2021年5月15日土曜日

025*2021.5

 


俳句
▶︎
奈良漬と四天王  高山れおな

俳句
▶︎
椅子    関悦史

俳句
▶︎
森の場面  佐藤文香 


散文
NEW!▶︎パイクのけむりⅤ ~最近びっくりしたこと~    高山れおな


散文
NEW!▶︎宝塚歌劇団への愛を整理する  佐藤文香

パイクのけむりⅤ ~最近びっくりしたこと~    高山れおな

 生業が繁忙期に掛かっており、まとまったものを書く時間がない。なので断章形式で。

                * 

結社誌・同人誌の編集後記で、ときどき面白いものがある。以前だと「鷹」の奥坂まやさんのそれが絶品で(まだ藤田湘子存命の頃だ)、毎度、コントのような趣きだった。奥坂さんは狙って書いていたのだろうが、最近読んだ「南風」五月号の(麗加)と署名のある編集後記はそういうものではない。しかし、衝撃だった。 

 先日、森あおいさんと句作の話をしていて「俳句は作り始めから五七五の形」と聞き驚いた。他の人もそうなのかとオンライン句会で質問したところ、あとで推敲するにしてもなるべく最初から五七五の形で作るとのこと。短文を十七音になるまで削っている私とは作り方が随分違うことに感心した。 

短文を十七音になるまで削る……まさか、そんな作り方をしている人がいたとは。いや、もちろんこれは良い悪いの話ではない。作り方など各自好きにすればいいのだが、それにしても意表をつかれたのはたしかだ。ここで思い出したことがある。『省略の詩学 俳句のかたち』という本があるが、著者の外山滋比古はどうも、俳句が一般にこの麗加さんのようなやり方で作られていると思い込んでいる節があるのである。一部の人には名著扱いされている本ながら私には胡乱な感じが拭えなかったのだが、ある時、外山のこの誤解に気付いて、その記述から受ける違和感が腑に落ちた。とはいえ、麗加さんのおかげで、外山が思っているような書き方をしている人も(あくまで例外的な少数派だとしても)いることはいるのだと知ることができた。編集後記恐るべし、である。

                * 

前々回の本欄で、「画期的金子兜太論の出現」と題して井口時男氏の『金子兜太 俳句を生きた表現者』の書評もどきを書いたところ、「藍生」から再録の依頼が来た。同書の特集を組むというのである。特集は黒田杏子氏から頼まれた筑紫磐井の編集のようで、筑紫・井口両氏のメール対談、筑紫の長文の新兜太論、坂本宮尾・橋本榮治・横澤放川各氏による書評などが載っている。衝撃だったのはそれら記事の内容ではなく、筑紫磐井の肩書が「現代俳句協会副会長」になっていたことだ。副会長は十人くらいいるらしいけど、それにしても筑紫磐井は俳人協会の所属だったんじゃないの? 私はどこの協会にも入ってないし、どうでもいいっちゃどうでもいい話だが、まあ、とにかく驚いたので書いておく次第。

                * 

「古志」五月号に、長谷川櫂氏の「俳句は『座の文学』か」という文章が載っている(自身の個人サイトからの転載の由)。大岡信の『うたげと孤心』を引き合いに出しながら、 

 俳句を「座の文学」と割り切ると、座を成り立たせている孤心を見失うおそれがあります。俳句を単純に「座の文学」と考えないほうがいいということです。

と言っているあたりは特に異存もない。びっくりしたのは、「座の文学」という言葉の起こりやそれが広がった背景について述べている部分。なんと、〈俳句におけるマルクス主義の影響の一つが「俳句は座の文学である」という考え方〉なのだという。 

「座の文学」を最初に唱えたのは尾形仂ですが、簡単にいえば、俳句は一人で作るものではなく、みんなで作るものだという考え方です。これは一人で作るものよりみんなで作るもの(共同制作)が優れているというマルクス主義の根本思想に基づいています。 

四年前の蔵書大断捨離のため手もとに尾形の本がなく、冒頭述べた理由で取り寄せしてまで確認している余裕がないが、尾形の「座の文学」は俳諧連歌についての話ではなかったかしら。俳諧連歌の話を現代の句会に適用したのは俳人の側の勝手で、どちらにしてもマルクス主義は関係ないんじゃ……。俳句の世界にもはっきりとマルクス主義を標榜している人たちはいたが、その人たちが向かったのは口語俳句とかの方ではなかったん? 共同制作がマルクス主義の根本思想って、そっ、そうなん? 

                * 

ツイッターをあれこれのぞいていたら、 

くちぶえに鳥の文法なき暮春   抹茶金魚 

という俳句を見かけて、いいじゃんと思って、半年くらい前の「詩客」に作品が出ているということなので遅ればせながら読んでみた。俳号が「抹茶金魚→さ青」と変わったらしい。 

零れつつ躑躅へ岸を這ひあがる   さ青 
明るさと死は航路なき麦畑     同 
不在を言へば傷の卓子に夜の蟻   同 
墨色の鯉のしづんでゆく枯野    同 

「鳥の文法なき」にごく率直に出ている疎外感というか、世界から乖離しているような感覚がどの句にも通底しているだろう。三十年前の深町一夫や桐野利秋(=歌人の正岡豊の俳句用ペンネーム)の作品を思い出したりもしたけど、彼らの句のようなハイなところはなくて、より沈着な抒情性が持ち味にちがいない。 

一句目は、水から出た蛇や蛙が「岸を這ひあがる」なら情景としては自然だが「零れつつ」がそぐわない。人や犬なら「零れつつ」の説明はつく代わりに「岸を這ひあがる」が一種の事件のニュアンスを帯び、「躑躅へ」という細部が浮いてしまう。結局、他に言いようがない感情の比喩としての「零れつつ……這ひあがる」を、「躑躅へ岸を」の具体性が俳句形式に繋ぎとめる――そういうあり方をしている句のように思う。その「零れつつ……這ひあがる」ものを私自身は、デュシャンの《階段を降りる裸体No.2》のような、多重露光的な動きとしてイメージしたりもするのだが、しかしこれは個人的な嗜好の問題かもしれない。

二句目の「明るさと死」の並置には、たとえば「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」(太宰治「右大臣実朝」)といった逆説も連想される。麦畑と航路には本来的な結びつきなどないが、麦畑の茫漠たる広がりを「航路なき」という形容によって表現するのはなかなかカッコいい。もちろん「航路なき」は麦畑に掛かるだけではなく、「明るさと死」の述語でもある。初夏の日差しのもと、麦畑に立ち尽くしての放心。それが明るく美しい瞬間であればある程、過ぎ行くもの(航路なきままに!)としての自己へ向いた意識が鋭くとぎすまされてゆくということだろう。

三句目の「不在を言へば」のフレーズはいささか現代詩的な(むしろ戦後詩的な?)ナマっぽさを帯びるが、中七下五ががっちり俳句的なので全体としては安定している。天板に傷があるような古い、または安っぽいテーブルに蟻があがってきた夜の一場面。家族や恋人から神まで(あるいは金や名誉や職でもいい)、あるべきものあらまほしきものが不在であるという欠乏の意識が、蟻が這うテーブルに象徴される貧寒とした実在に固着してしまっている。「言へば」という押し付けるような措辞は、不在自体という以上に、その固着のいらだたしさを伝えるものだろう。 

四句目。「墨色の鯉」というフレーズがありそうであまり見かけないものだし、「スミイロノ/コイ」というしらべも端的に美しい。枯野の中に池があり、のぞいてみたら水底に黒い真鯉がしずかに沈んでいた――そんな情景なら実際にあっておかしくないし、「墨色の鯉しづみゆく枯野かな」であればそう受け取るのが穏当だろう。しかし、この句の場合、「墨色の鯉のしづんでゆく」はあくまで比喩のようだ。夕映えの華やぎもなく暮色が立ち込めてゆく枯野の情感を、そのようなイメージとして捉えたということ。古色蒼然を装いつつじつは斬新という心憎いつくりではあるまいか。

宝塚歌劇団への愛を整理する   佐藤文香

ゴールデンウィークは、宝塚歌劇団星組「ロミオとジュリエット」の配信と、宝塚歌劇団OGによる「エリザベート」ガラコンサートの配信を3回視聴した。6月は東京宝塚劇場で花組を見て、その翌週に雪組の全国ツアー公演を見に愛媛へ遠征することになっている。

2020年10月にこの翻車魚ウェブでも、宝塚大劇場へ遠征して月組「WELCOME TO TAKARAZUKA」&「ピガール狂騒曲」、凪七瑠海コンサート「パッション・ダムール」を2回、宝塚ホテルに泊まって彩凪翔ディナーショー「Sho-W!」配信を見て書いた俳句19句「宝塚(ムラ)は秋」をアップした。

追記;この記事をアップした直後に、星組「ロミオとジュリエット」でも8句書いたので載せておきます。




私のことをよく知っている人ほど、どうして私がそんなに宝塚にハマったのか可笑しく思うだろう。小説を読まないどころか映画もドラマも見ない、物語が苦手だと公言して憚らない私が、なぜ宝塚は大丈夫なのか。自分のためにもこの場を借りて整理しておきたい。


まず私は、歌声やダンスをする体といった表現する人体が好きであり、そこから技術の高さや個性を感じることを快楽としている。単に音楽を聴くのが好き、というより、ある曲が声として発される毎回の奇跡を愛している。2019年9月に2度目の星組観劇をし「この人だ」と思ったのは、その前年も星組を見て気になっていた現在のトップスター・礼真琴で、至上の体幹に由来する卓越した歌とダンス、とくに踊りながら・演じながらの歌唱の素晴らしさはこの世の宝である。


↑星組現トップスター礼真琴と、先日惜しまれながら退団した雪組元トップスター望海風斗。近年のトップではこの二人の歌が至高とされる。ちなみにこの状態は「素化粧」といわれ、皆さんの思われる宝塚メイクとは違うすっきりメイクだが、これもまた美しい。私の夫は望海風斗&真彩希帆の大ファンであり、退団公演は私の友人女性2名と別々に2度観劇(私は別で1度観劇)、退団に関連する配信はすべて視聴、Blu-ray BOX等はすべて購入していた。私も大好きだ。


↑現在の星組はトップスター礼真琴と娘役トップの舞空瞳どちらも驚愕のダンス力なので、劇だけでなくショー(一本物と言われる劇+フィナーレの公演と、前半は劇で後半はショーという公演があり、私はショー好き)を見ない手はない。いや、頼むからどこかで一度二人のデュエットダンスを見てくれ。

歌とダンスの両方が優れているジェンヌはみな大好きだが、礼真琴以外だと月組4番手の暁千星、宙組4番手の和希そらなどがとくに好きである。OGでは朝夏まなとも手足が長くてダンスが素晴らしい。歌がものすごくうまい元トップといえば、春野寿美礼、北翔海莉である。

続いて私は、人間の容姿に興味がある。宝塚歌劇団には花・月・雪・星・宙の5組と専科あわせておよそ400名の生徒が在籍しているためさまざまな顔面の人間がいて、毎年刊行される『宝塚おとめ』にはその全員の顔写真や特技、好きな食べ物などが掲載されている。実際の舞台を見たあとにプログラムと照らし合わせるだけでなく、Blu-rayやタカラヅカスカイステージ(専門チャンネル)の番組等で気になる生徒がいたら毎度チェックするのも楽しみのひとつだ。ちなみに現役の男役で私が最も好きな顔は星組の天寿光希、娘役では星組の華雪りらである。


↑天寿光希。下級生から「美しすぎて怒られていても話が入ってこない」と言われている。


↑華雪りら。養子にしたい。

ほかに、宙組組長の寿つかさや宙組二番手の芹香斗亜、雪組の縣千、眞ノ宮るいなども好きな顔だ。パーツのバランスがよく配置が整っているのが好きで、わりと薄め/えらがはっている、なども好みのようである。

その人にしか出せない味わいに耽溺するという楽しみもある。私にとって3度目の宝塚は星組礼真琴トッププレお披露目公演「ロックオペラ・モーツァルト」のライブビューイングで、礼真琴はもちろん素晴らしかった、加えて、サリエリを演じた凪七瑠海にハマることになってしまった。サリエリはまったく笑わない嫌なヤツなのだが、すべての劇が終わったあとにフィナーレがあり、さっき死んだモーツァルトも笑顔で出てきてしまうのが宝塚の面白いところで、そこでにこにこ手を振るサリエリにハートを撃ち抜かれてしまったのである。あんなにモテなそうだったのに!!


↑凪七瑠海。現在は組配属ではなく専科と呼ばれるプロ集団に属し、必要に応じて各組に出演する。来月の自分の誕生日には凪七さんが出演している花組公演を見に行くことになっている。タカラジェンヌは本来男役であっても公演によっては女役をやることもあり、今回の公演「アウグストゥス-尊厳ある者-」において凪七さんはクレオパトラ役とのことで、前評判もめちゃくちゃよく、めちゃくちゃ楽しみである。

私はどうしても、ヒーローやモテ男よりもあまりモテない役が好きで、はじめ礼真琴にハマったときも眼鏡で自信のない姿がよかったというタイプなので、宝塚好きのなかでは少数派だと思われるが、キラキラというよりはいぶし銀的な、マニアックな職人的魅力というものがあり、凪七瑠海のほかでは星組4番手の綺城ひか理が本当に好きなかんじになってきている。花組の羽立光来、退団してしまったが天真みちる、専科で主におじいさんやおじさん役をする汝鳥怜や悠真倫、英真なおきらも好きだ。


綺城ひか理は話も面白い。凪七さんとの共通点は顔が小さすぎることである。

さらにジェンヌたちの素顔および関係性萌え、というものもある。各組の先輩後輩だけでなく、同期入団のかたい結束や、音楽学校時代のお掃除場所の上下関係なども面白い。有名なのは前にも挙げた望海風斗と凪七瑠海、最近OGとして大活躍中の明日海りお・七海ひろきなどの89期、そして現在の星組トップスター礼真琴と花組トップスター柚香光、次に月組トップスターとなる月城かなとらの95期。同期をまとめて推すというスタイルのファンもいるくらいである。
個人的な胸熱ポイントとしては、星組の95期入団トップで順風満帆にトップスターになった礼真琴と、入団時の成績は下位だったがめきめき実力をつけて現在3番手になった瀬央ゆりあ、入団は2位だったが路線には乗らず(トップスターになる可能性のある生徒を"路線"と言い、早くから大きい役を与えられる)実力派として組を支えるひろ香祐の友情である。

演出家によって作品を楽しめるのも面白い。海外ミュージカルや映画、漫画などの宝塚化以外に、宝塚オリジナル作品も多くつくられており、友人から「まずは上田久美子作品を見るように」と言われてそのとおりにしたら本当に宝塚が好きになってしまった。とくにトップスターが奴隷役の「金色の砂漠」(花組)、歴史や物語、言葉の持つ権力について考えさせられる「月雲の皇子 -衣通姫伝説より」(月組)、ショーではグラサン歩きタバコのトップスター「-BADDY(バッディ)-悪党(ヤツ)は月からやって来る-」(月組)など、単純な悲劇やラブロマンスに括ることのできない作品の数々は、映画や舞台が好きな人には一度は見てほしい作品だ。藤井大介による酒をモチーフにしたショー「Sante!!」(花組)、「アクアヴィーテ(aquavitae)!!」(宙組)も、私がというよりは宝塚ファンならみなオススメであろう。
なかにはトンチキと呼ばれたりする妙な作品もあり、そういうものでも基本的には楽しめてしまうのが宝塚のよさでもある。①〜④をお読みくださった方はおわかりのとおり、あらすじなどあろうがなかろうが、我々は公演が見たい。ロミジュリやエリザベートなど、名作の再演が多いのも、それが理由だろう。我々は誰が・何を・どう演じるかを見に行くわけで、ストーリーの素晴らしさはオプションと言っても過言ではないのだ(いや、それは過言か)。


結局私は人が好きで、人のやる凄いことを感じたいから、宝塚が好きなのだと思う。そして、こんなに具体的なのに、すべてが夢。ほかのことを忘れていられる。宝塚が好きになってから、夢というものがいかに大切かわかった気がする。

衣装やショーの構成の素晴らしさ、各組のカラーやトップスターの個性、路線事情や組替、娘役についてなどまだまだ書きたいことは尽きないが、宝塚歌劇団の素晴らしさと、私がなぜ宝塚ラヴァーになったかが少しでもおわかりいただけたとすれば幸いである。

最後にもうふたつ動画を貼って終わりにしたい。
↑3:00あたりからご覧いただこう。これがショー(レヴューともいわれる)。星組「Ray -星の光線-」。礼真琴のキレキレのダンスは、現状のYouTubeの性能では追いつきそうもない。

雪組元トップ娘役真彩希帆のスペシャルライブ。望海風斗・真彩希帆は宝塚の歴史に残る歌ウマのトップコンビだった。今後の活躍が楽しみである。

  不器男忌の身にあなたとは闇なるを  佐藤文香(「エリザベート」を見て書いた俳句)


2021年5月1日土曜日

椅子       関悦史

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椅子       関悦史 

数脚の椅子棲む春の野を過ぎる 
チューリップ風は豚舎のにほひして
大襤褸紙転がりありく春の暮
大襤褸紙踏み春雷の音出さしむ
大襤褸紙平たくなりぬ暮の春
またがる事務椅子坂道すべり降り花時
関東平野へ空家は藤を噴き出しをり
逃水に妙音立てて溺れむか
コロナウイルス界曼荼羅の春日に透けゆく手
春満月異言をもらし続けゐる

森の場面      佐藤文香


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森の場面    佐藤文香

春の旅 不意の愛は étiquette 袋へ
写真学校スープの冷めて花屑も
松は花どき天心に濁る意志
花韮を星と思ひて凡と思ふ
白蝶の羽閉ぢたさに吾を択ぶ
商人の春 目の玉の色見本
さはらせて(春野)まなこの成り立ちを
菊は芽にくまなく水の時間帯
森を出でて森の場面を終はりとす
左様なら武蔵府中を青葉雨

奈良漬と四天王    高山れおな



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奈良漬と四天王    高山れおな

 法隆寺三経院のほとり。歌は、
 ちとせあまりみたびめぐれるももとせを
 ひとひのごとくたてるこのたふ
八一歌碑つつじ白く赤きその中に 
 中宮寺境内。歌は、
 みほとけのあごとひぢとにあまでらの 
 あさのひかりのともしきろかも
八一歌碑春落葉より立てり読む 
 法輪寺・法起寺の方へ。
紫雲英田に塔紫雲英田に塔斑鳩は 
 當麻寺金堂四天王像は容顔に胡人の風あり。
四大王(しだいわう)いつも黄沙の夢に立つ
行く春や四天王寺史遐(とほ)し幽(くら)
轟音も雨も空より春寒し
いづこへと春の夜空の轟音は
傘さして歌ふ冠状病毒(コロナ)の穀雨には
春惜しむごと奈良漬を惜しみ喰ふ
 瀬戸夏子『白手紙紀行』
夏子氏の夏が近づく白表紙