2023年10月18日水曜日

054*2023.10






10句
渋谷道頓堀劇場  佐藤文香

10句

10句

散文
京都の日々(のんべえ大学 秋の遠足Day2) 佐藤文香

散文
パイクのけむり XXXⅡ ~日々に未来を素描したとせよ~  高山れおな

京都の日々(のんべえ大学 秋の遠足Day2) 佐藤文香


京都文学レジデンシーは、海外から作家を京都に呼び、3週間滞在してもらって、いい作品を書いてもらおうという企画だ。こういったレジデンス企画、世界ではわりとメジャーになってきているようだが、日本ではこれが初めてということらしい。受け入れ側の日本人作家として応募したら、ありがたいことに参加させていただけることになった。参加条件は、オープニングイベント(トーク)への登壇、クロージングイベント(リーディング)への登壇のみで、皆でどこかへ行くだとか、作品提出の義務はない。


オープニングイベントの様子⇧

テキストによるダイジェスト⇧

クロージング・イベント朗読会は10月21日(土)17:00~19:00に真謡会館にて開催される。申込不要なのでお近くの方はぜひどうぞ。詳細


今回は参加者が5名ともたまたま女性ということで、全員同じ女子寮に滞在しており、朝ご飯のときに会ったり、メッセージで連絡をとりあったりして、ゆるく交流している。アルゼンチンから来たルースさんはGoogle mapに立てまくってあったピンをもとに毎日いろいろ見てまわっている。看板のイラストが面白いらしい。ベルギーから来たモードさんは、生八橋をたいそう気に入った!とのこと。オーストラリアから来たジョセフィンさんは、直島に行くにあたって飲みかけのオレンジワインを託してくれた。
日韓の翻訳者であるバンファさんはすでに飲み仲間。京都在住歌人で、今回この企画を私に紹介してくれた大森静佳さんとバンファさんとは岡山出身同士ということで仲良くなり、3人で酒蔵や二条城へ行ったり、静佳さん宅へ押しかけたりした。

「蒼空」の藤岡酒造にて


さて、レジデンシー期間中、とにかくいろんな人と酒が飲みたい私は、10/14,15の2日間「のんべえ大学 秋の遠足」を企画した。
1日目は伏見吟行、句会、飲み会。句会には伏見在住の俳人の中田剛さん、京都の若手俳人山口遼也さんをお招きし、のん大としては中牟田政也、浦塚未来、阿波野巧也、八上桐子、大森静佳、三田三郎、佐藤文香が参加(欠席投句;土岐友浩、選のみ;石松佳)。
これについては、のちほど発行する「Pegazine 04」にて簡単な報告を載せるので(11/11文学フリマ東京 Pegasus Books【U-42】にて販売予定)、ここでは2日目について簡単に書く。

「のんべえ大学」とは、コロナ禍においてツイッター(現X)上で自然発生した詩歌人によるゆるい遠隔的飲み集団である。が、毎夜タイムラインに集うのんべえの面々の素面時(?ときに飲んでから)の作品は素晴らしく、ただ飲んでいるだけではもったいなく感じた私は、同じくのんべえである書店員の猪股さんと共謀し、紀伊國屋書店国分寺店にて選書フェア「のんべえ大学詩歌学部」を開催した。それが5月〜6月のことだ。

今回、京都に滞在するにあたり、一部京都用に変更して京都の書店に巡回することを企画した。なぜなら「のん大」の中心メンバー5人のうち魚村晋太郎さんと大森静佳さんの2人が京都在住だから。ありがたいことに、実行委員の一人であるCAVA BOOKSの宮迫さんが繋いでくださり、京都の読書人なら誰もが訪れる恵文社一乗寺店にて開催させていただけることになった。というわけで、のん大メンバーで恵文社一乗寺店を訪れたのが、前述「秋の遠足」の2日目である。


あのおしゃれ空間にのん大が!?大丈夫なのか…?と思ったが、案外大丈夫だった。
特製のぼり(字;佐原キオ)はここでも健在。


川柳作家の八上桐子さん、歌人の土岐友浩さん、もともとのフェア共同企画者の猪股康太さん、歌人の魚村晋太郎さん、佐藤、そして無職(!)の中邨政也さん。京都文学レジデンシーの学生スタッフである山田さんと石田さんにもお越しいただいた。

そのあとは、土岐さんの提案で鴨川デルタの飛石を渡り(二名ほどすでに飲んで来ていたが、一人も落ちずに渡れた)、



出町座「CAVA BOOKS」・桝形商店街を経て糺の森・下鴨神社へ。




大森静佳さん、浦塚未来さんも合流し、居酒屋では突発の歌会。いい散歩をしたあとのビールはうまかった。


あと2年くらいは京都にいたいが、残念ながら私の滞在日は23日まで。
残りの期間も、いいインスピレーションを得て、いい酒を飲んで帰りたい。

パイクのけむり XXXⅡ ~日々に未来を素描したとせよ~  高山れおな

八月は澤好摩についての原稿書きに終始し、九月は十八冊ある長谷川櫂の句集の読み直しにかかりきり(多くは再読、一部は初読または三読以上になる)、十月に入ると俳句どころではないといった調子で、なかなか新刊の句集が読めずにいる。それでも南十二国の『日々未来』を読んだのは、余りにも長谷川櫂漬けになった頭に少しは風を入れようと思ってのことで、実際、気分転換になった。いわゆる一服の清涼剤ですね。とはいえ、長谷川櫂の句に清涼感が欠けているというのではない。むしろ、大いにあるであろう。ただし、長谷川氏の場合は、清涼感自体をぎらぎらと追究するようなところがあるのに対し、南氏の方はもっと天然の清涼感で、この場合はそれがことさら徳に感じられた次第。

ひとしきり道濡らし春ゆきにけり
鏡みな現在映す日の盛
暖かし耳を模様と想ふとき
ロボットも博士を愛し春の草
集まつてだんだん蟻の力濃し
ででむしの腹ゆゆゆゆと動きけり
重機みな途中のかたち暮れかぬる
椋鳥の塊伸びてすすみけり
あをくなりやがてまつくら秋の暮
秋灯はばたくごとく点りけり
木犀や恋のはじめの丁寧語
ランナーズ・ハイはつふゆのあさひの香
木枯が闇にのたうちまはりゐる
警察官かちやかちや走り去る西日

終始一貫、肩に力が入ったところがなく、かと言ってゆるく崩れているわけでもなく、文字通り等身大の言葉がここにあるという印象を受けた。作者が自分以外のものになろうなどと全く思っていないという意味でも等身大だし、表現に過不足がないという意味でも等身大だ。表現に過不足がないと言ってもいろいろなケースがありそうだけれど、この句集の場合、言葉に裏表がないというか、意味しようとするところと書かれたところが常にぴったり一致している感じで、余情のようなものは乏しいかわりに、良い意味での素朴さの感触にじんわり胸を温められる。

この原稿を書いている十月十五日日曜日は新月にあたる。突然、月齢の話になったのは、中秋の名月(今年は九月二十九日だった)の前後から二十日月を過ぎたあとまで、毎晩、月を見ていたためだ。雪月花の中では、私は月派なのであるが、こんなに何日も続けて意識的に月を観察したことはなかった。しかし、それで立派な句が出来るかと言えば、なかなかそうは問屋が卸さないのは、過日、当ブログにアップ済みの作品でご覧の通りだ。

十月に入って全く休みが取れなかったが、今日は家にいて、あれこれ俳句関係のゲラを戻したりしたあと、数日前にいただいて気になっていた句集を読むことができた。清水伶『素描』で、これは素晴らしい本でした。 

天窓も死者ミサ曲も青あらし
ぼうたんの狐雨なら母の景
全身を水の螢の過ぎゆけり
霧を来て霧の感情見てしまう
春あかつき水の軀を放し飼い
にんげんと桜のあわい舟が着く
女郎花星の骨格しておりぬ
遠ければ去来の墓に秋の光(かげ)
約束の数を下さい冬の薔薇
冬満月裏側きっと象通る
狐火の大わがままを聞いてやる
緑夜なり孔雀啼くまではさすらい
てのひらに夏蝶灯す遠忌かな
冬銀河夜あるかぎり父の居て
オペラ座の奈落を覗く春の夢
白もくれん遠い乗換駅見ゆる
枇杷啜る水脈のごとくに指濡らし
麦秋の絹いちまいを風という
一滴の海のしずくの瑠璃蜥蜴
絨緞のばらの秘境を踏み外す
千年を鶴のかたちで湯冷めして
またたきの銀となるとき冬の鹿

一九四八年生まれ、「朝」「海程」同人を経て「遊牧」代表。キリスト者とのことで、「海程」でクリスチャンの女性というと真っ先に名があがるのは柚木紀子だろう。実際、影響は受けているのではないか。ただし、有季定型を遵守して破調もほとんどなく、柚木よりはずっとわかりやすい。もちろん、柚木だけがどうこうというのではなく、金子兜太などは直接的なフレーズの取り込みがあるし、阿部完市や攝津幸彦が登場する句も見られる。飯島晴子、柿本多映の影もちらつくようだ。しかし、読みながら私がしきりに思い出していたのは、じつは岡井省二なのだが。ちなみに、標題句の

鶏頭を素描にすれば荒野なり

における「荒野」は、あとがきを参照するに、キリスト教的な意味でのそれである、あるいはそれでもある、らしい。一方で、 

鶏頭に大笑面のありにけり

ともあって、「大笑面」は十一面観音の背面側についた暴悪大笑面のことであるから、仏教的なイメージに他ならない。京都や奈良のお寺を巡っての句が結構あり、美術については特にキリスト教にこだわっているわけではないのだろう。加えて、端的な写生の対象としての鶏頭ならばさておき、掲出二句のような求心的な詠み方をする場合に、正岡子規の鶏頭句が念頭にないはずはないから、これらは俳句的なるものないし俳句性について考えた俳句でもあるはずだ。作者はそこに荒野から大笑面までの振幅を見ている、そんな言い方もできようか。

掲出した句にあきらかなように、清水伶の俳句は等身大のよろしさなどとはおよそかけ離れたもので、発想の飛躍と感覚の奔放さをほしいままにしている。必ずしも映像性が強いわけではないものの、幻視の世界と言っていいのだろう。モティーフ的には、死後の永遠の生を意識した上での現在を、特に自己の身体や小動物を媒介に詠もうとしていると私は感じたがどうなのか。近年、妹君を癌で亡くしたとあとがきにはあり、ご両親もすでに亡いようだ(母君はやはり比較的最近、父君はだいぶ以前に帰天されたのではないかと思ったが、これはあくまでなんとなくの想像である)。〈天窓も死者ミサ曲も青あらし〉のような句から伝わってくるのは、死者の存在の近さで、それはその死者が第一義的には身近な肉親だからであろうけれど、やはり信仰もかかわっているはずだ。現世を詠むが、現世だけが問題だとは思っていない(ただし、俳諧者流の、お気楽な詠みのパターンに過ぎない、「次の世」がどうした的なものとは違う)、そのような思惟ないし感性が一句の核にありそうに思えるからだ。 

くちびるが攫われそうで椿山
くちびるに星の乾きて冬に入る
冬鷗ほどの微光をくちびるに
くちびるを岬と思う冬の雷

身体のうちでも特に目立つのがくちびるで、それはあきらかに世界との通路のようなものとして観念されている。くちびるによる一種の汎神論が展開されているようでもある。

夜の卓の前衛であり寒卵
前衛といい漂泊といい鳥雲に

あえて難を言えば、句柄に多少の既視感が拭いきれない点か。先述したいろいろな俳人の名前はそこにかかわるわけだが、要するにこの作者の句はあんまり今風ではないのである。前衛という言葉を静かに使ったこんな句もあって、表現の根差すところは、一九七〇年代から八〇年代あたりの、末期の前衛俳句と見てよさそうだ。まさにそれゆえにこそ、最近では、個人的に最も鼓舞されるような気分を味わえた句集であった。

2023年10月2日月曜日

渋谷道頓堀劇場     佐藤文香


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渋谷道頓堀劇場     佐藤文香

づかづかと踊子が来て感動す
夏帽を水着を脱ぐに巧さあり
紐いろいろ片付けて去りまた来たる
踊子の女陰に拍手せりすごく
  チームショー 二句
右から左へ幾度も二人は長く走る描写を
まはる舞台に指くはへあひよく見せ呉る
裸の貴女と撮つてもらつて脱ぎたし我も
笑顔で手を振る踊子けなげなり我に似て
「初恋」のカレーを直子さんと食ぶ
果実のうちのどれかのやうな秋の暮



reference
づかづかと来て踊子にささやける  高野素十 
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ  杉田久女

応接セット       関悦史

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応接セット    関悦史    

   石川喬司氏死去 
遺品「火星土地権利書」や夜の秋 
照らされてインコ覚めゐる月夜かな
パンの耳のみの一食秋の声
神つねに我を監視し冷ゆる火口
    池田澄子さんのツイートによる(※) 
台風一過滋養はみんなお腹に行く
客一人ブラックホールを食(を)す秋か
秋の海に応接セット白世界
前向きにみな歩み入る秋の海
烏瓜日本人即虚無自体
長月を雲の峰立つ疫病(えやみ)かな


※池田澄子さんのツイートは下記

月の友     高山れおな




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月の友     高山れおな 

    嵯峨 
秋の日や迷ひて竹のうつくしき 
眼がしらを揉めばどくろや夕月夜 
切字のや飛ばす弓張月ぞこれ
    神楽坂 
町空や黄に濁れるは小望月 
名月を心に朝の素ラーメン
    小林さんに貰つた。 
夢の世のみどりの葡萄なら笑ふ 
名月やいづこへいそぐ雲の波 
その辺にゐる我こそは月の友
    上から下まで音読せよ。 
十六夜無酒精麦酒日本国 
月光に冷やされて黒楽茶碗