2022年9月18日日曜日
Paul Watskyさんと俳句の話(通訳はFay Aoyagiさん) 佐藤文香
詩人の田中庸介さんに紹介していただき、サンフランシスコの詩人で心理学者のPaul Watskyさんにお目にかかることができる運びとなった。Paulさんは俳句も書いていて、山頭火がお好きとのこと。田中さんとは心理学の学術誌「Jung Journal」の誌面で日本の現代詩歌句のアンソロジーをつくられている(俳句の担当は宮下恵美子さん)。
Paulさんは日本語は話されないので、同じくサンフランシスコ在住のFay Aoyagi(青柳飛)さんにご一緒していただくことに。Fayさんとはすでに一度フェリービルディングで昼からスパークリングワイン&生牡蠣でお話しし、その勢いでHPNC(Haiku Poets of Northern California)で機会をつくってもらって、英訳も全部してもらい、英語でプチ講演+日本語&英語で俳句30句を朗読というのをやったところで、
(HPNCでのプレゼンテーション)
ありがたいことにPaulさんもそこに参加してくださっていたので、一度顔合わせができていた点でスムーズだったのだが、私がこのタイミングでCOVID陽性となり、サンフランシスコでビールで乾杯はかなわず。やむなくZoomにて歓談としてもらった。
まずはPaulさんから、前回の私の朗読のなかから〈香水瓶の菊は雪岱菊の頃〉について、「これは今までの「菊」の句へのアプローチと違う、重層的だ」との指摘。この句は翻訳しても理解されないかなと思っていたので意外だった。私は「この句は何度も俳句らしさを裏切っている。「香水」は夏の季語だがこの「香水瓶」は季語ではなく、描かれた菊も季語ではない。さらに雪岱という名前にも「雪」が含まれているが季語ではなく、結局季節感のある季語としては「菊(の頃)」だけなのだ」というのをFayさんに伝えてもらった(以降すべてFayさんの通訳)。
〈祭まで駆けて祭を駆けぬけて〉について、「祭に行きたくて走ったのに、走ること自体が目的化している」との指摘。たしかに祭を駆けぬけるときの、身のうちの祝祭的な感覚が出ているかもしれない。さすが心理学者、作者より作者のことがわかっている。
Fayさんに英訳してもらう際に30句を自選したら、repetition(繰り返し)の句があまりに多く自分で驚いたのだが、それは自分が句を読む上でイントネーションやアクセントの好ましさによって句を判断しているからであるだろう。Paulさんの朗読も非常に聴き心地がよくて、そのあたり共有の感覚があると思った。
また、assonance(母音のみ押韻)、consonance(子音のみ押韻)についてはどうか、ということも聞かれ、それをはじめから意識してつくるというよりは(やりすぎるとあざとくなるので)、できあがった句が音がいい場合に、なぜかを検証するとassonanceやconsonanceが用いられているというかんじだ、と応えた(そのときは言いそびれたが、推敲の際に意識することは多い)。
rhyme(脚韻)については、日本語の俳句ではダサくなるという話をしたら、英語でもそうらしく、それも興味深かった。でもWatskyさんの句で
a short beer
on a short pier—
summer evening Paul
ビアちよつと短きピアに夏の宵 (Ayaka訳)
これはいいrhymeの句じゃないですか、と言うと、人間のユーモアのあるような句で、面白くしたいときにrhymeを使うんだ、とのこと。
私からは、 Paulさんの句と私の句の似ているものを提示。
Renaissance Faire—
a woman with dancer's legs
watches the dancers Paul
ルネサンスフェア踊り子の脚して踊り子を見る (Ayaka訳)
she wearing a yukata
has eyes
looking at other people's yukatas (Ayaka訳)
浴衣着て浴衣を見る目ありにけり 文香
普通ダンサーがいたらダンサーの美しさに目がいくけれど、ダンサーを見る人の視線に着目するという目のつけどころが面白い。私の句もそうで、皮肉っぽい客観性が主眼の句。
師匠である池田澄子は「俳句を書くならひねくれてなきゃ」 と言っていて、私はその教えを守っている(?)ということで、澄子俳句を一句紹介した。
想像のつく夜桜を見に来たわ 澄子
I'm here to see
nighttime cherry blossoms
I can imagine (Ayaka訳)
(その時点で自分の考える新しいものを書く、という以外、自分の句はまったく池田澄子の句に似ていない、と思っていたが、ここに来て初めて共通点を発見し、なかなかよい機会だった)
さらに、〈少女みな紺の水着を絞りけり〉から、作中主体と書き手の立ち位置の話へ、なぜ日本人は生年を書くのかなど、またsubject(主語)を省いたりsingular(単数形)とplural(複数形)の区別がない日本語の俳句の翻訳について、作者と翻訳者が話し合えることやたくさんの人の目を通すことの重要性などを語り、次にアメリカに来たら必ずBay areaに寄るからぜひビールで乾杯しよう!ということで会はお開きになった。
P.S. 1
帰国を前に、スーツケースを買い換えた。デカい。ひとりでもアメリカに来る理由をつくらなければ。
パイクのけむり XX ~新涼淡々日記~ 高山れおな
8月15日(月)
六時過ぎ、退社して十日に亡くなった救仁郷由美子さん(豈同人、大井恒行氏夫人)のお通夜のため府中に向かう。朝、白いワイシャツは全て襟元が汚れていてもはや着られないことが判明。やむをえずカラーシャツを着て出たので、どこかで白シャツを買う必要がある。府中駅の改札を出て駅ビルに入ると、いの一番の店がスーツセレクトだった。一着購入して試着室で着替えさせてもらう。
タクシーで府中の森市民聖苑へ。シャツの件だけでも間抜けであるが、受付の段になって香典袋を用意していなかったことに気づく。さしあたり記帳だけして、息子さん、娘さんと挨拶。大井さんもやって来る。救仁郷さんが亡くなった時は折り悪しくコロナ陽性で、隔離用のホテルにいたとのこと。モニターでお別れはできたらしいが。ともかくもお元気そうな様子なので安心した。救仁郷さんのご遺体にお別れし、焼香する。豈からは池田澄子、筑紫磐井、酒巻英一郎、佐藤りえの各氏が来ている。ふらんす堂の山岡喜美子氏もいる。
救仁郷さんに最後にお目に掛かったのはいつか。四、五年にはなるはずで、どこかの喫茶店で酒巻さんと救仁郷さんが安井浩司についての本の原稿の相談をしていたと思うのだが、酒巻さんは覚えていないという。それはさておき、酒巻さんならばきっと香典袋の余分を持っているに違いないと思って尋ねると、案の定お持ちである。頂戴して香典を納める。
一時間ほどして失礼する。筑紫さんは総武線の方へ行くという。池田、酒巻、佐藤、山岡、高山は、車二台に分乗して府中駅に向かう。山岡さんはそのままご帰宅。遠い日高市まで帰る佐藤さんはここで夕食を食べておく必要があるので、豈の四人は店を探す。八時をだいぶ回っているため、適当な店がなかなか見つからず、やむなく日高屋に入る。池田さんが、三十年ぶりだとか言いながらラーメンを完食している。私が来る前、池田さんが筑紫さんに、自分が死んだら『池田澄子の百句』を書いてくれと頼んだらしい。しかし、この健啖ぶりを見ると百歳は堅そうで、そうすると筑紫さんが先に死ぬ可能性もあるのではないかと申し上げる。なんにせよ老少不定である。
註……『池田澄子の百句』についての記述に対して、池田氏本人から以下のメールを頂戴した。〈磐井さんに、頼んだんじゃなくて、、「僕が書きますよ」って、話の成り行きから出た冗談。そこんとこ、宜しく。〉
8月16日(火)
終日忙しい。十一時半、退社。「現代短歌」十一月号の第三回BR賞(=ブックレビュー賞)の発表号用に、「この批評がわたしを変えた」というお題で頼まれていたエッセイ原稿を仕上げ、真野少氏に送る。タイトルは三島由紀夫の『豊饒の海』のラストシーンから借りて、「記憶もなければ何もないところ」とする。森鷗外「青年」読了。長編小説としては不出来ながら、歴史資料としていろいろ興味深い。
8月17日(水)
昼十二時、起床。代休を取る。シャワーを浴び、江東試験場へ行く。免許更新期間は八月八日までだったのだが、うっかり忘れてしまい再取得ということになる。じつは三年前にも同じ失敗をしており、今回はちゃんと行こうと思っていたのだが、またやらかしてしまった。しかも、手数料支払いの前の書類審査の窓口で、本籍の記載のある住民票が必要と言われる。すぐ取ってこようと思ったが、この窓口の受付は二時までとのこと。すでに一時四十分なので、いかに地下鉄で二駅の近傍とはいえ是非もない。重ね重ねの不手際に憮然たるものあり。
西葛西に戻り、駅前で食事。ガード下にあるジンという喫茶店が、喫煙目的店なのを発見。ホットケーキとコーヒーを頼む。本を読むには照明が暗いのが難だが、今後は折々立ち寄ろうかと思う。江戸川区役所葛西出張所で住民票を取る。
森鷗外「あそび」「独身」「牛なべ」「電車の窓」「杯」「木霊」「里芋の眼と不動の目」「身上話」「桟橋」「普請中」「食堂」「ル・パルナス・アンビュラン」「花子」「追儺」「懇親会」「大発見」読了。以上で、明治四十三年(一九一〇)に新潮社から出た短編集『涓滴』所収作は全部読み終わった。鷗外の小説は特に面白いというのでもないが、文章に一種癖になるような快適さがある。特に「杯」の出だしの井戸の描写に感嘆する。「大発見」も笑える。
8月18日(木)
八時、起床。まさに土砂降りのタイミングであったが、昨日に懲りてとにかく早く行かねばと江東試験場へ向かう。膝から下は完全にぐしゃぐしゃとなる。まず、書類審査の窓口に行き、手数料支払い、視力検査、写真撮影など済ませ、再び同じ窓口に行く。二階受付けへ回され、七番教室へ入るよう指示される。十時半から二時間の講習を受ける。四階に上がると免許証はすでに出来上がっており、ただちに受け取る。七時半過ぎ、退社。森鷗外「舞姫」読了(再読)。こんなひどい話であったかと一驚する。
8月19日(金)
選句のため朝日新聞社に行く。着席やや遅れ、九時十分。コンビニで買ったおにぎり、サンドイッチを食べる。同二十分、選句開始。はなはだ調子上がらず。特にハガキが多いわけでもないのに、いつもは十二時で終わる予選に一時までかかる。
五時半、社を出てギンザシックスへ。六階の蔦屋書店で、運慶をめぐって、K県立K文庫学芸員のSさん、Y美術館学芸員のTさん、歴史学者N先生のトークイベント。N先生には十年程前、運慶願経の奥付の解釈をめぐってインタビューをしたことがある。最後の質疑応答のところで、浄楽寺の銘札には「芳縁小野氏」とあって妻が和田義盛の共同発願者となっているのに、より存在感のある牧氏(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で宮沢りえが演じている人)の名が願成就院の銘札に無いのはなぜか、N先生に質問。牧氏はより力があったので、自分の寺を持っていたのだろう。裾野の願生寺がそうかも知れないと明解な答え。
イベントは八時に終了。Sさんとタクシーで社に向かう。Sさん十時過ぎに帰る。こちらはメールの処理などあれこれ。十一時四十分、退社。選評を書いて朝日新聞のNさんに送る。
8月20日(土)
船橋の実家に行き、墓参。墓地のあたりの森で、ツクツクボウシ、ヒグラシなど盛んに鳴いている。坪内逍遥『当世書生気質』読了。
8月21日(日)
森鷗外「鶏」「文づかひ」読了(後者は再読)。「文づかひ」は女性の生き方の問題を扱っていて、モティーフの点でなかなか現代的という印象。尾崎紅葉「大鼻毛」「湯の花」「羽子板の裏」「鷹料理」「安知喝貌林」「三箇条」「銀」「千箱の玉章」「男心は増上寺」「はやりの紋」「末黒の薄」「鉄面皮」「かさね扇」読了。これで紅葉全集第五巻は読み終わった。高橋修宏氏から頼まれている「575」第十号用の俳句を作る。
8月22日(月)
尾崎紅葉「伽羅もの語」読了(再読)。
8月23日(火)
十時に国立新美術館で李禹煥展の会場を撮影する予定があるため、西葛西九時過ぎ発の電車に乗るべく家を出る。西葛西駅ガード下の立ち食いうどんを食べる(ちくわ天乗せの温かいうどん)。冷房の効いた屋内の店ではなく、外気に面したカウンターで食べるため、暑さ尋常ならず。サウナに入ったようにとめどなく汗が流れる。撮影は順調に終わる。社に出てから終日繁忙。帰宅後も引き続き仕事。
8月24日(水)
終日繁忙。大寺薬師四天王立像についてのSさんの談話原稿を書き始めるが渋滞。
8月25日(木)
終日繁忙。大寺薬師の原稿、自宅に持ち帰ってようやく書き上げる。
8月26日(金)
A美術館のMさんらお三方、十一月立ち上がりの展覧会の件で来社。夜かなり遅くなってから李禹煥展の記事の構成にかかり、引き続きネームを書く。朝五時過ぎ、退社。
8月27日(土)
三時過ぎ、N画廊へ行く。四時からM賞の選考会。終了後、事務局と選考委員で食事会。八時過ぎ、先に失礼して社に出て、李禹煥展記事の本文以外のネームを仕上げてデザイナーに送る。帰宅後、「575」用のエッセイを書き始める。
8月28日(日)
前夜来の「575」用のエッセイを仕上げる。夕方、家人仮眠中に、『鎌倉殿の13人』の録画二回分を見る。今はすでに源頼家も死んでいるはずだが、こちらは梶原景時失脚の回を見ている始末。「現代短歌」のエッセイのゲラを戻す。引き続き「575」用の俳句を五句作る。なかなか俳句モードにならず難渋。途中、M賞の講評を書いてN画廊の担当者に送る。
8月29日(月)
出社前に「575」の俳句とエッセイを読み直してから、高橋さんに送る。日中繁忙。夜、部員が帰ってから李禹煥展の記事本文を書き始める。朝五時過ぎ、退社。七時、就眠。
8月30日(火)
一時に、約束のN区美館A館長ともうお一方、来社。早めに着いていたらしく、受付で合う。部員の原稿チェック続く。眠気耐えがたく、五時半から七時まで仮眠室で仮眠。夢に大串章氏が出てきてあれこれ言っていた。李禹煥の記事本文、ほぼ書き上げる。十一時半、退社。帰宅して食事をしている時、家人がネットフリックスで見ていた『8 miles』という映画が面白いのでついつい最後まで一緒に見る。記事本文、分量調整して仕上げる。少し気分が軽くなり、翻車魚ウェブ用の俳句を作り始める。
8時31日(水)
終日繁忙。帰宅後、朝日俳壇のゲラを戻す。「現代短歌」の再校ゲラも戻す。堀越胡流句集『白髪』、読了(再読)。蟬はほぼ終わり、虫の音繁し。翻車魚ウェブ用十句、週末に書くつもりだったが、思いのほかはかどり、佐藤さんに送る。
9月1日(木)
翻車魚ウェブの俳句作品、久しぶりに三人揃ってアップされる。担当ページの入稿。明日の会議の準備等。
9時2日(金)
朝日新聞社へ行く。八時五十五分着席、選句開始。量は多め。十二時五分、予選終了。十二時半、退室。四時から会議延々。ふらんす堂から『尾崎紅葉の百句』の組見本来る。前書の組方について意見を送る。朝日俳壇の選評を書く。『竹冷句抄』読了。「オリジナリ」の原稿、冒頭だけ書く。
9月3日(土)
昼過ぎ、起床。三時過ぎ、練馬区美術館で明日から始まる「日本の中のマネ 出会い、120年のイメージ」展の内覧会へ行く。古いところでは山脇信徳の《雨の夕》に感銘。安井曾太郎のヌードの大作など、今となっては愚劣というほかなく、悲しみにたえず。小磯良平の《斉唱》が意外と面白い。マネ《フォリー=ベルジェールのバー》に拠る森村泰昌の連作は、原作に反映したさまざまな欲望を要素として分解し、再構成する感じ。力強い。ただし、今展の白眉はラストの福田美蘭の部屋。一点を除いて描きおろしの新作ばかり。テレビで演説するゼレンスキーをモティーフにした作品があり、驚く。《つるバラ「エドゥアール・マネ」》《テュイルリー公園の音楽会》など興深し。ご本人、会場にいたが、どなたかと長く話しているので特にご挨拶はせず。A館長と展覧会担当のOさんと挨拶。OさんとはK先生のコレクション展絡みで頻繁にやりとりしていた時期もあるのだが、それも十年ひと昔?
彩の国さいたま芸術劇場へ行く。小ホールで、六時開演の『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』を観る。某社の招待なり。主演の湯浅永麻の身体能力の高さに驚嘆。「オリジナリ」の原稿、書き上げる。今回は角田竹冷を取り上げた。これは大物なので数回続けるつもり。
山口謡司『明治の説得王・末松謙澄 言葉で日露戦争を勝利に導いた男たち』読了。珍しい人物を取り上げているところはよいが、頼まれ仕事らしくやや調査不足かつ推敲不足。また誤植も折々目につく。長谷川哲也『ナポレオン 覇道進撃』第二十三巻、読了。
9月4日(日)
昼過ぎ、出褥。「オリジナリ」原稿、送付。家人が友人と遊びに出ている間に、『鎌倉殿の13人』の録画、一回分を視る。村上春樹『一人称単数』読了。一つ前の短編集『女のいない男たち』よりも面白かった。八編が入っている最後が、「品川猿の告白」「一人称単数」という並びになっているのは、執筆順ではあるのだが、近年のPCの昂進に対する作家の密かな恐怖心の表明のような印象を受けないでもない。「翻車魚」六号用の俳句を作ろうとするが調子上がらず。四時就眠。
9月5日(月)
七時半に目覚ましが鳴り、起きようとするがめまいがして起きられず。八時、八時半もやはり同様。ようやく九時になんとか起き出る。もはや無理は効かない。十一時から会議。以後、終日繁忙。十一時半、退社。水谷千秋監修『空白の日本古代史』読了。
9月6日(火)
代休を取る。家人が都内に出かけている間に『鎌倉殿の13人』の録画を三回分見る。家人帰宅後しばらくしてから、ロキソニンを買ってきてほしいと頼まれる。ロキソニンは薬剤師がいないと売れない薬らしく、もはや七時を回っていたため買える店がなかなかない。家の近所の二軒がだめ。駅前の三軒を回ってようやく入手。
駅前に出たついでに図書館に寄って予約本をゲット。念のため現代日本文学の棚を覗くと、村上春樹『東京奇譚集』があったので合わせて借りる。日曜日に読んだ「品川猿の告白」は、こちらに入っている「品川猿」の続編ということを知ったため、これも読んでみようと思った次第。「翻車魚」六号の俳句、なかなかエンジンかからず。「品川猿」読了。夏石番矢『夢のソンタージュ』を読み始める。これは面白い。
9月7日(水)
終日繁忙。秋上から読み始めた『六百番歌合』、秋中まで読了。顕昭というのは、このあたりの歌史では道化的な役回りを負わされている印象だったが、歌は立派なもの。藤原隆信はどうも他の作者よりワンランク下手。中宮権大夫こと藤原家房にも時々良い歌がある。藤原良経は心が深いし、大らかでありながら巧い。藤原俊成の判詞、ずいぶんぬらくらして、気苦労が思いやられる。「翻車魚」六号用の句、なんとか五句作る。
9月8日(木)
終日繁忙。村上春樹「偶然の旅人」読了。
9月9日(金)
レポート準備のための資料を読み始める。三橋正「平安貴族の造仏信仰の展開―小金銅仏のゆくえ―」読了。『六百番歌合』、秋下まで読了。「トイ」八号が届いていた。仁平勝氏が新同人に加わっていて一驚。池田澄子氏の
短夜と思う枕を撫で均す
が特に良いと思った。「翻車魚」六号の俳句作る。
9月10日(土)
村上春樹「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」、読み終わる。これで『東京奇譚集』は読了。「翻車魚」六号用の句、十五句目まで作る。予約していた堀河百首の注釈書二冊が届いたので、図書館に借りに行く。
9月11日(日)
自室が汚部屋化していたので大掃除する。窓のサッシを雑巾で拭いたら泥で真っ黒になった。村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』読了。村上春樹のここ二十年ほどの短編を立て続けに読んだわけだが、いろいろ感心した。鷗外だの紅葉だの逍遥だのに比べると、書き方がだいぶ進化している。当たり前だが。
9月12日(月)
仕事、意外に手間取る。『六百番歌合』、冬上を読む。
9月13日(火)
午前中、校了作業。三時に新宿一丁目のウエップで、「WEP通信」掲載用の句会。司会は星野高士氏で、「泉」主宰の藤本美和子氏もホスト。ゲストは、高山の他、柳生正名氏、土井あき子氏、大西主計氏。当季雑詠五句出し、七句選。当方の成績、振るわず。みなさんは句会後食事会へ。当方も午後休を取っていたのだが、結局、会社に戻りあれこれ。十時半退社。自宅マンション前の公園で、地べたに眠り込んでいる男がいた。ぴくりとも動かないが、姿格好からして泥酔して眠り伏したもののようだ。外で眠っていても死んでしまう季節ではないのでほっておく。
『六百番歌合』冬下の「仏名」の題の歌が面白い。この題は、永久百首にもあったはずと思ってそちらも読み返してみる。比較すると永久百首の詠みぶりはずいぶん素朴。建久年間になって、歌の詠み方が技巧的に異様な昂進を見せていることが如実にわかった。まさに新古今集前夜である。
9月14日(水)
校了作業二日目。レポートの準備あれこれ。十時半、退社。帰宅すると家人が、朝日新聞の「あるきだす言葉たち」を示し、この人の雑誌のバックナンバーを全部買ったという。中野霞さんという一九九六年生まれの人で、「月刊中野霞」というジンのようなものを出しているらしい。新聞に掲載されていた八首のうち。
死ぬことを考えることは生きること まだ大丈夫 まだ大丈夫
八月は汚い詩であり海でありあなたのために生きていたこと
発火することなき温度が憎い 抱きあえたら死にたいのだぼくたちは
若い女性の短歌に興味があるならこういうのもあるよと、大森静佳の『カミーユ』を渡すと、表紙を見るなり文句を言い、少しパラパラして何首か読んでから、「この人は自分に酔ってる。きらい」と突き返してくる。基本的に私が勧めたものにはケチをつける人である。
新聞といえば「路上で寝るサラリーマン なぜ――コスタリカ出身の写真家 映画制作」という記事もあった。〈8年前、初めて訪れた東京でパチェコさんは驚いた。渋谷や新橋、池袋などを歩くと、泥酔し、スーツ姿のまま地べたに倒れ込むように寝ている男性が何人もいたからだ〉ということで、五年がかりで取材したらしい。まさに、昨晩、拙宅の前の公園で寝ていた男のことである。ただ、私の家があるのは歌舞伎町でも新橋でもないのだが。
9月15日(木)
目薬が尽きたので眼科へ行く。ガード下で立ち食いうどんを食べる。今日はほとんど汗も出ない。
遅ればせながら東京国立近代美術館へ行き、ゲルハルト・リヒター展を観る。ナチスの強制収容所をモティーフにした《ビルケナウ》の展示が眼玉だから、それがドーンと中心にあるのかと思っていたら、中央を大きく占めるのはむしろ、《ビルケナウ》以降の抽象画の一群。九〇年代までのスキージによる幅の広い平滑な筆触(?)よりも、ナイフによる軽快奔放な線的な動きが目立っている。テクスチャーを目で追っているだけで時間がどんどん経ってゆく。
《ビルケナウ》は入ってすぐ左の、やや閉鎖的な感じのする部屋に展示されている。部屋の入口を狭くしぼったこの空間の閉鎖的な印象自体、もちろん狙ったものなのだろう。油彩画四点と向き合って、油彩画を写真に撮った上でそれぞれ四分割したパネルが並び、両者をつなぐ辺に巨大な鏡が設置されている。油彩画の横のやや狭い壁には、ゾンダーコマンドが収容所内で隠し撮りした写真のパネルが掛かる。鏡には油彩も写真パネルも、それらを観る観客自身も全てが映り込む。
巨大なカラーチャートのような《4900の色彩》や色層をデジタルプリントした《ストリップ》にも陶然とした。初期作では、フォトペインティングもさることながら、《グレイの縞模様》が面白かった。まあとにかく、好き勝手していて素晴らしい。ひねくれているが退廃の欠片もない。