ってもらうことができるので、案外何度も同じ話をするのも悪くないのではないかと思う。二度目だなと思ったときは、メニューを見て次の料理を頼んだり、トイレに行ったりしてくれていい。話した内容が有益だったかよりも、このメンバーがこの日に集まったことの方を覚えているものである。

後半完全に居酒屋の話になってしまっていたが、それでいい。
こういう文章でさえ、自分語りの一種だろう。しかし、聞き流しても罪悪感がない、というのは、意外に大事なことなのではなかろうか。

  中年に中年やさし鴨せいろ  佐藤文香


パイクのけむり XXⅢ ~復本一郎先生に御批正を賜る、以下、最近読んだ句集のこと~ 高山れおな

「翻車魚」6号拙稿訂正
「翻車魚」6号に対して何人かの方々からお葉書やメールでご挨拶をいただいたが、復本一郎先生からは〈「紅さいて」は、「紅さして」の音便ですよ。紅差す。〉との御指摘を頂戴した。復本さんは「呵呵」と笑っておられたが、こちらは「ガーン」である。
これは同号に載せた「『尾崎紅葉の百句』補遺」という拙文への御批正である。紅葉が新婚の弟子・小栗風葉に与えた〈あなにえや紅さいて口あけの春〉という句について鑑賞したのだが、当方はそこで、

〈紅さいて〉は〈紅咲いて〉で、若い花嫁の紅顔の美を讃えるのが第一義には違いない。しかし、〈さいて〉は「裂いて・割いて」も含意しているはずで、〈口あけの春〉は口紅を塗った唇の動きのクローズアップにもなっていると思わざるを得ない。

というふうに解し、〈艶めかしく受取れば受取れる〉云々と書いてしまったのだ。しかし、「あなにえや紅差して口あけの春」を「紅さいて」と表記したということであれば、艶めかしいとかなんとかはお角違いで、化粧をする新妻の様子をごく晴朗に詠んでいることになろう。『尾崎紅葉の百句』本体にも、どんな誤りがあるやら冷汗ものであるが、ご一読の上、お気づきのことあらばご指摘くだされば幸い。書店には、年明け一月五日頃から並ぶようである。以下、最近読んだ句集の感想を簡単に記す。

小田島渚『羽化の街』 現代俳句協会 2022.10.23
ひとことで言うとぶんぶん丸というのか。やたらめったら言葉のバットを強振する感じ。その多くが空振りのように思ったが、次のような句には魅力を感じた。

芋虫に咆哮といふ姿あり
臨月のごとき砂丘や秋の蝶
やがて鳥の心臓が生む冬銀河
目覚ましく育つわたしと青黴は
金魚の目光るプリンを食べるとき
冬の森われを異物のやうに吐く
どこをどう辿りてもつく死や朧
子猫から子猫分裂したやうな
日本語しか話せず海市さまよへり
白南風や軋む音して羽化の街

〈やがて鳥の心臓が生む冬銀河〉
は、高野ムツオが帯の十句選に入れているが、実際、たいへん高野ムツオ風の句ではある(作者は「小熊座」の所属)。一方、プリンを食べようとしたら金魚の目がふと光ったように見えたなどという句は高野にはありそうもなく、この作者独自のフットワークが感じられていいのではないだろうか。日本語しか話せず・・・の情けなさには大いに共感。しかしながら、〈春雨や大仏のなかがらんどう〉とか〈白鳥は悲恋を咽に詰まらせて〉とか、単なる空振りともしておけないような悪凡句がかなり目ざわりで、全体の印象を混濁したものにしてしまっている。〈つちふる街消しゴム積むる遊びかな〉なんていう句もあるが、「積む」はマ行四段活用だから「積むる」という活用はない。「積む」の命令形+完了の助動詞「り」の連体形で「積める」とするか、「消しゴム」のあとに「を」を補って「消しゴムを積む」とするかだろう。まあ、単なる「積める」の誤植かもしれないが。

恩田侑布子『はだかむし』 KADOKAWA 2022.11.7
この著者もバット強振系の作り手だが、小田島氏と違ってベテランで俳句的教養が分厚くあり、その限りで空振りは少ない。しかし、それが良いことばかりでもないとも思う。型通りの解決をつけているなと感じる句も少なくなく、それをテンションの高さというか、この作者ならではの情熱で押し切っている印象。終始、既視感につきまとわれる感じがあり、読んでいてそんなに楽しくはなかった。ひかれたのは次のような句。

毛氈の緋の底なしやひゝなの夜
春愁やはんこのやうな象の足
足もとのどこも斜めよ野に遊ぶ
草摘むやひと待つごとき地平線
振りむく子片手抱きして夏めけり
須佐之男のすねげは自毛里神楽
青苔にはづむや盲蜘蛛の恋
便箋のふちは螢にまかせやる


最後の二句は、雑誌の初出で見た際にも良いと思ったが、句集の中で読んでもことによろしいようだ。青苔の句は、「現代俳句」で神野紗希が名鑑賞をしていたと記憶する。

小山玄紀『ぼうぶら』 ふらんす堂 2022.11.19
ずっと『ぼうふら』だと思って読み続け、後半に入ったあたりで、

一人一個ぼうぶら持つて前進す

という句に出会って、ああ『ぼうぶら』だったかと気づく始末。熊本弁でカボチャのことらしい。竹岡一郎の『けものの苗』以来の空目タイトル句集だろう。一句目が、

鎌倉や歌声のする穴一つ

で、んっ?となって、三句目には、

絶えず鏡へ流込む谷の噂

などというのもあって(まさか谷雄介の噂ではないと思うが、どことなく谷雄介っぽい句ではある)、期待が高まる。なんだかわけがわからない句も多いが、そういうのを含めて、全体として面白かった。

大丈夫ここも鶯のこゑがする
さみだれの森の一番奥の顔
顔の中から新しき蔓と汗
竜胆色の切符かざしてゆく人人
西へ顔動かしてゆく桜かな
喇叭吹く方に浮巣のありにけり
白シャツ著て神の勉強捗りぬ
秋の瀧撮らむとすれば誰か泣く
小春日を壺の方角へとあゆむ
桃色のピアノの内の豪雨かな
歌声は霞うごかすこともなく
避暑の姉妹それぞれにある鹿のイメージ
父母に真赤な廊下続きをり


この句集の成功している句は、しばしば良い意味で気持ちが悪い。〈歌声は霞うごかすこともなく〉なんかもデリケートな、あるいはフラジャイルな気持ち悪さがあって、冨田拓也の〈天の川ここには何もなかりけり〉に匹敵する名句だと思う。

斉藤志歩『水と茶』 左右社 2022.11.25
巻頭が、

水と茶を選べて水の漱石忌

これはキレッキレで素晴らしいと思ったのだが、読み終わってみると、私にとっては出オチ感の強い句集ということになってしまった。

贈られてすぐにかぶるや冬帽子
間奏を揺れてゐる歌手手にミモザ
東風吹くや鞄を出づる犬のかほ
紙コップ多き祭の本部かな
紙の皿ふやけてきたり芋煮会
秋や手に文鳥の来てすこしにぎる

帯文(=解説の一部を引いたもの)で岸本尚毅が、〈とにかく、作者が楽しそうであり、俳句を通じて人生を面白そうに眺めている。〉と言っているが、読者自身に生活の細部を愛する態度が無くては、この句集は十分には楽しめないのではないかと思った。私などはどちらかと言えば陰気で観念的な人間で、生活の細部が楽しいというタイプではないので手が合わないということなのだろう。たとえばここに挙げた六句などに好感は持ったけれど、どうも満腹はしない。ただ、巻末の方にある

冬服やくちびる開いて歯の見ゆる

は、平凡かもしれないが、「冬服」の慎ましさがなんだかよくて、漱石忌の句と同じくらい好きである。


2022年12月6日火曜日

祝杯       高山れおな


クリックすると大きくなります


祝杯       高山れおな 

時雨忌や脚だけの母疾走す 
 十一月八日、皆既月蝕。
寒月の蝕を見る眼が口の中 
聖家族教会(サグラダ・ファミリア)冬星結び描くべし 
薔薇窓に架かる神の子憂国忌 
天敵や息白く来る紐に過ぎず 
さくらいまみんなはだかや冬灯 
列島に聖夜の機械尻洗ふ 
雪女と雪女なんの祝杯を 
 住吉の雪にぬかづく遊女哉 蕪村
雪女ぬかづく恋の氷かな 
雪女指紋ぺたぺた降る悦び

2022年12月1日木曜日

器官の氾濫      関悦史


クリックすると大きくなります


器官の氾濫      関悦史 

解剖学的嗅ぎたばこ入れ冷やかに
        解剖学的嗅ぎたばこ入れ=手の親指を反ら
        せたとき付け根にできるくぼみ 

釣瓶落しをKとして城目指さんや 
魍魎めく乳房秋夜の窓圧すは 
クラインの壺を娶れる秋たのし

    NovelAIの登場により、自動生成された一見きれい 
    な少年の絵も急増したがAIは人体の構造に無頓着 
AIショタ絵の奇形化ペニス冬薔らバrA 
蛸に肩揉まるる夢や霜月の 
冬や地のどこにも総白髪の赤子 
自販機に豚肉売られゐる冬晴 
ご飯よと自分に言ひて冬の暮 
財務省を業火ぞ包む聖夜かな

徳利        佐藤文香


クリックすると大きくなります


徳利        佐藤文香

黄落の庭や素面の君と遭ふ 
薄き日に澄む秋鹿も春鹿も 
ひやおろし舌に寛ぐ昼の月 
崎陽軒売り切れやすき冬はじめ 
中年に中年やさし鴨せいろ 
熟成の光のごとき鱚天麩羅 
掌に抱けば熱く分厚き徳利かな 
立つて飲むガメイあかるし漱石忌 
手洗ひにランプつめたきBAR琥珀 
風のこゑがれをまのあたりにしたり