ここからは秋部。
心なき星の多さよ天の川 凌岱
「銀河(あまのがは)」の句。秋の夜空に無数の星がまたたいている。しかし、考えてみると、恋に身を焦がしているのはその中でも牽牛・織女の二星だけ。他の星々は、恋など無縁に、いわば悟った〈心なき〉境地にあって、澄みきった光を放っているのだ。――句意はこんなところか。現代語で「心ない」と言ったら、乱暴とか無神経とか、とにかく否定的な意味しかないわけだが、本来は、仏教の教えに従い、執着を離れた境地をいう。仏教の修行はとはつまり「心ない」人間になることを目指すものなのであって、西行の〈心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮〉は、執着を捨てたはずの人間をも感動させる秋の夕暮の情趣を称えている。七夕伝説を踏まえた句作りは近世には非常に盛んだが、掲句の発想は斜め上をゆく冴えわたりぶりだ。
根にもどるところは見えぬ花火かな 荻丈
「花火」の句。「花は根に帰る」という諺にもなっているように、花が木の根元に散ることは、物事が根源に帰ってゆくことの比喩とされてきた。〈花は根に鳥は古巣へ帰るなり春の泊まりを知る人ぞなき 崇徳院〉のように和歌や漢詩にもしばしば詠まれている。そうした伝統を反転させて、この花火という花はしかし、空で消えてしまって根本に帰ってゆく様子は一向に見えなねと言っているのだ。
土盌師(かはらけし)露しん/\といふあたり 太祇
「露」の句。『古今俳諧明題集』には、そういえば、蕪村の句は一句も入っていない。しかし、蕪村の友人の太祇の句はこうして入っている。じつは凌岱は京都で、蕪村と目と鼻の先に住んでいた時期もあるのだが交流の形跡はない。十八世紀京都画壇で、ご近所同士でありながら交流の記録が残らないというのは、別にこの二人に限ったことではないのだが。掲句の土盌師は、現代風にいえば陶芸家だが、この時代には文字通りの職人であって、現在のような社会的地位はなかった。この〈露しん/\〉には、貧しく厳しい生活が含意されていると思っていいだろう。
稲妻や闇にもならぶ雲の峰 秋午
「稲妻」の句。見えていなかった闇の中の雲の峰(それも複数)が、一瞬の雷光に姿を現わした。不気味かつ印象鮮明な句。
零余子(いものこ)の這ひかゝりたる案山子かな 青藍
物言はで今日も暮れゆく案山子かな 麦林
「案山子」の句。正岡子規的な写生至上主義でゆけば、青藍の句はよろしく、麦林の句は嫌味な月並調なりと退けられてしまうだろう。私は両方ともあわれがあって良い句だと思う。案山子なんだから物を言わないのは当たり前じゃないかという批判は見当違いである。物を言わない(言えない)存在に対する思い入れがここにはあるだろう。当たり前の先に埋め込まれた情意を見るべきである。
蟷螂の組んで落ちたるぬかご哉 有為
「零余子」の句。ヤマイモの蔓の部分から、どうした拍子か蟷螂とぬかごが一緒に落ちたのを、騎馬武者の組打ちに見立てた。騎馬武者が組み合ったまま馬から落ちるシーンは、軍記物語でおなじみだ。〈汀にうち上がらんとするところに、押し並べてむずと組んでどうと落ち〉というのは、平家物語「敦盛最期」の一節。
後の月野山に残る駒のこゑ 凌岱
「十三夜」の句。晩秋九月十三夜の月は、中秋八月十五夜の月に対して「後の月」と呼ばれるわけだが、掲句の〈野山に残る駒のこゑ〉は両者の関係性を踏まえたもの。十五夜の翌日、八月十六日は宮中行事「秋の駒牽(こまひき)」の日にあたる。東国の牧から貢納される馬を、宮中からの使者が逢坂の関で受け取り、宮中で披露するわけである。これを駒迎えといい、それを詠んだ歌としては、拾遺集にある〈逢坂の関の岩かど踏みならし山たち出づる桐原の駒 大弐高遠〉〈逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒 紀貫之〉がことによく知られている。ちなみに八月十五夜=満月とは限らず、満月は翌日や翌々日のこともあるようだ。そうでなくとも八月十六夜もだいたい満月なのであり、駒迎え・駒牽と名月は事実上セットで観念されていた。それから一月後の十三夜には駒迎えは行われないが、月はあの日と同じように美しく輝いている。それを見ていると、あの駒迎えの時の馬たちのいななきの印象が蘇ってくる……。やや難解だが、幻想的で美しい句であろう。板橋区立美術館の展覧会には、この句を賛にした俳画も出品される。
白菊の深うつもりて夜寒かな 可登
「夜寒」の句。秋の深まりと共に衰えてゆく菊。花びらが散りつもるころには、夜寒もひとしお身にしみることだ……。ことさら〈白菊〉と言っているところには、やがて降りつもるはずの雪の含意があるだろう。
菊の香の物につく日や露しぐれ 希因
「露しぐれ」の句。これはまた繊細美妙な感覚を詠んだものだ。希因は金沢の俳諧師で、北陸俳壇の重鎮だった。このアンソロジーの句を見ていても実力派であることがよくわかる。凌岱は金沢を訪ねて希因に師弟の礼を取るのだが、じきに喧嘩してしまう。じつは凌岱というのはいろんな人と喧嘩します。家老の息子のくせに脱藩するような人なので、なかなか一筋縄ではいきません。
ゆく秋や鳥の羽風の水に入る 理然
「秋の暮」の句。雁や白鳥などが北から渡ってきて、水辺がにぎやかになったのを〈鳥の羽風の水に入る〉と言った。洒落てるね。
ここからは冬部。
木枯や壺をはづれて滝の音 一鼠
こがらしや砂の流るゝ海のうへ 眠石
これらはどちらも写生的な目が利いている。いや、前者は耳が、か。
夏ならば春ならばとて冬ごもり 文帒
唇で冊子(さうし)かへすや冬ごもり 凌岱
脇息に砂糖の塵や冬ごもり 白枝
「冬籠」の句。文帒の句は、この爺むさい季語の本意を、情けなくもいきいきと捉えた趣き。凌岱の句の主人公は、手を火燵から出すのさえいやがって、唇で本をめくっている。戯画的でありながらおっとりしたこの情感、やはり蕪村の同時代人という感じ。白枝の句。脇息を使ったり、たっぷり砂糖がかかった菓子を食べたり、どうやら暮しにお困りの家でないらしい。豪商とか大身の武家のイメージか。〈砂糖の塵〉とは、それにしても細かいところに目をつけたものだ。
爺婆の京にも多き十夜かな 麦林
「十夜」の句。十夜は、浄土宗の寺院で、陰暦十月五日から十日十夜にわたって行われる念仏法要。今も昔にもこうした仏事に熱心なのは年配者だろう。少子化、高齢化のすすんだ長寿社会の話ではない。老人は少数派なのだし、まして京となるとたいていの町よりは身ぎれいな者が多かろう。十夜ともなると、浄土宗の寺々には、その少数派のくすんだ老人たちがこぞって集まったかのような観を呈すると言うのだ。麦林の経歴はよく知らないが(伊勢派の麦林舎乙由とは別人)、江戸座の俳人らしいから、たまたま京都に旅行してこうした印象を受けるような経験をしたのかもしれない。
枯蘆に月折りこんで千鳥かな 希因
枯蘆がひろがる水面に月が映り、悲しい声で鳴きながら千鳥が飛びめぐる。折れているのはもちろん枯蘆なのだが、〈月折りこんで〉の措辞で生きた句だろう。
藪などに這うて居さうな海鼠かな 麦林
「海鼠」の句。先ほどの爺婆の句もそうだが、この麦林という人、卑俗は卑俗なのだが、それだけで片付けてしまうにはいかないけったいな面白さがある。この句なども、盲点を突いてくる発想ではないか。
松子(まつかさ)の氷をすべる寒さかな 左十
「寒(さむさ)」の句。風が吹いているのだろう。ただし、強風というのではない。その風で、水たまり(もちろん池とかでもいいですが)に張った氷の上を、松ぼっくりがスーッと滑ってゆく。ここまでの即物的な描写はとてもいいと思う。下五は、〈寒さかな〉ではない、もっとシャープな纏め方がありそうな気がする。
節季候や笑ひに酔うた顔で来る 一紅
「節季候(せきぞろ)」の句。年末に家々を廻って施しを受けた乞食のこと。大歳時記によれば、〈胸を手でたたきながら、「せきぞろ、さむらふさむらふ」といってくる〉とのことで、騒がしいのを追い払うために米銭を与えたのであるらしい。歳時記に載る近世の例句を見ても今ひとつ様子が摑めないのだが、掲句は雰囲気がよくわかる。〈笑ひに酔うた顔〉という表現は、なかなか鋭いリアリズムではないか。
ここからは雑部。四季の雑の他、「紀行」「懐旧」「贈答」「題画」といった項目で句を分類している。
雲かすみ何処までゆくも同じこと 野坡
「送別」の句。どこまで行っても雲が流れ、霞が立つことは、ここと違いはない。お心強く行ってらっしゃい。お元気で。――まずはこんな句意か。野坡は、芭蕉の直弟子。孤屋・利牛と共に、芭蕉七部集のひとつ『炭俵』を編集したことで知られる。二十歳で弘前を出奔した凌岱はまず京に出て、大坂にいた野坡に弟子入りしている。野坡は高齢で、翌年には没してしまうのだが。野坡は、芭蕉晩年の「かるみ」の俳風を受け継いだとされ、凌岱はその平明な句風を好んだようだ。『古今俳諧明題集』が、わりとすいすい読めるのは、野坡~凌岱の平明志向が前提にあるだろう。ほとんど何も教えてもらえないまま死んでしまった師であるが、旅から旅を生きた凌岱の胸にはいつもこの句があった――などということがあっても、あながち不思議ではないだろう。
石ひとつ我がこゝろなり一夜ずし 大賀
「贈答」の句。長い前書がついている――〈ある人をとゞめしに、古き詩の心を夜もすがら説いて聞かせたまはりけるに、その言葉を取りて〉。泊めてやったら、一晩中、漢詩の講釈を聞かされた。お説の中にあった詩の言葉を取って。――句と合わせて考えると、大賀さん、客人の度を越したふるまいにややむか腹を立てている気配。なにしろ、ここで取った言葉とは、詩経の邶風(はいふう)のうちの柏舟(はくしゅう)にある、〈我が心 石に匪(あら)ざれば 転がすべからず〉である。私の心は石ではない、転がすことはできない。そんな、人間の誇りにかかわる詩句をひっくり返して、「私の心は石でございます、その石で一夜鮨をつけておきました、ご賞味ください」というのだから。
蚊帳たゝむ夜や銀屏の萩すゝき 支考
「秋雑」の句。蚊帳は基本的には夜に使うもの。〈蚊帳たゝむ夜〉は、夜に蚊帳をたたんだというのではなく、蚊帳を仕舞ったその日の夜ということだろう。蚊帳を吊らず、見通しがよくなった室内に、秋草の描かれた銀屏風が鈍い光を放つ。蚊帳の別れ、蚊帳仕舞ふは、幕末には九月の季語になっているが、支考の時代にはまだはっきりとは季語とされていなかったものか。やや演出過剰の気味もあるものの、渋い美しさの感じられる句だ。
果てはみな扇の骨や秋の風 麦林
「題画」の句は計二十六句。掲句には〈骸骨〉と前書。芭蕉にも骸骨の絵の賛として詠まれた〈稲妻や顔のところが薄の穂〉があるが、言葉の上からはむしろ歌仙「市中はの巻」の〈さまざまに品かはりたる恋をして 凡兆/浮世の果は皆小町なり 芭蕉〉の付合いを思い出させる。芭蕉の作は、発句も付合いも謡曲「通小町(かよいこまち)」にある連歌〈秋風の吹くにつけてもあなめあなめ/小野とはいはじ薄生いけり〉を踏まえており、それは麦林の句も同様だ。骸骨の絵にもいろいろあるけれど、麦林が句を付けた絵はあるいは、骸骨が扇(または扇の骨)を手に舞を舞うタイプのものだったのかもしれない。人みないつかは骨になるという一般的真理を、骨は骨でも扇の骨というのもありますねといったん脱線させておいて、扇の縁語でもある風を蕭条と吹かせて締める。巧妙な句。
月澄むや底にも凄きみやこ鳥 凌岱
「懐旧」の句。昔あったことを懐かしく思い出すのが懐旧だが、このパートで並ぶ六句を見ると、特に死者を悼む内容の句が集められている。うち三句は作者にとって身近な近過去の死者、残り三句は歴史的に有名な死者である。掲句は後者の例。先に、やはり凌岱が、瀬戸内海を船で長崎へ向かう途上に詠んだ〈涼しさや舳へ流るる山の数〉という句を見たが、この句も同じ旅での作。赤間が関の阿弥陀寺(明治以後、赤間神宮となる)で、壇ノ浦の戦いを描いた襖絵を見て詠んだものというから、「題画」の句でもある。〈底にも凄きみやこ鳥〉は、安徳天皇を抱いて入水する二位の尼の「浪の下にも都の候ふぞ」という言葉から来ている。直接的に水底の都を幻視するのでなく、ワンクッション置いて浪の底に幻の都鳥を飛ばしたところに、凄惨な効果があるように思う。