七月半ばにアップできなかった文章を、半月遅れになりますが掲出します。「掃除日記」というのは、二〇二一年四月からつけている日記のタイトルです(そもそもは部屋の掃除の記録だった)。この七月の半ば過ぎ、たまたま立て続けに旅行することがあったので、その間の日記に俳句を付して、別記としました。
7月14日(金)
八時半、起床。十時、出社。八月号の校了二日目。本来、昼近くまでかかるはずが、進行が順調で大部分のページを昨日のうちにおろせたため、この日の作業は一瞬で終わった。見通しよりだいぶ早く、十一時には退社。十一時半、朝日新聞東京本社の選句会場に入る。すでに選句を始めていた長谷川櫂氏、大串章氏に挨拶。コロナ禍のため、選者が会しての選句は二〇二〇年春以来となる(この間は高山のみ朝日新聞社で選句、他の二ないし三選者のもとに、順次、投句ハガキを回していた)。選句会再開が急だったため、小林貴子氏は予定を入れてしまっており、やむなく昨日のうちに来社して選句を済ませたとのこと。お目に掛かるのは二週間後になる。長谷川氏は午後一時半、大串氏は三時までには選句を終えて退出。当方が選を終えたのは、三時半過ぎ。担当のNさんとしばらく雑談して四時に退出。
五時、東京都現代美術館の「デイヴィッド・ホックニー展」内覧会へ。十年来のiPadによる風景画には共感し難く、今展にも全く期待していなかったのだが、肖像画の部屋で思いがけず感動を覚える。iPad絵画そのものはやはりいかがなものかと思ったものの、見せ方には感心した(成功した富裕なアーティストならではという言い方もできるが)。
七時より、ABC本店で、東京国立近代美術館主任研究員・成相肇(なりあい・はじめ)氏の『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』刊行を記念したトークイベントを聞く。時に辛辣な成相さんと、本の中で描かれた時代をリアルタイムで知る(本で扱われているのは多くは成相さんが生まれる前のこと)写真家・石内都氏の掛け合いが愉快。学生時代の逸話などプライヴェートにわたる話題も出て興味深い。成相さんがまだ東京ステーションギャラリーの学芸員だった頃、「芸術新潮」の展評欄を三年にわたりご執筆いただき、その間はもちろん頻繁にやり取りしていたものの、個人的な話はほとんどしていなかったことに改めて気づく。イベント終了後、(謹呈本とは別に)本を買って、サインをしてもらう。当方の名前の代わりに、「芸術のわるさ 神農の教へ」と書いていただく。トークの最後に、同書に入っている「神農の教え」というエッセイのことが俎上にのぼっていたのだ。
毒にして毒消しの夜話涼しけれ
7月15日(土)
九時半に起床。正午から東銀座の徳うち山で、両親の喜寿の祝いの食事会。店を選んだのは妹で、選択の基準は、料理の最後に出てくる鯛茶漬けとのこと。いつの間にか鯛茶漬け大好き人間になっていたらしい。それも結構ながら、私としては焼き胡麻豆腐に感心した。俳人協会からの近刊『新房総吟行案内』では、能村研三氏から頼まれたとかで、父が「千葉はうまいよ何もかも」というエッセイを寄稿している。内容は自分が住む千葉の食材の品数と新鮮さは、広州にもプロヴァンスにもひけを取らないといういつもの持論だが、本人は中国にもフランスにも行ったことがないのである。文字通りの夜郎自大。とはいえ食に満足して暮らしているなら、それ以上結構な話はないに違いない。
二時に散会。渋谷区立松濤美術館で開催している「私たちは何者? ボーダレス・ドールズ」展を観るため、神泉に向かう。群馬県立館林美術館でかつて観た「再発見! ニッポンの立体」展のようなものかと予想していたが少し違う。舘林の展覧会は、西洋から入ってきた彫刻という制度と日本の伝統的な立体造形物の間のずれの問題を考えるもので、野心的な目標と実現した調査や展示の乖離という意味では失敗していたが、目標設定の壮大さや高邁さは言うを俟たない。一方、松濤の展覧会はあくまで日本の歴史の中の人形の展覧会であって、「ニッポンの立体」のような風呂敷の広げ方はしていない。古代の呪術で用いられたヒトガタから、近世の雛人形、幕末明治の生人形、現代のラブドールや村上隆の大型フィギュア作品まで、展示品はそれなりに多彩で楽しめるものの、コンセプト的には小ぢんまりとしている。どちらにせよ、この種の展覧会は世界の事例との比較抜きではもはや成り立たないのではないか、というのが個人的な意見である。
呪ユも祝クも笑める人形国クの夏
7月16日(日)
十一時半、起床。「オリジナリ」の原稿を見直して送付。午後は、部屋の掃除、家人に頼まれた食材の買出しなどに終始する。夕食の際、たまたまテレビが点いていて、名古屋場所の上位の対戦に三十分程見入るなりゆきとなる。相撲に関心を失ってやや久しく、名を知っている力士が一人もいない。いや、正確に言うと、知っている名前があっても、別人に代替わりしているのだ。たとえば琴ノ若がそうだ。琴ノ若と若元春が対戦するものだから、若と若でややこしい。豊昇龍と宇良の対戦は、相撲自体もさることながら、豊昇龍の面魂が気に入って、相撲好きイラストレーターの伊野孝行氏にショートメールしたら、それは朝青龍の甥です、とすぐにレスがあった。結びに出てきた霧島ももちろん旧知の名だが、現在の霧島はこれもモンゴル人。霧島も相手の翠富士も今場所は絶不調らしいのに、対戦自体はまわし待ったが掛かる熱戦となり、思いがけず堪能したのだった。
知らぬ顔相撃ち七月場所沸けり
7月17日(月祝)
六時に起床して家を出る。明日、花巻で取材の予定なのだが、前入りして、まだ行ったことのない遠野に足を伸ばそうという計画。寝不足のため、新幹線の車中では新花巻まで爆睡した。現地ではレンタカーを借りて、早池峰(はやちね)神社、遠野市立博物館、伝承園、カッパ淵などを回る。博物館の馬の展示が面白い。K県立K沢文庫のSさんから、遠野はジンギスカンが美味いとすすめられていたのに、研究不足のためジンギスカンの店にはたどり着けず。一日中、降りみ降らずみの空模様で、早池峰山が見えなかったのは残念だった。素晴らしかったのは遠野郷八幡宮の蜩。透明な声が無限に湧き出し、潮のように高まっては引き、引いては寄せ、重なっては流れて、その響きは何に喩えようもない。夜は花巻温泉のホテル紅葉館に泊まった。
ひぐらしの香水海(かうずいかい)の底にゐる
7月18日(火)
七時に起床。眠りは浅く、ずっと悪夢を見ていた。九時にチェックアウト。ホテルの向かいにあるばら園に入った。花の盛りとは言い難く、ややがっかりする。大野林火の句碑に、〈直立に南部赤松遠郭公〉とあり。宮沢賢治設計の日時計花壇などを見る(花はベゴニア)。引き続き、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治記念館、花巻市博物館を回る。記念館の展示はさすがに充実。恐れを知らない言葉のほとばしりにおののく。真にオリジナルな天才であることはもとよりとして、ほとんど狂気に近いものを感じる。「銀河鉄道の夜」の自筆原稿の展示を見られたのは収穫だった。
一時四十一分新花巻着の新幹線で写真部H君到着。本来はK沢文庫のSさんも同じ列車で来るはずだったのだが、小田原駅での切符購入に手間取って一本遅れる旨、ショートメールで連絡があった。ただちに成島毘沙門堂へ向かう。昨日来の天気はいよいよ悪化して本降りの様相である。
毘沙門堂のある三熊野神社の境内は丘陵の中腹に位置し、目的の兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像は、本来の毘沙門堂からさらに急斜面を上がった収蔵庫に安置されている。まずは神社本殿をはじめ境内をスナップ。その後、参道下に止めた車からブツ撮り用の撮影機材を運び上げようとする折しも、雨はいよいよ強くなり、H君も当方もずぶずぶのどろどろとなった。こんな取材はじつに久しぶりだ。なんとか態勢を整え、撮影にかかろうかというところでSさんも到着。Sさんは東北大学の出身だからここは何度も来ているのでしょうと尋ねると、平泉は調査で通ったけれど成島に来るのは二十年ぶりくらいだとのこと。
兜跋毘沙門天立像は像高五メートルに近く、両腕や天衣は別材ながら、頭体幹部(とうたいかんぶ)を一木から彫り出している。ずどんと大きな丸太さながらの物質感の一方で、彫刻的なバランスもよく取れている。平安中期十世紀の作というところまでは諸家の見解が一致しているものの、十世紀のどこに置くかが問題。毘沙門天を支える地天の顔の表現などから定朝様(じょうちょうよう)に近いと判断して時代を下げる人もいるが、Sさんはむしろ時代を上げたいようだ。北上市にあった極楽寺(廃寺)に祀られていた、成島像のさらに一・五倍程の法量があった兜跋毘沙門天像をプロトタイプとしているのではないか、というのがSさんの考え。この規模の造立には、当地の社会的動向が深く関わっているはずで、つまりは前九年の役・後三年の役の前史をどう考えるかの問題になるのだろう。
千年の巨像も虚像梅雨に立つ
7月19日(水)
九時半、起床。昨晩は十時前に帰社したものの、台割を確定させる作業のため、退社は十二時近かった。洗濯してから出社。台割を仕上げて送付した後、九月号のニュース関係の打合せが続く。夕方からはルネサンス特集の原稿をチェックする。木・金と代休を取るため、済ませなくてはならないことが多い。十時に退社。明日からの旅行の準備をして一時に就寝。
三伏の灯に見る稿の堆く
7月20日(木)
代休と言い、旅行と言っても、じつは九州に行く十月号の取材チームに私費でくっ付いて行くのである。昨年の暮に亡くなった磯崎新先生の特集を組むのだが、私もかつて少しご縁があり、これを機に九州にある作品を見ておこうと思ったもの。この日はまず大分に飛び、旧県立図書館(現・アートプラザ in 1966)と現在の県立図書館(豊の国情報ライブラリー in 1995)を撮影した。細かくは記さないが感銘は浅くない。最後に回った岩田学園も校舎や体育館、学生寮などの建物ごとに、1960年代のブルータリズムから2000年代のポストモダンまでを展望できる稀有の場所だった。校地は大分川のかつての中州にあたり、脆弱な地盤を補強するため、ぐるりにクスを植えている。現在地への移転からすでに数十年を経て、木立は亭々として茂りが深い。夜は、別府駅前ホテルアーサーに泊まった。
すれ違ふ声みな若き樟落葉
7月21日(金)
ビーコンプラザ(別府国際コンベンションセンター in 1995)を撮影した後、小倉へ移動し、北九州市立美術館(in 1974)、北九州市立中央図書館(in 1974)を取材する日程。ビーコンプラザのグローバルタワーは、エレベータが入った円筒に、巨大な円弧の一部を組み合わせたデザインで、高さは百メートルある。頂上部の展望デッキには昨夕のうちに登ったが、この日は外観の撮影のため、周囲をロケハンした。裏手の山に観覧車らしきものが見え、そのあたりからの眺望はどうだろうかと近くまで行ってみると、燃えるような緑の斜面の果てに異形の塔が聳える案配ですこぶるシュール。くだんの観覧車は、ラクテンチという遊園地のもの。山上の盆地状になった敷地に、さまざまなアトラクションが点在しているのが見える。人の気配が無く、営業しているのか廃墟なのかいぶかしかったが、十時になると観覧車が動き始めた。廃墟ならば、それはそれで磯崎先生の若き日のヴィジョンそのものなのだが。夜は、JR九州ステーションホテル小倉に泊まった。
よく灼けて昭和の夢の遊園地
7月22日(土)
午前中に西日本総合展示場本館(in 1977)と九州国際会議場(in 1990)を取材してから福岡へ移動する日程。福岡では薬院のやま中(in 1997)で撮影。磯崎先生の作品には、美術館や図書館、コンサートホール、スタジアムなど大型の公共施設が多く、住宅でさえごく限られる中で、個人飲食店のデザインは稀有であろう。磯崎先生とは、大将がまだ独立する以前から、六十年程の付合いになるという。中国に出張する際など、よくここで鮨を摘まんでから空港に向かったらしい。カウンターは木曾ヒノキの巨大な一枚板で、職人たちの背後はインド砂岩を砕いた粒子を塗り込んだという赤い壁だ。頭上には、イサムノグチのAKARIを思い切り長く引き延ばしたような、和紙を張った照明が浮かんでいる。撮影後、いったん町へ出て、夕方ふたたび店に戻って食事にする。先生がよく食べていたという鯨が出る。酒もこの店での先生に倣って。
晒鯨と焼酎をもて偲ぶなり
7月23日(日)
取材班は昨夜八時四十五分発の飛行機で東京へ帰ったのだが、当方は一人残り、ホテルアクティブ! 博多に泊まった(この頃はホテルの名称もきらきらネーム化している?)。主目的は例の御朱印巡り。宗像大社中津宮(なかつぐう)が鎮座する筑前大島と往来する船便が限られるため、五時前に起きる仕儀となった。
神湊(こうのみなと)より大島に渡る。
近づくと見えで近づく夏の島
恐ろしき緑の島の神へ参る
宗像大社中津宮。七夕祭の設け、早やきらきらし。
星祀る飾りに高き夏日かな
レンタサイクルで、大島北岸の
宗像大社沖津宮(おきつぐう)遥拝所へ。
この日、沖ノ島は見えず。
浜木綿の沖に霞みて坐す神
宗像大社辺津宮(へつぐう)の高宮祭場は、宗像三神のうち
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の降臨したところといふ。
社殿を築かず、矩形の石囲ひに砂利が敷き詰めてあるばかり。
思へたゞ沙踏み鳴らす御ン裸足
神宝館で収蔵・展示する沖ノ島出土の神宝類は、
一括して国宝に指定されてゐる。無慮八万点を数ふ。
国宝充満照度抑制冷房強
福岡市内に戻り、香椎宮、筥崎宮、承天寺、櫛田神社を回る。句無し。
七時四十分の飛行機に乗る。九時過ぎ、羽田に着く。
*「句無し」と記したが、その後、追加して作った。
別掲の俳句10句のうちにあり。