2021年1月15日金曜日

021*2021.1



★2021年1月1日、高山れおなが加入しました。
・「翻車魚」4号の通販を終了しました(一部書店にてご購入いただけます)。
・2021年中に既刊4号すべての電子化を予定しています。
・「翻車魚入門」「翻車魚メンバー」「俳句雑誌 翻車魚」のページを更新しました。

作品 

パイクのけむりⅠ ~「人類」俳句小考~     高山れおな

元日、年賀状のひと束と共に届いた「古志」二〇二一年一月号をひらくと、巻頭の見開きに「筑紫恋し」と題して大谷弘至主宰の作品が載っている。標題作は、

つくつくし筑紫恋しはわれのこと

で、一連十五句の季語はすべて秋季になっている。この筑紫が九州を指すことは先刻承知していても(大谷さんは福岡の出身)、筑紫磐井の弟子としては一瞬ギョッとしたのは確かだ。しかし、一瞬ではなく、ギョッとがずっと持続している、つまりは感銘した句は別にある。

人類の富のはじめの種を採る

「種採/たねとり」という季語は、近代のもののようで、歳時記には、

台風はきぞに朝顔の種収む  臼田亜浪

枯蔓に残つてゐたる種大事  山口青邨

歯のごとき夕顔の種子瓶に殖ゆ  横山房子

手の平にもんで吹きつつ種を採る  福本鯨洋

といった例句が並ぶ。虚子の新歳時記には、〈春播くべき草花の種を採りをさめることである〉と説明してあって、他の本の記述も大同小異。草花とは、たとえば朝顔・鳳仙花・鶏頭などのことらしい。

大谷は、この「種採」の趣意を過激に拡張して使っている。直接的な行為としては歳時記が言う通り、庭なりベランダのプランターなりに植えた草花の種を採っているわけだが、そこから新石器時代の農耕のはじまりへと連想を及ぼすのは、どう考えてもこの季語が本来想定している用法の範囲には含まれないだろう。

紀元前九千年頃までに、トルコの南東部とレヴァント地方の丘陵地帯で小麦が栽培植物化されたのが農耕のはじまりとされる。以後、中国、インド、メソアメリカなどで個別に(中東からの伝播ではなく)、その土地固有の植物の栽培植物化が開始された。これが人類社会の階層化、分業化の直接的な基盤となり、やがて近現代の人類に未曾有の富をもたらすことになる。プランター(作者はマンション住まいのようなので仮にそのように実体化しておく)から朝顔か何かの種を採る自らのわびしい楽しみを、一万年前の、常に飢餓線上に生きていた人類の祖先の、やはりわびしく貧寒たる、しかし決定的な行為に重ね合わせたところに一句の興はある。注意すべきは、「人類の富のはじめ」という言葉を、ストレートに肯定的に取ることは、少なくとも作者の志向とはすれ違う可能性が高いだろうことだ。

腹の中土ばかりなる蚯蚓鳴く   二〇一〇年

熊の息木の実を喰うてかぐはしき   二〇一一年

一つ足す枝の軽さよ鴉の巣   二〇一二年

初蛙金の涙を溜めゐたり  二〇一三年

土食うて枯れたる声か蚯蚓鳴く   二〇一四年

大谷の第二句集『蕾』(二〇一九年刊)で特徴的なのは、驚くほどの「人類」の影の薄さだ。代わりにそこには、上に引いたような、動物たちに対する濃やかで幻想的な視線がある。端的に動物好きなのかもしれないが、それ以上に私が感じるのは強い人間嫌いの気配である。この作者の今のところ最も有名な句は、第一句集『大旦』(二〇一〇年刊)の標題作ともなっている、

波寄せて詩歌の国や大旦

であろうが、これなども短歌や俳句が栄える素晴らしい国・日本よ、というふうに取ってはおそらく見当違いになる。「詩歌の国」とは日本にして日本にあらざる非在の国なのであり、この句の眼目はむしろ詩歌によって現実(の日本)を相対化することにあるのではなかろうか。私としては、「人類の富のはじめ」にも、一抹の呪詛の匂いを嗅ぎ取ってしかるべきと思う。もちろん、「詩歌の国」とて「人類の富」あってのものであり、そこにはどこまでも両義的なニュアンスがつきまとうことにもなるのだが。

ところで、「人類」の語を詠み込んだ秀句として私などがすぐ思いだすのは、

人類の旬の土偶のおっぱいよ  池田澄子 二〇〇一年

人類に空爆のある雑煮かな  関悦史 二〇〇九年

である。いずれも二〇〇〇年代のものであり、これに〈人類の富のはじめの種を採る〉を加えると、「人類」という言葉が俳句の用語としてかなり熟してきた印象を受ける。過去の用例を自分で広く探る余裕がないけれど、用語別に例句を集めたサイト(俳句季語一覧ナビ)を見ると、

人類に残せし日記読みはじむ  野見山朱鳥

氷河期の人類と共に悴みぬ  相馬遷子

人類明日滅ぶか知らず蟲を詠む  同

あたりが、作者から考えて古い作例だろう(朱鳥が一九七〇年、遷子が一九七六年に没)。氷河期の作など大谷のものと発想的に似ていないこともないが、いまひとつ曲に乏しく、細みに欠けるのを憾みとする。彼らより年上の永田耕衣にも、

人類を泥とし思う秋深し

人類の泥眼の秋深みかも   *「泥眼」に「でいがん」とルビ。

などがあって、特に泥眼の句はさすがだろう。ただし、これらの句の「人類」には人類史的な人類という、大谷や池田・関らの句におけるようなニュアンスはやや希薄な気がするがどうか。人類の語自体は古くからある言葉だし(荘子などの古典に用例あり)、耕衣はそもそも人の字を含む単語を多用する傾向がある。上の両句の人類は、そうした老人や人体といった耕衣愛用語のヴァリエーションという感じがする。なお、これらの句を録するのは『泥ん』(一九九〇年刊)で、制作の時期は朱鳥・遷子の作よりぐっと下って八〇年代も末である。

さて、現存作者の句としては他に、

犬と見る人類全盛時の桜  桑原三郎

人類の若かりしとき葡萄摘  長谷川櫂

さらしくじら人類すでに黄昏れて  小澤實

粗衣粗食なりし人類はるいちばん  正木ゆう子

あたりが目につくが、どれもそう悪くはないものの大したこともないという水準のものか。と、人の句を引いているうちに思い出したけれど、私も〈底紅や人類老いて傘の下〉という、そう悪くもないが大したことのない句を作っていました。ガクッ。

以上、少々見た中で、用語の歴史という点で注目すべきは、遷子の〈人類明日滅ぶか知らず蟲を詠む〉だろう。一九五九年の第五福竜丸事件などを通じて日本でも強く認識されるに至った、核戦争の不安が背景にあると思って間違いない。黒船来航がもたらした不安が日本人の国民意識を急速に一般化させたように、核戦争の不安が人類という意識を一般化させた理路は、コロナ禍による混乱がまさに人類という意識を強化しつつある現在、たいへん実感しやすいところだ。

核戦争の不安を背景にした終末意識は以後数十年にわたり、あらゆる表現ジャンルおいて創作の動機をなしてゆくが、朱鳥や遷子の作品と同時代に書かれた俳句以外の文学作品として、たとえば三島由紀夫の『美しい星』(一九六二年刊)がある。この、反核だの反戦だのからおよそ遠い小説家は、同作の中で人類の墓碑銘の草案なるものを示している。自らが宇宙人であるとの意識に目覚めた主人公たちが、人類を存続させるべきか滅亡させるべきか激論を交わす場面で、存続派のリーダー(飯能の資産家で火星出身の大杉重一郎)が、絶滅派のリーダー(仙台の万年助教授で白鳥座六十一番星付近出身の羽黒真澄)に提示するのである。

だが、もし人類が滅んだら、私は少くとも、その五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を書かずにはいられないだろう。この墓碑銘には、人類の今までにやったことが必要かつ十分に要約されており、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかったのだ。その碑文の草案は次のようなものだ。
『地球なる一惑星に住める
    人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきっぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾った。
彼らはよく小鳥を飼った。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑った。
   ねがわくはとこしえなる眠りの安らかならんことを』

この人類の「五つの美点」について、新潮文庫版の解説で奥野健男は〈超遠距離から眺めた人間の姿〉と言っている。そうも言えようが、私にはむしろ俳句的に、より正確には花鳥諷詠的に眺めた人間の姿という気がする。この傍観者性、余裕を漂わせたほどほどの社会性とほどほどの感傷性が、なにやら花鳥諷詠っぽいのだ。いや、じつは『美しい星』には、そのものずばり俳句絡みのなかなか笑えるネタもあるのだが、もうだいぶ長くなったので、今回はこのへんでやめておくことにする。

            *             *

これから毎月一回、翻車魚ウェブに文章を出させていただくことになりました。通しタイトルの説明をしておきますと、パイクはいわゆる「俳句に似たもの」の高山版をさす造語で、第三句集『俳諧曾我』では「パイク・レッスン」という一章を立てております。このパイクを、作曲家の團伊玖磨がかつて「アサヒグラフ」に連載していた名物エッセイ「パイプのけむり」にひっかけたわけです。

團の連載は千回の余も回を重ねたそうで、順次、二十七冊の単行本に纏められました。単行本は機械的に第何巻などとはせず、二冊目が「続パイプのけむり」で、以下、「続々」「又」「又々」「まだ」「まだまだ」「も一つ」「なお」といった語を冠してつづいていくのを、子供心に(父親が単行本をたくさん持っていた)洒落てるなあと感じました。これが、私が日本語の面白さにめざめた最初です(ほんとか?)。

祖母と俳句   佐藤文香

母は俳句結社「澤」に入っていて、すごく熱心というほどではないが俳句を書いている(その話は→こちら)。今回は母の母、つまり私の祖母の話だ。

祖母は三重県に住んでいて、病気をして今は施設にいるが、以前は英会話を習って国際交流に参加するなどかなりいろいろ習い事をしていた。そのひとつに俳句もあった(そう言うと三世代で俳句をやっている家系みたいだけれど、母も祖母も、私が俳句を始めてから俳句を始めたので、私はその二人から俳句を教わったりはしない)。

祖母は近所の俳句講座の先生の縁で廣瀬直人主宰の「白露」に入会し、「白露」終刊後は井上康明主宰の「郭公」に入会したらしい(現在は退会しているだろう、たぶん)。山梨に縁があるわけでもなく、主宰のこともよく知らず、地方のおばあさんがその地域の同人に誘われて入ったという、俳句結社にはいくらでもいる会員の一人だったはずだ。実際祖母は、句会で皆と会い、お菓子などを交換し、いつも猫の句を投句し、調子のいいことを言っては場を盛り上げているつもり、といった雰囲気で、しかし句会や碁会などにはそういった老人を見守る機能もあるので、家族としては祖母が俳句をやっていることをありがたく感じていた(まわりの方に感謝)。

この世代(昭和9年生まれ)には珍しく中学校の国語教員として定年まで働いた人なのだが、退職後はプライドを封じておどけることで十分な友人を獲得し、それに満足し、少なくとも俳句について多くを学ぼうとした形跡は少ない、と孫ながらに判じているところがあり、それについて、とくに残念だとも思わなかった。たまに私の作品が掲載された俳句雑誌を送ったりすると、俳句の先生に自慢したりする様子で、俳句が自慢のタネになるならおばあちゃん孝行もやりやすいものだ、くらいに考えていた。

一昨年からの病気と手術ののち、祖母は施設で車椅子での生活を余儀なくされ、本を読む気も起きず、もっぱらテレビで情報を得て過ごしているようで、俳句雑誌などを送ってもしょうがないかなと思っていたのだが、12月に刊行された『ハンディ版 オールカラー よくわかる俳句歳時記』(石寒太編・ナツメ社)は、カラー写真が多く、文字も大きい部分と小さい部分のメリハリがあり、これなら少しは見ようという気になるかなと、試しに送ってみた。私の俳句も3句掲載されているので、孫の句が載っていると施設の人に自慢できればそれでよかろう、と思った。

祖母からさっそく届いたと電話があった。開口一番、「あやかちゃんすごいなぁ。高野素十や鍵和田さん(鍵和田秞子)や飯田蛇笏と並んで載っとるやんか?」と言う。なぜ鍵和田さんを知っていたのか、鍵和田さんだけ友達みたいに呼んでいるのかはわからないが(だいたい同年代で彼女も教員だったからだろうか。今度電話したら聞いてみよう)、素十や蛇笏の名前がわかるというのは、自分の祖母としては上出来である(という言い方をするのは、私のまわりの80代以上の女性というのは池田澄子、遠山陽子、柿本多映であるからだ。この人たちが凄すぎる)。

さらに、「あやかちゃんの千鳥の句に癒されたわ。あれいい句やなぁ」と言う。これには驚いた。千鳥の句というのは〈ほほゑんでゐると千鳥は行つてしまふ〉で、この句自体はどちらかといえば淋しい、癒すような句ではないつもりだったのだが、たしかに歴史的仮名遣の文字の心地や「ほほえみ」「千鳥」などから想起されるやさしさに、感じるものがあったのだろう。わからないと言われないだけでもありがたいのに、自分の句に思いもよらない副次的な効果があることを指摘されたようだった。句意が読み取れていないことなど、もはやどうでもよい。

「去年おばあちゃん手術したやろ? 全身麻酔からさめて、俳句の作り方忘れたんさ。でもまた作ってみよかな」
「ええやん! 猫川柳でもいいでさ、なんか思いついたら書いといて、で、また見せてな」

祖母がまた俳句を書くことがあってもいいし、なくてもいい。もし一句でもできたなら、私は彼女の作品の読者になりたいと思う。いつか、今までつくったものも、すべてまとめて読みたい。

  木もれ日の神馬の辺り淑気たつ  佐久間尚子
           三重県 全国俳句募集「天の一句」佳作 伊勢おもてなし部門より

2021年1月1日金曜日

初イベント【翻車魚選評 on Zoom】優秀作品&ミニレポート  佐藤文香

 初イベント【翻車魚選評 on Zoom】
2020/12/27 20:00~ 
ホスト 関悦史&佐藤文香
コンテンツ
・翻車魚的2020年回顧 
・翻車魚選評 
・関井えつきによる"俳句のようなもの"の添削 
・まとめ&重大発表「高山れおな加入!」 


 2020年は文学フリマに出店しなかったため、翻車魚初イベントをやることにしました。NHKラジオ第1に「文芸選評」という番組があり、関も佐藤も選者として出演したことがあるのですが、それみたいなことをやろう、ということで。さらに、セキエツ先生が俳句でない文字列をなおして俳句にするコーナーを設け、あらかじめ俳句作品および身の回りにある【俳句のようなもの】を募集しました。おかげさまで47句+俳句のようなもの9つが集まり、たっぷりお話しすることができました。「翻車魚」購入者限定、あくまでもゆるいエンタメとはいえ、いつもどおりのセキエツトーク。なかなか面白かったのではないでしょうか(佐藤は面白かったです)。 

 まず回顧では、「翻車魚」4号の誌面と関さんの一年を振り返り。『柿本多映俳句集成』編集の話、田中裕明賞のオンライン選考会や俳句甲子園の審査員が半分オンライン参加だったこと、「俳句αあるふぁ」の休刊が決まったことなど。角川「俳句」1月号では関さんが座談会に参加しています(宣伝)。 

 ここで、メインコンテンツ「翻車魚選評」の各お題の優秀作品(関悦史選)と当日話題に上がったなかから佳作(佐藤文香選)を掲載しましょう。 

【お題A】「まん」「ぼ」「う」の折句 
優秀賞 マンガン電池のぼつと液漏れうまごやし   菊川和奏 
佳作  満月や坊主めくりの有卦に入る       永井羊子 
佳作  漫画家がぼつたくらるる海の家       丹下京子 

【お題B】つかったことのない新年の季語の句 
優秀賞 新型コロナ御斎会内論議         ごしゅもり 
佳作 浅草寺亡者送りで送られて         沼尻つた子 
佳作 鶴が見る鶴の包丁浮き沈み         ごしゅもり 

【お題C】関悦史、あるいは佐藤文香についての句 
優秀賞 ほんたうを許す君たちコート着る       中矢温 
佳作  わが嫁が君に目があり見開かれ       有本仁政 

【俳句のようなもの】関井えつき先生による添削例  
キルギスの野生の殻付きアーモンド  (商品名/丹下京子さんの提案) 
→キルギス晩夏の野生殻付きアーモンド (アーモンドは季語と捉えない)  

日葡辞書「カノヒトノコワイロガヨイ」  (『広辞苑』第6版より/佐藤の提案) 
→昼顔曰ク「カノヒトノコワイロガヨイ」  (加藤郁乎〈昼顔の見えるひるすぎぽるとがる〉より) 

 最後に、2021年から高山れおなが新規加入することを発表し、おひらきとなりました。「翻車魚」読者は案外地方の方も多いので、またこういったゆるめのオンラインイベントを開催したいと思います。



それは愛      高山れおな


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それは愛      高山れおな 

  二〇二〇年十一月二十六日は陰暦では十月十二日だつた。
雲迅し三島忌明けて時雨忌の 
寒星よ震へる指よ満天に 
香港は坑(あな)に我らは着ぶくれて 
いんへるの冬の夜景となれば美(は)し 
  年末年始は震災関連俳句を大量読み直し。
有季定型の白鳥の騎士の君に乾杯(カンぺー) 
金星(ヴィーナス)を呑みゆく初日それは愛 
竜顔を太陽冠(コロナ)縁取る四方拝 
迫りくる御慶の息が白し怖し 
君やむかし初雀めく姫始 
寒の水情熱価格炭酸入り

打消       佐藤文香

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打消       佐藤文香

シュトレンに実の断面や遅き朝 
さざなみの銀座に昼の日傾く 
まちなみをたづねてまはる星のこゑ 
冬のみづひき惑星の夜と夜を結ぶ 
星々に雪ふる空を授けたる 
除夜其方のパフェを短きスプンにて 
恒星其方ゐながらにしてあをく遠し 
去年今年みづに育ててバジルの根 
寒菊の息に主根と側根あり 
ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪

聖夜      関悦史


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聖夜      関悦史

感染待つ寒暁フルーツグラノーラ 
マスク取り顔なき口となりにけり
寝つつ見るサイトの宿の布団も恋ふ
撫づる手に猫や抱きつききて師走
ドレスのごと路上に横たはり枯蓮
ドラッグストア愉し聖夜を灯に荒み
聖夜すでに客足絶えし生肉たち
暴走族聖夜をつねの遠響き
あらゆるフライはタルタルソースの台座に過ぎぬ鱈に海老
数へ日の仕切りの堅きベンチかな