2022年4月16日土曜日

036*2022.4



俳句

俳句

散文
NEW!▶︎手書き考 #iPaddiarysato 佐藤文香

散文

日記(2022.3.17~2022.4.14)  関悦史

 3月17日(木)  
朝5時、腹痛で起床。2時間睡眠が続く。  
昨夜の大地震の片付けも出来ないうちにOさんが来たので一緒に植木の伐採の続き。モチノキの幹にロープをかけ、1メートルほどに伐ってもらっては私がロープを緩めてそろそろと下ろしていたが、止め損ねて落とした幹でブロック塀を割った。
地震で飲みかけのコーヒーに雑誌の山がなだれ落ちていた。奇跡的に40度の傾きでカップが1日固まっていて、中身はこぼれていなかった。 

 3月18日(金)  
俳句もやっている外国文学者の某氏からまたメール。メールに自分の名前を書かない人なので毎回誰だかわからず困る。
打ち合わせの電話1件。
飛浩隆『ラギッド・ガール―廃園の天使2』、マラマッド『アシスタント』読了。
背痛む。 

 3月19日(土)  
眩暈。昨日の冷え込みから気温急上昇。  
Oさんが枝葉の解体に来る。  
Yahoo!メールの仕様改悪、猶予期間が切れて強制的に新デザインにされてしまい、見づらくて仕方がない。用があるものは大体Gメールに移したが、アカウント認証等ではまだ必要になる。
「円座」の連載原稿を書く。  
川村秀憲・大塚凱『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』読了。
腹の不調で眠れず。 

 3月20日(日)
小野村が墓参に戻って来たのに付きあい、大成軒へ。古本屋まで歩き、横溝正史等買う。
桜川の給水塔、つくば市中央公園でオリビア撮影。
ブックオフを2軒回ったらブルース・スターリング『スキズマトリックス』のほか、現代音楽の安いCDがやたらに出た。モートン・フェルドマン、ルイジ・ノーノ他を買う。
夕食はサイゼリヤ(探したら地元にもあった)へ。
斎藤環『心理学化する社会―癒したいのは「トラウマ」か「脳」か』読了。 

 3月21日(月)
Oさん遅れて午後来て庭仕事の続き。
クラゲを詠んだ拙句について問い合わせのメールが来る。
NHK文化センター「土曜俳句倶楽部」は向こう半年間もオンライン開催となった。
原稿進まず。 

 3月22日(火)
嵐、冷え込み。途中から雪。
電力逼迫警報なるものが発令され、いつ停電するかわからないのでパソコンは起こさず、資料を読もうとしたが終日おそろしい眠気、だるさ。 

 3月23日(水)  
屋根からの落雪音しきり。  
溜め込んであった枝葉20袋以上を可燃ゴミに出す。
ウクライナのゼレンスキー大統領の日本向け演説があったが見られず。
三橋鷹女の原稿ようやく書く。 

 3月24日(木)
悪夢。眠気。
亀山郁夫『熱狂とユーフォリア―スターリン学のための序章』読了。
午後、Oさんと庭木剪定の続き。どの枝を切るかの判断に立ち会わされる。
雑誌を届けに来たクロネコヤマトDM便(元メール便)配達のおじさんと、コロナ禍発生以来ひさびさに顔を合わせる。
坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(上・中)』サンスクリット原典からの邦訳部分のみ通読。 

 3月25日(金)
『法華経(下)』邦訳部分通読。
「土曜俳句倶楽部」の投句と「翻車魚ウェブ」4月1日用の10句を送稿。
Oさんが除草剤を撒くのでその範囲を指示。
またクロネコヤマトのおじさんが来て、庭がこれだけ綺麗になったら先生、月見も歌(ママ)も出来そうですねなどと言われる。
側溝上を塞いでいた蔓草と土砂も除去し、市役所に土砂回収依頼の電話。椿とよくわからないヒョロヒョロした木も、脇の道へはみ出た部分を伐採。このところ庭仕事ばかりしていたが、以上で工事は終了。見積額オーバーの16万円を支払う。
五島高資『芭蕉百句』、加藤哲也『詩的俳句の繚乱―中村草田男 試論』読了。 

 3月26日(土)
泥棒に入られる悪夢。
何も読めなくなったので気付けに眉村卓『職場、好きですか?』『こんにちは、花子さん』『頑張って、太郎さん』『疲れた社員たち』『乾いた家族』『ゆるやかな家族』を再読。その後、横溝正史『塙侯爵一家』、柴田翔『鳥の影』、佐野洋『人面の猿』読了。 

 3月27日(日)
気圧と気温の乱高下でおかしくなり、起きていられず。
坂上弘『初めの愛』、梶山季之『甘い樹液』読了。

 3月28日(月)
仮眠は取れたが不調。 

 3月29日(火)
睡眠ズタズタ。
赤川次郎『幽霊列車』読了。 

 3月30日(水)  
腹痛、寝不足で朦朧。  
松本清張『霧の会議(上・下)』読了。 

 3月31日(木)  
アニメ「異世界美少女受肉おじさんと」最終話を見たが、倒す相手の魔王は登場しないまま。選句。 

 4月1日(金)  
松本英夫句集『金の釘』、平敷武蕉句集『島中の修羅』読了。  
寝て本を読んでいるせいで右肘が痛む。 

 4月2日(土)  
NHK文化センターZoom講座「土曜俳句倶楽部」(兼題《階段》)に出講。
「#インボイスはまだ止められる」のツイッターデモをRTしまくる。止まりはせず、私はこれで命を奪われるのだろう。
眠気。中村真一郎『江戸漢詩』無理矢理読了。

 4月3日(日)
腹痛。後頭部鈍痛。
みづな and アキ『約束のあとさき』、竹下白陽句集『紋付鳥』読了。

 4月4日(月)  
ゲラ二つ返す。  
岩波文庫のツイートで『サラゴサ手稿』の完全版が岩波文庫から全3巻で刊行の報。国書刊行会版を古本で手に入れて積んだままだった。
柴田翔『われら戦友たち』読了。 

 4月5日(火)
ガスの点検が来る。ガス漏れ等はなかったが、ガスコンロの五徳が焼けて崩落しているので買い替えを注文する。
段ボールを整理していて、ないと思っていた「翻車魚」3号他を発見。
俳句12句送稿。 
不眠。
眉村卓『おしゃべり迷路』再読。 

 4月6日(水)  
終日眠気と腹痛の板挟み。 

 4月7日(木)
低体温。しんどい。
「まちカドまぞく」原作がCOMIC FUZ(コミックファズ)なるサイトで一時無料公開されていたので、単行本未収録の数話を読む。コロナ禍が始まってからアニメ2期の発表があったが、そちらも無事放映が始まった。
退職する国語教員の知人から、使用済みの『国語便覧』が届いていた。以前私が欲しいとツイートしていたので送ってくれたもの。
添削他済ませる。
『関口比良男全句集』、平敷武蕉『俳句・紀行文 風の黙秘』読了。 

 4月8日(金)
頸椎の狂いが悪化して、脳の位置が物理的にずれたような気持ちの悪さ。凝り、呆けが続いて仕事にならず。
装幀家菊地信義の訃報。
遠山陽子『三橋敏雄を読む』、山奴編著/綿貫豊昭監修・秋尾敏校注『校注 俳諧田ごとの日』、森川昭『千代倉家の四季』読了。『校注 俳諧田ごとの日』は江戸時代の季寄せらしい。「煎餅を繋ぐ」なる季語(?)があるようだが検索しても何も出ず。

 4月9日(土)
パソコン内にあるとわかっているファイルが表示されないエラー、パソコン本体がいよいよ駄目になってきたかと憂鬱。
久下晴美句集『単眼鏡』、久保純夫句集『動物圖鑑』、ディクスン・カー『皇帝のかぎ煙草入れ』読了。 

 4月10日(日) 
「翻車魚」6号の打ち合わせメールが来る。 
柴田翔『新潮現代文学71 されど われらが日々――・鳥の影』読了。 
選句進める。 
首の不具合、頭痛続く。顳顬まで膏薬だらけにしてやや復調。 

 4月11日(月)
檜垣立哉『ドゥルーズ入門』、五味川純平『孤独の賭け』全3巻読了。
腹痛、不安感。 

 4月12日(火)
藤澤清造『根津権現裏』、J・ポトツキ『世界幻想文学大系19 サラゴサ手稿』読了。 

 4月13日(水)
古紙の山を出し、急に土中から新芽を伸ばしまくった玄関前の木も1袋分切って可燃ゴミに出す。
ガス会社が来てガスコンロ交換。また2万円弱飛んだ。
杉原祐之句集『十一月の橋』、中原道夫句集『橋』読了。
選句の続き。
原稿督促の電話が来る。締切日を勘違いしていた。 

 4月14日(木)
昨日まで暑かったが急に寒くなり、強風。
庭にもう出始めたドクダミを少し取る。
原稿用の資料読み。
夜、寝ついてすぐセールス電話で叩き起こされ、山田佳乃『京極杞陽の百句』読了。杞陽がスキーヤー志望だったのは知らなかった。

2022年4月15日金曜日

手書き考 #iPaddiarysato 佐藤文香


 

パイクのけむりⅩⅥ~ウェルテルは何回泣いたか~  高山れおな

今年の十月に、『尾崎紅葉の百句』という本を出す予定だ。ふらんす堂の新書版の『○○の百句』シリーズの一冊である。これまでは特にシリーズ名も無かったようだが、今年二月刊行の『長谷川素逝の百句』か、その一つ前の『沢木欣一の百句』から、「名人百句シリーズ」という名前ができたらしい。

前回の本欄で書いたように、百句鑑賞の原稿は三月二十日に書き上げた。まだ、巻末に収録する作家論が手つかずながら、その前にガス抜きとして本稿を書こうと考えた。というのも、紅葉の俳句について書くために多少は資料を読むわけだが、イラッとすることが多いのです。たとえば二〇二〇年に翰林書房から出た『尾崎紅葉事典』。内容は書名の通りで、作品編・人名編・事項編などの部立てのもと、紅葉にかかわる百般を記している。いや、たいへんお世話になりました。しかし、解説編の「紅葉の俳句」の項はどうだろうか。これも、いろいろためになる情報がよく整理されて掲出されているには違いない。ただ、筆者の上田正行は、金沢の徳田秋声記念館の館長を務める人で、つまり小説が専門の近代文学研究者である。夏目漱石がらみの論文が多く、泉鏡花を論じる文章もある。鏡花・秋声は紅葉の弟子だから、紅葉についても相応に詳しいのであろう。しかし、上記解説を読む限り、上田氏が俳句への、まして紅葉の俳句への愛をお持ちである印象は受けない。それかあらぬか、研究者にしては詰めの甘い記述も見られる。紅葉の句作がいつ始まったかをめぐって、上田は次のように記す。

ところが、最も早いものとしては星野麦人編『紅葉書翰抄』(博文館、明治三九年一月)に見られる「月の前通るも見たし杜宇」(明治一九年六月一二日付篠崎霞山宛)であることを、村山古郷が『明治大正俳句史話』(角川書店、昭和五七[一九八二]年四月)で指摘している。明治一八、九年頃から句作を始めていたことが知られる。 

しかし、これは誤りで、管見では明治十七年(一八八四)の俳句が伝わっている。岡保生の『日本の作家41 明治文壇の雄 尾崎紅葉』(新典社 一九八四年)にこうある。

明治十七年当時、『膝栗毛』が紅葉無二の愛読書であったことは美妙のいうとおりだが、紅葉の興味が前記のように江戸後期の文学全般にまで拡大されつつあったことは、勝本清一郎氏が紹介した人情本、二世梅暮里谷峨(うめぼりこくが)の『春色連理楳(しゅんしょくれんりのうめ)』の筆写本五冊が伝存しているのを見てもわかる。この筆写本の奥書には「半可通人」の署名で、

   汗落ちて墨色にじむ夏書(ゲガキ)かな
     明治十七年八月廿二日於柳翠花紅亭 
とある、という。 

岡保生の本は、紅葉の評伝として最も基本的なもので、そこにこうはっきり書いてあるものを、村山古郷が云々という話になってしまうのはいささか杜撰。だいたい、岡にしてからが、これが紅葉の現存する最も早い俳句であることに注意を向けていない。岡も小説の研究者だから、やはりそこは素通りしてしまうのである。それにしても、上田がこの記述を見落としていたのはたまたまだとして、これは彼個人の本ではなく、編集委員が何人も(正確には五人)いる“事典”なのである。全員が紅葉周辺の研究者であるはずの彼らの誰一人として岡の記述を気にしていなかったのだとすれば、俳人たる当方としてはいささか憮然たらざるを得ない。なお、紅葉は、慶応三年(一八六七)十二月十六日生まれなので、上の句は満では十六歳の時の作ということになる。

それでは村山古郷はどうか。古郷には当方ももちろん、さまざまな学恩を受けている。『明治大正俳句史話』で、紅葉の最初の句を明治十九年のものとしたのは誤りであるにせよ、岡の本は同書の二年後、一九八四年の刊行だから、その情報を利用できなかったのは是非もない。利用できなかったといえば、古郷は一九八六年に亡くなっており、一九九三年から九五年にかけて刊行された『紅葉全集』(十二巻+別巻 岩波書店)を見ていない。この全集の第九巻は、紅葉の俳句資料を網羅的に集めた画期的な労作で、しかし、それが充分には活用されていないというのが現況なのである。 

古郷は、『日本近代文学大系56 近代俳句集』(角川書店 一九七四年)の「文人俳句」の章で紅葉の句を抄出するにあたり、星野麦人編『紅葉句帳』(文禄堂書店 明治四十年)を底本とし、久保田柳葉編『紅葉句集』(俳画堂 大正七年)を退けているが、それが必ずしも当を得ているわけでもないことは、全集第九巻を見るとすぐわかる。古郷は、紅葉の死去の翌年に出た瀬川疎山編『紅葉山人俳句集』(帝都社 明治三十七年)を、〈遺漏、誤りもすくなくない〉と批判しつつ、『紅葉句集』についても、〈みだりに用字を改めたところもあり、いささか信を置きがたい〉としている。『紅葉句帳』を採ったのは、結局、編者の星野麦人が紅葉の俳句における直門であることが理由のようだ(久保田柳葉は紅葉俳句の一ファンで、紅葉晩年の趣味である写真の仲間)。けれど、全集第九巻で、紅葉生前の新聞・雑誌における初出・再出を確認すると、『紅葉句帳』の方もしばしば〈みだりに用字を改め〉ていることが明らかで、『紅葉句集』を退ける理由は乏しい。と、このように『句集』の肩を持つのは、『句帳』の収録句数千四十一句に対して、『句集』は千二百二十句を収めており、『句集』を使わないと二百句近い句が失われてしまうからだ。それに古郷にしても用字云々と述べているように、改めていると言っても、「哉」と書くか「かな」と書くかレベルの違いの場合が多く、総じて句の価値には影響が無いのだ(句の内容が大きく変わる異同も皆無ではないが)。紅葉自身の揮毫、それも唯一の揮毫が残っているケースで、具体例を見てみよう。 

その1 寒詣翔るちん/\千鳥かな 
明治36年10月22日 斎藤松洲の俳画に着賛 
明治36年11月25日「卯杖」第11号に口絵写真として掲載 
揮毫そのものが現存(東京都立中央図書館特別文庫室蔵) 

その2 寒詣(かんまうで)かけるちん/\千鳥(ちどり)かな 
明治36年11月1日「二六新報」 

その3 寒詣翔るちん/\千鳥哉 
明治37年10月25日「卯杖」第2巻第10号 

その4 寒詣翔るちん/\千鳥かな 
『紅葉山人俳句集』 月別編集の「一月の部」に収録 

その5 寒詣翔るちん/\千鳥哉
『紅葉句帳』 四季別編集の「冬」の部に収録 

その6 寒詣翔るちん/\千鳥かな 
『紅葉句集』 季語別編集の「冬」の部に収録 

紅葉の終焉は十月三十日だったから、この句を揮毫した十月二十二日は死の八日前になる。死去翌日の十一月一日に、紅葉自身が社員として所属していた日刊紙「二六新報」に「尾崎紅葉氏逝く」の記事が出て、そこにしばしば辞世とされる〈死なば秋露の乾ぬ間ぞ面白き〉、十月二十一日に詠まれた〈床ずれや長夜のうつゝ砥の如し〉と共に引かれたのが、寒詣の句が活字に翻刻された最初。ここでいきなり表記が変更されてしまっている。「寒詣」「千鳥」にルビが振られたのはさておき、「翔る」を仮名に開いてしまっているのはどうしたことか。しかし、これは「二六新報」の粗忽からというより、ルビを加えたのと同様、読者の便をはかっての意図的なものだろう。十一月中には、紅葉が幹部の一人であった秋声会の機関誌「卯杖」も紅葉追悼号を出し、「故紅葉氏絶筆」というキャプション付きで、揮毫そのものの写真を掲載している。そして、『紅葉山人俳句集』『紅葉句帳』『紅葉句集』の三つの句集であるが、『俳句集』『句集』が紅葉の自筆に忠実で、『句帳』はなぜか「かな」を「哉」にしてしまっている。この句はたまたま紅葉の、しかも死の直前に書かれた唯一の揮毫が残っているためこうした比較もでき、正誤も明らかだ。しかし、揮毫が残っていないケースの方が圧倒的に多いのだし、逆に、句集が編纂された明治~大正の時点では、用字が異なる複数の揮毫が残っていたケースもあっただろう。紅葉は当代一の流行作家で能書だったから揮毫の依頼は引きも切らず、紅葉自身揮毫が大好きときていたのだから。ともあれ、『句集』を退け『句帳』を採る古郷の判断に従う必要がないことは、おわかりいただけたと思う。

寒詣の句の揮毫が現存することを知ったのは、昨年八月に出た岸本尚毅の『文豪と俳句』(集英社新書)によってである。同書に出る図版を見た上で、国立国会図書館で「卯杖」の口絵を確認したという順序になる。『文豪と俳句』では、幸田露伴・尾崎紅葉から川上弘美まで十三人の小説家や詩人の俳句を鑑賞している。紅葉の項もおおむねバランス良く書かれていて楽しく読めるが、他ならぬ寒詣の句については結構な珍解釈がなされている。

紅葉の絶筆は死の八日前の吟。『俳諧新潮』のカバー絵を描いた画家斎藤松洲の絵の讃として詠んだ句です。寒詣は、寒中夜毎に寺社に参詣すること。画中の男の手には提灯と鈴。飛ぶように駆ける男とチンチンという鈴の音を受けて「翔るちん/\千鳥かな」と詠みました。「ちん/\」は千鳥の声の形容ですが、男女の深い仲も意味します(山口仲美『ちんちん千鳥のなく声は』)。だとすると、画中の男は寒詣と称して女のもとへ急いでいるのです。 

珍解釈というのは、最後の〈画中の男は寒詣と称して女のもとへ急いでいる〉の部分である。岸本が参照している山口仲美の本(一九八九年 大修館書店/二〇〇八年 講談社学術文庫)は、日本語における鳥の声の聴きなしの検証を軸に、それぞれの鳥に対する日本人の思いのありようの変遷を追ったもの。チドリの章では、万葉集の柿本人麻呂の歌から北原白秋作詞・近衛秀麿作曲の童謡「ちんちん千鳥」にいたるまでの例が挙げられている。そもそもチドリのチ自体がこの鳥の鳴き声に由来し、チヨという声で何回も鳴く(チヨチヨチヨ……)と聞きなせるところから王朝和歌ではヤチヨ=八千代と鳴くめでたい鳥とされたという。中世の狂言などではチリチリと音写され、江戸時代になるとチリチリの他にチンチンという言い方も生まれ、「ちりちり千鳥」とか「ちんちん千鳥」のように鳴き声を鳥の名に冠することも行われるようになる。一方で、「ちんちん」には男性器から男女の深い仲まで、隠語としてのさまざまな意味がある。これがシンクロすると、次のような近世歌謡の歌詞ができる。 

ならぬ恋ならやめたもましよ、 
沖のちんちん千鳥が、羽うち違(たが)への恋衣、 
さてよい中(なか)それが定(ぢやう)よ、 
沖のちんちん千鳥が、羽うち違への恋衣、 
さてよい中。 

これは元禄年間にまとめられた歌謡集『松の葉』にある「ちんちん節」の歌詞。また、享保年間に初演された紀海音(きのかいおん)作の浄瑠璃「心中二ツ腹帯」には、 

女夫(めうと)の仲はちんちん、去りなしたは此の母 

という詞句もあるという。山口の本でこういう例を見せられて、岸本は紅葉句の男が寒詣と称して女のもとに急いでいるなどと言ってしまったのだが、らしくもない無理筋の飛躍である。だいたい山口は、上記の浄瑠璃の詞章を引いてすぐ、〈だが、これは、江戸時代のことである〉と断って、白秋の「ちんちん千鳥」(大正十年[一九二一])には、〈そんな色めいた意味は、全くない〉とはっきり言っているのである。 

ちんちん千鳥の啼く夜さは、 
啼く夜さは、 
硝子戸しめてもまだ寒い、 
まだ寒い。 

ちんちん千鳥の啼く声は、 
啼く声は、 
(あかり)を消してもまだ消えぬ、 
まだ消えぬ。 

「ちんちん千鳥」の冒頭二連だが、実際、全く色っぽくはない。もちろん、白秋の詩の「ちんちん」に男女の深い仲という意味が掛けられていなくても、紅葉の句のそれには掛けられていたっていいわけである。紅葉は近世文学にも音曲や芝居にも精通していたのだから、「ちんちん節」だって知っていた蓋然性は高い。ただ、言葉の隠語的な意味を承知していることと隠語的に使うこととは別の話である。松洲の絵や紅葉の句が、現に女のもとへ急ぐ男を描いているのかだけが問題になるが、これはもうあれこれ検討するまでもないようなものである。 

岸本はそもそも絵の中の男がなぜ走っているのかまともに考えていないようだ。寒詣は寒中におこなう行(ぎょう)であって、陽気の中をのんびり花見に出かけるのとはわけが違う。角川の旧版大歳時記の説明には、〈寒の三〇日間の夜、寒気をおかして神社や寺院に参り、祈願する行をいう。昔は裸にはだしのものが多かったが、近ごろは白装束や普通の服装の人も少なくない〉とある。松洲の絵の男は、白鉢巻をして白衣を着ている。裸でこそないが、白衣は腰回りまでの短いもので、脚は剥き出しだ。また、歳時記の説明通りはだしである。これを冬一月の三十日間(日数は所により時代により変化するのだろうが)、夜毎に繰り返すのである。この場合、女が待ってなくても、ふつう走るのではないか? それから、岸本は千鳥そのものが走る鳥であることも忘れている。和歌の例もいくらもあろうが、俳諧なら去来の有名な〈あら磯やはしり馴(なれ)たる友鵆(ともちどり)がある。結局、〈寒詣翔るちん/\千鳥かな〉は、寒気をついて参拝を急ぐ行者が鳴らすチンチンという鈴の音から、「ちんちん千鳥」という定型フレーズを呼び出しつつ、走る男の姿を浜辺や磯を走りまわる千鳥の姿に重ねているのである。千鳥のイメージを重層させることで、白秋の童謡に横溢しているような寂寥感をもたらす効果もあるだろう。また、提灯もだが、鈴を鳴らすのにも、衝突防止の意味があるだろう。つまり、走ることを前提にした装備なのである。女の出る幕はない。 

岸本の紅葉論では、もう一か所引っかかるところがあった。それは、 

泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧哉

についての記述である。 

 朧夜に泣きながら行く青年。彼はゲーテの小説の主人公のウェルテルだというのです。 三十五歳の紅葉が胃癌を告知されたのはこの年の三月。それを知ると「ウヱルテル」が紅葉に見えます。しかしそれは読者の勝手な想像かもしれない。日記によると紅葉は前年三月に『若きウェルテルの悩み』を読んでいます。紅葉はただ、ゲーテを俳句にして得意がっているのかもしれません。 

この一節はじつは当方の文章に対する批判でもある。「俳句」誌の二〇二〇年六月号における「大特集・教養としての〈文人俳句〉」に、私は「各(おのおの)力の限り新意を出(いだ)さむ――尾崎紅葉の俳句」を寄稿した。同じ特集で岸本は、横光利一について書いていたのである。それだけじゃ岸本がお前の文章を読んだとは限らんじゃないかとおっしゃる? ごもっともである。しかし、ウェルテル句が、紅葉がまさに胃癌を宣告された明治三十六年三月の発表作であること、日記を調べて紅葉が明治三十五年二月から三月にかけて英訳本で『若きウェルテルの悩み』を読了していることを指摘したのはたぶん私が最初だ。近代文学研究者が紅葉の俳句に興味を持っていないことはすでに述べた通りで、個別の句に踏み込んだ考証など誰もしていない。もちろん、岸本が自分で全集を突っつき回せば同じ情報は得られる。ただ、私はそうする動機があったのでこの句を読むために日記までチェックしたが、岸本にはたぶんそんなことをする理由はなかっただろう。私がそこまでこの句にこだわったのは、〈筆者が最初に知った紅葉の俳句作品〉だったことと、高橋睦郎の『百人一句』(中公文庫 一九九九年)でこの句が取り上げられており、そこで示された高橋の解釈からあれこれ考えるところがあったからである。それにしても、こんなことを縷々述べなくてはならないのは、岸本が巻末の「主な参照文献」のところに拙文を入れておかなかったからである(スペースには充分余裕があるのにね)。 

さて、私が岸本の文章のどこに引っかかったかであるが、それは〈三十五歳の紅葉が胃癌を告知されたのはこの年の三月。それを知ると「ウヱルテル」が紅葉に見えます。しかしそれは読者の勝手な想像かもしれない〉のところである。この部分がつまり、拙文の下のような記述に対するあてこすりであることは明らかだろう。 

ウェルテルの句は、一連の病中吟の直前、入院を決断させるほどに体調が悪化しつつあった時期に詠まれたことになる。ウェルテルは西欧の小説の男性主人公としては例外的によく泣くから、〈泣いて行く〉という表現は自然だが、この青年がかなわぬ恋に絶望し、ついにピストル自殺を遂げることは、死病を疑いつつあっただろう紅葉の意識と無関係ではあるまい。また、紅葉自身が小説執筆中あるいは観劇などの際に、感激の余りしばしば泣いたこと、『金色夜叉』の間貫一が「乱落(ほふりお)つる涙」に頰を濡らしながら、「僕の涙で必ず月は曇らして見せるから」と叫ぶウェルテル的人物であったこと、『多情多恨』の鷲見柳之助に到っては文庫本で数百頁にわたり、亡妻を慕ってひたすら泣き続けることも思い出しておきたい。〈泣いて行くウヱルテル〉に、紅葉の自己像(セルフイメージ)や彼が創造した主人公たちの姿を重ねてうけとることは難しくない。 

私としても、〈紅葉はただ、ゲーテを俳句にして得意がっているのかもしれません〉という岸本の見解を一概に否定するものではない。高橋睦郎は前掲書でウェルテル句について、〈ヨーロッパ文学の人名を取り入れた最初の句ではなかろうか〉と述べている。最初の句と言い切る用意は当方には無いものの、最初期の句であることは確かだろう。そういう新しい試みに挑戦して、まずまずの句ができて「得意が」るということは、たとえどんな状況にあったとしても俳人の生理というものだ。だからと言って、「ただ」それだけと見るのは、この場合はたして適切なのだろうか。 

ここで、「俳句」誌に寄稿した時のことを述べておく。ご承知のように、同誌はどういうわけか総合誌の中で締切までの時間がいちばん短いという特徴を有している。文人俳句特集の時も、締切まで一ヶ月くらいだったのではないだろうか。ところが、天の配剤というべきか、この時はたまたま良い感じで仕事のインターバルに当っていて、当該の原稿に注力することができたのですね。紅葉なんてそれまで一冊も読んでいなかったのだが、俳句はもとより、小説やら紀行やら、主要作品を立て続けに読んで執筆に備えたのだった。新型コロナ第一年で、最初の緊急事態宣言が出てしまい、国会図書館が使えなかったため、読みたくても読めない評論があったりしたのは心残りだったが、日記から紅葉が『ウェルテル』を読んだ時日を突き止めることもでき、時間的限界の中でいちおうやれることはやったという手応えはあったのである。

そして今回、『尾崎紅葉の百句』を書くにあたり、二年前に読めなかった文献も改めて読んで発見もいろいろあった。特に、明治期のゲーテ受容がどのようなものであったのかは、前回気にしていながら確認に到らなかった事項の一つであるが、星野慎一『ゲーテと鷗外』(潮出版社 一九七五年)という恰好の本があることがわかり、早速取り寄せた。書名の通り、過半は森鷗外のゲーテ受容を扱っていて、『ウェルテル』の初期の翻訳状況なども詳しく書いてある。残りの半分弱は、「ゲーテと日本の作家」に当てられており、鷗外以外の明治・大正期の文学者六人とゲーテとの関係を追っている。紅葉も六人のうちの一人で、それはいいのだけれど、紅葉を論じた章はほとんど田山花袋の『東京の三十年』を敷き写しにしたようなしろもので、またしてもイラッとさせられたのだった。しかし、紅葉の弟分・巌谷小波が主宰した白人会のメンバーでもあった岡田朝太郎(刑法学者、川柳についての著書もある)が書いた、「癌」という文章の存在を教えられたのは大きかった。これは、「文藝春秋」昭和十年(一九三五)三月号に掲載された随筆である。 

それによると、明治三十六年二月二十二日、紅葉は大学病院の入沢博士から、胃に腫物があるとの診断を受ける。入沢博士は正確な病名は第三者に伝えるので、翌日の昼食時に大学の食堂にその人をよこしてもらいたいと紅葉に告げる。第三者には岡田朝太郎氏が適任であろうとの博士の指名なので、紅葉は岡田に手紙を出し、翌日、入沢博士と面談して、結果は清風亭で会う時に教えてほしいと依頼する(この手紙は全集第十二巻にも載っている)。翌二十三日、入沢博士から紅葉が胃癌である旨を告知された岡田は、別の友人とも相談して紅葉に病名を伝えることに決める。 

 さてその夜、手紙にある清風亭にてと云ふのは赤坂の清風亭で、白人会の俳句会の集りがあつたのだ。(中略) 
さて、その夜会ふと紅葉がどうだつたと云ふから別室へ呼んではつきり宣告し、同時に入院をすゝめたのであつた。彼は、やつぱりなあ!! と云つた。 
その夜の記録に 
泣いてゆくヱルテルに会ふ朧かな 紅葉 
と残つて居る。 

 というわけで、ウェルテルの句は、単に三月二十五日付けの「卯杖」第三号に初出したというだけでなく、胃癌であることを告げられた当夜、二月二十三日の句会に出句されたこともはっきりしたのである。岡田の文章では、この句が席題による即吟か、持ち寄りかまではわからないが、当夜の作でないとしても直前の数日のうちの作であることは間違いあるまい。ゲーテを句にし得た得意はそれとして、この句のウェルテルに紅葉の自己像を重ねること自体は自然な読解であって、決して高山の勝手な想像ではなさそうだということは岸本氏に改めて申し上げたい。 

その上で、紅葉の個人的状況から離れて、句の言葉自体を吟味してみたい。まず「朧哉」については、作句のタイミングが春だから春の季語となった面が大きかろう。春の季語のうちでは悶々の情を遣る背景として朧夜はいかにもふさわしく、ごく素直な斡旋と見る。最も気になっていたのは「泣いて行く」の「行く」で、単なる文飾なのか、『ウェルテル』そのものにこの言葉を呼び出すようなシーンがあるのかということだった。二年前の原稿を書く時にも、『ウェルテル』をぱらぱらとやって、主人公が泣くシーンが何か所もあることまではチェックしたのであるが、全体を読み返すことまではしていなかった。それで前回本欄で記したように、ひょんななりゆきもあって出先で『ウェルテル』(高橋義孝訳 新潮文庫)を買い、たぶん三十年ぶりくらいに再読したのだった。 

まず泣くシーンであるが、数えてみると二十カ所ある。文庫本で正味二百十三頁のさして長くもない小説でこれはかなり多いだろう。ついで「行く」イメージのもとになるようなシーンがあるのかどうかだが、あると言っていいと思う。この小説は第一部と第二部がいわゆる書簡体小説(ウェルテルがウィルヘルムという友人に宛てた体裁を取る)で、その後に「編者より読者へ」として、自殺したウェルテルが残した断片的なメモや遺書と、編者による解説からなるパートが続く。「行く」イメージを喚起しそうなのは、このうち第一部のラストである九月十日の書簡と、「編者より読者へ」で編者によって客観的に描かれる、ウェルテルが自殺する前々夜の様子である。 

「ぼくたちはまた会えますとも。見つかりますとも。どんな姿をしていたって見分けがつきます。ぼくは行きます。よろこんで行きます。だけれど、永遠にというのであったらぼくはいやだ。さようなら、ロッテ。さようなら、アルベルト。また会いましょう」――「あしたね」とロッテは冗談をいった。――明日(あした)という言葉が胸をついた。ロッテが手をぼくの手から引いたとき、それには気がつかなかったんだ。――二人は並木路から向うへ行ってしまった。ぼくは立ったなりで、月光の中の二人の後ろ姿を見送っていた。ぼくは地にひれ伏して、泣いた。はね起きて、高台にかけのぼり、下を見ると、向うの高い菩提樹の陰を庭戸の方へ動いて行くロッテの白い服がほのかに光っている。ぼくは両腕を差し伸べた。ロッテの姿は消えてしまった。 

これは九月十日の書簡の末尾。ロッテとアルベルトの結婚が迫り、ついに町を去る決意をしたウェルテルが、二人に別れを告げる場面だ。この時はまだ死ぬことまでは考えていないので「永遠にというのであったらぼくはいや」なのだし、「明日という言葉が胸をついた」のは、翌日出発することになっていたからだ。九月だから秋だけれど、まさに月夜であり、高台にかけのぼって二人を見送ったウェルテルは、どう考えてもこのあと「泣いて行く」ことになるだろう。 

女中が行ってまた自分一人になってしまうと、隣の小さい部屋のドアのところへ行って小声で、「ロッテ、ロッテ、たった一言だけ、さようならだけでも」と呼びかけてみたが――返事がない。ウェルテルは待った。また頼んで、待った。それから身を返して、叫んだ。「さようなら、ロッテ、永遠にさようなら!」 
町の門にきた。すでに顔見知りの番人は何もいわずウェルテルを外へ出してやった。みぞれの夜だった。十一時頃になって再び町の門の扉をたたいた。ウェルテルが家に帰りつくと、従僕は主人が帽子をかぶっていないのに気づいた。しかし何もいおうとはせず、服を脱がせた。びしょぬれにぬれていた。帽子はあとで、谷にのぞんだ丘の斜面の岩の上に発見された。暗い雨夜に落ちもせずにどうしてあの岩に登ったのか、不可解である。 

ここではウェルテルが泣いているとは書かれていない。もはや世界全体が泣いているからだ。その泣いている世界の中を、絶望した主人公が狂ったように歩き回っている。これらのシーンは、全体が熱にうかされたようなこの小説にあってもまさにクライマックスと言っていい。紅葉がウェルテルの句を作ったのは、小説を読んでからちょうど一年後である。紅葉が読んだ英訳本は、カッセル版という古くて誤りも多い、悪名高い訳書だったが、そんなお粗末な翻訳からでも、こうしたシーンが帯びている熱狂性は伝わっただろう。紅葉が一年前の読書の印象をたどり直し、ウェルテルを句にしようとした時、それが「泣いて行く」という形象に帰結したことに、当方としてはともかく納得したのであった。 

最後に「逢ふ」が残っている。ウェルテルが紅葉のセルフイメージと重層する一方で、「逢ふ」主体はイコール作者なのだから、この措辞はいわば主体の分裂めいた感触をもたらすことになる。その感触は、一句を再び紅葉個人の生の状況――茫然自失しそうなところを踏みこたえているような――へと還元する効果を持つだろう。一見したところよりずっと複雑な味わいを感じられる句、そのように言ってしまって良い気がしている。 

追記 ウェルテル句の表記の揺れを、寒詣句の場合と同様確認しておく。 
その1 泣いて行くエルテルに会ふ朧哉 
明治36年3月25日「卯杖」第3号 

その2 泣いて行くウエルテルに会ふ朧哉 
『紅葉山人俳句集』 「春雑及兼三春物の部」に収録 

その3 泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧哉 
『紅葉句帳』 「春」の部に収録 

その4 泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧かな
『紅葉句集』 「春」の部に収録 

その5 泣いてゆくヱルテルに会ふ朧かな 
岡田朝太郎「癌」 

ちなみに、上田敏に英訳本の借覧を依頼する紅葉の手紙(明治34年11月1日)には「ヱルテル」とあり、日記で同書を読み始めた記事(明治35年2月8日)では「ウエルテルの愁」、読了の記事(明治35年3月14日)では「ウエルテル」と表記する。岡田の「その夜の記録」は、句集三種のどれとも一致しておらず、岡田は「癌」を書くにあたり句集ではなく、確かに手許の記録を見たのであろう。 

こうして並べてみると、岡田の記録は句会時の紅葉の表記に、『紅葉山人俳句集』は初出の「卯杖」に、ともかく沿ったものではあるようだ(ただし、岡田は「行く/ゆく」「哉/かな」の用字には頓着していない可能性がある)。これに対して、『紅葉句帳』の編者・星野麦人は、古郷の想定とは逆に、俳句の弟子なるがゆえに、師の句の表記を整える意図から、〈みだりに用字を改め〉てしまっていると見られる。『紅葉句集』は『紅葉句帳』に従いつつ、さらに「哉」を「かな」と開いたのだ。 

問題は「卯杖」の「エルテル」で、岡田の記録を参照すると「ヱルテル」の誤植の可能性が出てくる(大いにありそうな誤植と言っていい)。他方、紅葉が「ウエルテル」と書くこともあったことからすると、ウの脱字とも見られる。『紅葉山人俳句集』の編者はまさにそう考えて、「卯杖」に依拠しつつ「エルテル」を「ウエルテル」に直したのだろう。 

泣いて行くヱルテルに会ふ朧哉 
泣いて行くウエルテルに会ふ朧哉 

この句の表記は、「卯杖」の初出に準拠すべきと考える。しかし、その初出に誤植がある疑いが濃厚で、さらに誤植の訂正案が二種あるという困った状況なのだ。ここでは上のように、それらの訂正案を示して後考を俟つこととする。

*「パイクのけむり」第21回で、本稿の内容の一部を修正しています。
 併せてお読みください。

2022年4月4日月曜日

パイクのけむりⅩⅤ~春の旅、日記篇~  高山れおな

このブログは、月始めに俳句作品を、月半ばに散文をアップすることになっているが、三月はとうとう文章を上げられず終いだった。四月もようやく三日遅れで俳句をアップしたところだ。しかし、これまで皆勤だったのにここで一回休みにするのも業腹なので、遅ればせながら三月分として以下の文章を掲出する。俳句の方のタイトルを「春の旅」としたが、これは三月中あちこち出かけることが多かったからで、文章の方は同じ旅の記事を日記から書き抜いて、表現を簡単に整えたものです。 


3月3日(木) 

午前1時半就眠、午前4時半出褥。5時半の電車で羽田空港へ向かう。木津文哉氏の壁画の取材で長崎県大村市の本経寺へ行くため。広告部Iさん、写真部H君と7時35分発のJAL便搭乗。9時半、長崎空港着。別便に変更したかと思われたN画廊のMさん、結局、同じ飛行機に乗っていた模様。 

時間が早過ぎるので空港内のスタバでお茶する。そこに朝日新聞のNさんから電話。赤字を入れて選評から削除した添削案、残してはどうかとのこと。それではそうしてくださいと返事する。N画廊福岡店のY氏の迎えでホテルに行く。以後はYさんが乗ってきた車を借り、Iさんが運転して滞在中の脚にすることにする。取材まで時間が余っているため、玖島城跡の大村神社に参拝。3万石弱の小藩ゆえ城も小さいが、本丸の高石垣はなかなか立派。城内には玖嶋稲荷神社というお社もあり、両社の御朱印をゲット。 

昼食後、チェックインして部屋に荷物を置き、本経寺へ行く。壁画、銀箔貼りの力作。当寺は大村家の菩提寺で、歴代藩主の墓塔が異様に巨大なことで知られる。高野山奥の院にも大名の巨大な墓があるが、ここのは最大級のものでは高さ6メートルに及び、ちょっとオベリスクめいた、ことさら高さを強調したデザインになっているのが独特である。忙しいかとは思ったが、帰るまで時間のある時にということで、お寺の事務の人に御朱印帖を渡す。午後4時から木津さん、N画廊の社長夫妻、檀家の役員など集り、壁画の開眼法要。式衆は11人。日蓮宗の法要は初めてだったが、クライマックスでは木剣というカスタネットのような法具を使い、はなはだ壮観。法要後、木津さんと簡単に挨拶。明日のインタビューのことを約す。法要の出席者が食事会をするのと同じ料理屋へ行き、しかしそれとは別に我々だけで夕食。ホテルに戻り、夜9時半頃、ベッドに入るとすぐ沈没。 


3月4日(金) 

午前7時半出褥。入浴。4人でホテルそばの吉野家で朝食。9時半に本経寺に行き、壁画の撮影、ご住職、木津さんのインタビューなど。15時15分の飛行機で東京へ帰る。空港の売店で家人に頼まれた福砂屋のカステラを買う。品目の指定もあったがそれは長崎市の本店と浦上店でしか扱っていないとのこと。待合室にいる時、衝撃的な事実が判明。昨日、私が書いてもらった御朱印にはメインの文字が「妙法」とあったのだが、奥さんに頼まれて御朱印帖を持ってきていたIさんが今日書いてもらった方には、「南無妙法蓮華経」と髭題目がフルで書いてあった。事前にネットで見ていた画像では、やはり髭題目がフルで書いてあったので、昨日、御朱印帖を受け取った時やや不審だったのだが、この期に及んで愕然とする。飛行機、揺れる。3人は空港から帰宅。こちらは会社に寄って多少の作業あり。帰宅後、『尾崎紅葉の百句』2句分の本文を書く。午前3時半就眠。 


 3月7日(月) 

すっきり眠れないまま、午前8時出褥。出張時、全く通常の食事だったため74.1キロ。炭水化物ダイエット崩壊。ヨーグルトひと口食べて家を出る。快晴。南砂町で下車して、江東図書館に寄り、予約してあった巌谷大四『波の跫音 巌谷小波小伝』を借りる。駅の入口に戻ったところで、ティッシュ配りの男からティッシュを受け取る。裏を見れば、例の如き写真を配してキックボクシング&フィットネスの広告。今朝の体重の惨状を見た後なので、やや心動く。 

会議その他もろもろ。今日は午後休ということで、昼過ぎに会社を出て東京駅へ。明日の午前休と合わせ、有給休暇を1日分消化する計画である。丸善丸の内本店に寄って『鈴木花蓑の百句』を買う。京浜東北線で日暮里へ出て、京成線特急に乗り換える。ところが、津田沼から先の区間、人身事故で運転見合せとのこと。本来、京成成田からJR成田線にスイッチするはずだったが間に合わない可能性があると判断し、途中で成田空港への連絡線の電車に移る。15時15分、成田空港第2ターミナル着。ここからタクシーで滑河観音へ向かう。途中、小御門神社の前を通る。去年取材した春日大社の花山院弘匡宮司のご先祖を祭る神社で、なかなか森が深い。寄ろうかと心が動いたが、またの機会ということにする。 

ようやく龍正院滑河観音に着く。成田市を南北に縦断する形になってしまいタクシー代6700円。馬鹿馬鹿しい出費だがやむをえない。滑河観音は坂東三十三所の第二十八番の札所ながら、辺鄙な場所にあることもあってひとけもなくひっそりしている。本堂は五間四方でさすがに立派。前面の二間分を外陣とし、正面を扉で塞がない開放的な建物。木鼻や蛙股の彫刻など近世風が強い。外陣の天井には絵で迦陵頻伽を描き、外陣と内陣の境の欄間には透かし彫りでやはり迦陵頻伽をあしらっている。本堂は銅瓦葺だが室町時代の仁王門は茅葺で、巨大な注連縄が掛かっている。注連縄に飾りとして蔦をたくさんぶら下げているのが珍しい。御朱印をもらう時にお寺の人に聞くと、毎年1月8日に掛け替えるのでその時は青々としているが、どんどん乾びてゆく。現状でもまだ青みが残っている方なのだとのこと。 

滑河駅まで20分程歩く。途中、道の右手に石仏らしいものがあるのでよく見ると、青面金剛の彫像と「青面金剛」と文字を刻んだ標柱が、コンクリートの階段を間にはさんで立っている。標柱にある年紀は「寛政十」まで読めたが、その下は「年」で終わっているのか、まだ数字があるのか(寛政は13年まである)よくわからない。階段を登ってみると一面の枯野原で、登りきった部分にコンクリートの叩きのようなスペースがあって、宝篋印塔や板碑のたぐいが10基ほど集めてある。滑河発16時52分の銚子行きに乗る。1時間以上かかり銚子着。駅前が暗く淋しいのは意外なほど。まん延防止措置の影響が強いようだ。ホテルは、駅からすぐだが、住宅街の中にあって妙な感じ。駅前の居酒屋で夕食。屈指の漁港の町と言いながら、刺身など案外うまくもなし。めひかりの唐揚げのみ美味。部屋の灯りも暗いので、読書もせず寝る。 


3月8日(火) 

午前6時半出褥。雨。写真部H君にショートメールしてその旨告げる。11時過ぎに佐原駅で合流して観福寺へ行く予定であったが、今日は当方が下見し、挨拶のみして、H君は明日か明後日に撮影に向かう段取りにする。 

ホテルの朝食の焼魚、ちゃんとしたもので、昨晩の居酒屋の料理より良い。銚子電鉄で2駅の観音駅で下車。電車は2両編成で、当方が乗ったのは折り返しの下りということもあって貸し切り状態だったが、おそらく直前の上りは通学の学生でいっぱいだったのだろう、床が水でびしょびしょになっている。それを若い女性の車掌がモップで拭いているのが鄙びていてよい。飯沼観音円福寺の寺務所と観音堂は別の敷地にあり、寺務所で御朱印をもらう。古帳庵という江戸の遊俳(富商の由)が、銚子の友人たち(これもみな豪商の由)を訪ねた時に詠んだという、

 ほととぎす銚子は國のとつぱづれ 

という発句の碑が立っている。天保12年(1841)の作というから、一茶調の影響もあるのか。説明板に〈今日では銚子を代表する句になっています〉とあるから、地元の人はみんな知っているのだろう。利根川の河口が見下ろせるという川口神社を目指す。地図を見た限りでは歩けると思ったが、案外遠く、道もよくわからない。途中、タクシー会社の営業所があり、1台車もあったのでそれに乗り、川口神社、犬吠崎灯台、満願寺、地球のまるく見える丘展望館を回り銚子駅に戻る。タクシー代7000円。 

10時24分の千葉行きで佐原へ。タクシーで観福寺へ向かう。ここからは仕事。厄除け大師のご祈祷で、正月の賑わいはたいへんなものとK県立K文庫のSさんから聞いていたが、今日は天気のせいもあって寂しげ。木立深く、雰囲気は良い。佐原は利根川水運で栄えた町で、その繁栄は「江戸勝り」などと呼ばれた。この寺の本堂・庫裡は幕末のものだが、大名屋敷のように雄大豪壮なのは、町の富裕ぶりが反映しているのだろう。そもそも江戸湾(東京湾)に流れ込んでいた利根川を、近世に入ってから東流させ、銚子で海に注ぐように付け替えたわけであるが、これにより東北地方の産品を、危険な房総半島沖を迂回せずに江戸に運べるようになった。すなわち、利根川を関宿まで遡上し、そこで折り返して江戸川・小名木川と下って江戸に入るルートが成立したのだ。お蔭で、ルート上にある佐原や潮来が栄えることになった。 

住職は出かけていて、昼に戻るとのことなので、寺を出て少し行ったところのスーパーでパンとコーヒーを買い、一服。はなはだ寒い。寺に戻り、住職に挨拶。タクシーを呼んで佐原駅に戻り、12時54分の千葉行きの電車に乗る。成田で京成線の快速に乗り換え。あれこれ乗り継ぐ手もあるが、そのまま日本橋まで行くことにする。車中で巌谷大四『波の跫音 巌谷小波小伝』、読了。たいへん面白い。引き続き、昨日買った伊藤敬子『鈴木花蓑の百句』を読み始める。句は良いが、伊藤氏の鑑賞は総じて感心せず。15時20分、神楽坂着。あれこれ仕事。セブンイレブンに入ると、鶏白湯餃子というのが目についたので買う。初めて食べたが、よく出来ているのに驚く。万事世界から取り残されつつ、コンビニの食事だけが進化し続けるというのが日本の現状らしい。夜、『尾崎紅葉の百句』の続きを書く。70句目に達する。3時就寝。


3月12日(土) 

8時起床。建部凌岱展を見に板橋区立美術館へ行く。車中で岩田慎平『北条義時』、読了。西高島平駅でK君と合流して美術館へ向かう。歩いていると高橋睦郎氏から電話があってびっくりする。美術館前の公園、梅が満開。担当学芸員のUさんにご挨拶。玉城司先生は24日にご来館予定とのこと。展示充実。「海錯図」は期待通りの快作。山水は空間の構成に難あり、破綻している。花鳥画の方が格段にすぐれている。蓮乗寺に立寄り東京大仏の御朱印いただく。西高島平駅に取って返してK県立K文庫へ。金沢文庫駅のカフェで軽食。文庫では興福寺のT学芸員が春日厨子について講演中。杉本博司先生ご夫妻も聞いている。Sさんてんてこ舞いのため、なかなか打合せできず。遅くなりそうだったのでK君は展示だけ見させて先に返す。一般内覧会4時半から6時。杉本先生ご夫妻らを送り出して後、Sさんと図書室で相談もろもろ。8時に終わる。Sさんと一緒に館を出て、横浜まで同車(あちらは新横浜経由で小田原まで帰る)。午後10時帰宅。朝日俳壇の選句の残りを済ませ、選評を書く。午前4時過ぎ就眠。


3月18日(金) 

午前8時出褥。西葛西から西船橋経由で佐倉へ行く。DIC川村記念美術館の送迎バスを待つ間、駅前のカフェに入る。バス乗場で、H君、Aさんと合流。ここ1週間程暖かったので2重ジャンパーを1重にして出て来たのだが、非常に寒く失敗。バスが来ると京成線佐倉駅で乗車したK君、乗っている。カラーフィールド展、たいへん素晴らしい。久しぶりでロスコ・ルームも堪能した。3人は撮影を続けるとのことなので、私のみ12時50分の送迎バスで国立歴史民俗博物館へ行き、「中世の武士団」展見る。帰社後、作業あれこれ。 


3月20日(日)

午前4時就眠、同11時起床。7時頃から眠りが断続的となり、さまざまな夢を見る。『尾崎紅葉の百句』を書き続け、百句の鑑賞終わる。夕方、西葛西図書館と江東図書館へ行く。「鎌倉殿の13人」の録画、来週見るつもりだったが、いろいろのなりゆきで今日のうちに観ることになる。中村獅童の梶原景時が本格始動。善児がこんな重要な役であったとは思いがけず。かなり先になるが、阿野全成を殺すのは善児か? もしかして佐藤浩市も殺すのか? 


3月21日(月祝) 

午前4時就眠、同10時半起床。東京駅11時52分発の横須賀線で、鎌倉に行く。小町通り、かなりの人出。コロナ前の休日には及ばないまでも八、九割方は回復した感じ。鏑木清方記念館を覗く。《嫁ぐ人》が出ていた。旧神奈川県立近代美術館が大河ドラマ館になっているのを覗く。映像パネルの類いが多い。大倉御所の模型は面白い。ついでに逗子へ行き、駅前からタクシー。坂東二番札所岩殿寺に参拝。観音堂は高台にあり、海が見えた。午後5時頃、出社。Iさんが来ている。 


3月24日(木) 

午前7時40分出褥。表紙ネームを送っていなかったことを思い出し、慌てて作成し、Fさんに送る。8時40分頃家を出る。9時48分ののぞみで京都に向かう。新横浜から広告部Iさん乗車。正午、京都着。タクシーで東山のホテルに向かう。チェックインしてからホテルを出たすぐの店で昼食。私はホテル横を上がったところの霊山護国神社に参拝し、御朱印を貰う。午後2時少し前、D社の新製品発表会の会場に入る(ホテル別棟地下)。まず、書家・川尾朋子氏によるオープニングアトラクション。「天虫花草」の四文字を揮毫する。新商品のロゴも同氏が書いた。紙はボードに貼って立ててあり、これにかなり太い筆で書いてゆく。点を突き入れるところなど、ドンと音。相当息を止めるらしく、長い画を書いた後など、大きく息をついている。発表会ののち、4時半より5時半まで川尾さんのインタビュー。6時より別棟2階で、着席の懇親会。翌日が早いのでコースが済んだところで、当方は失礼する。入浴して10時半頃、就寝。聞いたところでは、Iさんたちは、D社の人たちと夜中12時まで飲んでいたとのこと。 


3月25日(金) 

午前5時出褥。5時45分にホテルをタクシーで出る。京都駅まで5、6分で着く。6時17分ののぞみに乗る。品川下車、浜松町/大門乗り換えで朝日新聞社へ。9時5分選句開始、12時10分予選終了。今回より小林貴子氏、自宅で選句の由。12時40分、朝日新聞社を出て六本木でTakaishii Gallery、銀座でRicoh Art Gallery、日本橋で西村画廊を見て社へ行く。作業もろもろ。午後10時半過ぎ退社。午前1時、就眠。 


3月26日(土) 

午前8時半起床。10時、家人と秋葉原のヨドバシカメラへ行き、洗濯機を買う。11時頃に別れて、K県立K文庫へ向かう。やや早く着き過ぎたので金沢文庫駅内のカフェで昼食。それでも時間が余ったので、文庫と反対側の駅前にあるショッピングセンターの書店を覗く。たまたま、『若きウェルテルの悩み』の新潮文庫版があったので購入。尾崎紅葉の〈泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧かな〉にからんで確認したいことがあったのだが、そのままになっていたからちょうど良い。午後1時半頃、H君と合流。K県立K文庫の収蔵庫前室で、観福寺の銅造懸仏のうち十一面観音坐像を撮影。引き続き、同作についてSさんにインタビュー。7月号特集について相談。午後8時過ぎ、社に出る。作業もろもろ。日下潤一氏に頼まれている「オリジナリ」誌の連載原稿を書こうとするが、興が乗らずやめる。午前2時就寝。 


3月27日(日) 

午前10時半出褥。スーツにアイロンをかける。12時半過ぎの電車で江之浦測候所へ向かう。東京からこだま、小田原で東海道線に乗り換え根府川へ。車中、『若きウェルテルの悩み』を読み続ける。これを読むのは30年ぶりくらいか。当時はわけもわからず、しかしそれなりに面白く読んだように記憶するが、今回は感心もするし、呆れもするといった感じ。 

小田原駅でSさん夫妻と合流。春日社の御遷座、昨晩のはずが、暴風雨で今日になったとのこと。そのため、社殿は目隠しの幔幕で覆われている。桜もちょうど満開だが、それより期待していたのは菜の花の方である。実際、一面黄色に染まり、甘い香りが一帯に立ち込めている。敷地内で採れる蜜柑ジュースのふるまいあり。はなはだ濃厚。ガラス舞台で雅楽の演奏。杉本先生と春日大社花山院宮司の漫談風挨拶あり。その後、春日社に参拝。ふたたび石舞台エリアに戻り、東大寺七重塔礎石の披露。ここでも雅楽。礎石は東大寺を出たのち、大阪の藤田美術館の所蔵を経たものという。午後7時過ぎ、社に立ち寄る。Yさんが来ている。昨日、Sさんが送ってくれたギガファイル便をチェックするが、ファイルがからとの表示。電話して再送してもらう。こんどは大丈夫だったが、入稿用としては解像度不足。午後8時45分頃退社。帰宅後、「鎌倉殿の13人」の録画観る。朝日俳壇の選評を書く。「オリジナリ」の原稿を書く。午前4時就寝。

春の旅     高山れおな



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春の旅     高山れおな 

   大村市、本経寺 
墓原や大名眠り地虫出づ
   成田市、滑河観音 
天井に欄間に迦陵頻伽春 
青面金剛うしろ春日と草枯と
   犬吠埼 二句 
灯台を春愁の脚熱くのぼる 
揉むやうに春の潮寄せ何を願ふ
   江之浦測候所、春日社御遷座奉祝祭 
菜の花や法楽の香をたてまつる 
夜桜のうはぐすりならうはのそら 
マスクもて隠す虚ろも四月かな 
連翹の蓬けたる夜を白き猫 
雪柳猫のごとくに弧を描ける

2022年4月1日金曜日

自撮り      佐藤文香






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自撮り    佐藤文香 

春のキャンパス命とすれちがふ続々と 
春竜胆いくらでも自撮り送り呉れよ 
常春を走り出せば肉まとまりぬ 
  UC Berkeley 二句
初花の若き並木を誰も撮る 
見覚えの手首に水や夕桜 
桜似の花の一樹も空に映え 
常盤満作吾のごとき妹のこゑ 
白鳥帰る君のからだの火照るとき 
四月の朝へ寝落ちの君の頰を思ふ 
wisteria やさしくできてゐる、君に

解剖     関悦史



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解剖     関悦史 

マンションをミサイルが削ぎ空は青 
砲煙にT氏は金相場を確かむ 
コロナ禍のダミアン・ハーストの桜 
死なず生きず痛まず月など詠むAI 
置時計解剖男児春の雪 
空煙り囀りあふは人の首 
柱とは時間のひとつ春の星 
石彫のみみづくを撫で春寒き 
明朝体の一を鼻毛と観て暮春 
Guten Morgenと春の裸木写真の来