2021年12月18日土曜日

032*2021.12

 


俳句
▶︎上下動、球体  関悦史

俳句
▶︎横顔を生かす  佐藤文香

俳句
▶︎神と冬   高山れおな


散文
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日記(2021.11.15~2021.12.14)  関悦史

散文
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Walking alone in North Oakland  佐藤文香

散文
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パイクのけむりⅩⅡ~花とめし~   高山れおな

Walking alone in North Oakland  佐藤文香

ビールのお店に行くのにちょっとした冒険になってしまったので、その話をします。 


BARTに2駅分乗ったらすぐだってのはわかってたんだよね。だけど最近ちょっと太った気がするし、歩きたいと思った。だから日本でよくやるように、1駅電車に乗ってもう1駅分は歩くことにしました。でも、私が歩いたのは日本じゃないしバークレーでもなかった。ノースオークランドです。 アッシュビーの駅を降りてひたすら南に歩くだけなんだけど、駅の近くにはホームレスの人たちのテントが並んでいて、もちろんホームレスの人が悪いわけじゃない、だけどやっぱりアジア人女性が1人で歩くのは少し不安だ、そういう気がしました。 

乗ればよかったBARTの線路を見上げながら歩いた。たぶん幹線道路だよね。駐車してある車が多い。道路沿いの建物にはだいたい窓に格子が付いていて、こういったところは危険だってガイドブックに書いてあったような気がする。人通りも少ない。とはいえ日中だし普通に歩いていればそんなに身の危険はないと思った。天気がいいから交差点で視界が開けるたびに写真を撮りました。街路樹になぜか無花果、実を落として。柘榴もあった。柘榴はさ、つぶつぶをちぎって食べたい。あなたの国で柘榴を何と言うか、聞いた気がするけれど忘れてしまった。

ある時点から3人の黒人の男の子と、抜きつ抜かれつして歩くかたちになって、彼らのうち1人は自転車を押していて、ふざけながら歩いているから私が抜かすんだけど、横断歩道でいつもちゃんと止まる私はまた抜かされる。そんな彼らと別れたのは大きなこども病院の前だった。こども病院を過ぎると、ヘリコプターが飛んでいた。そのまま歩いていたら行き止まりが来た。なるほど、だから彼らはあそこで横断歩道を右に渡ったのか。そう思いながら小走りで引き返し、彼らと別れたこども病院前の横断歩道を、彼らと同じように渡った。だんだん、次の駅に近づいてきた。マッカーサー駅圏内。

ここまでが大体25分で、最後の5分。さっきまで歩いていた幹線道路を、くぐらないといけないときが訪れました。要は、歩行者にとってはわりと長いトンネル。日中とはいえトンネルは暗いので、自分の鼓動が少し早くなったのがわかった。でも、人が暮らした形跡は随所にあるものの、誰もそこに座ってはいませんでした。誰ともすれ違わず、誰にも抜かされなかった。ゴミ、服、毛布、なぜだかCDの散乱、たまに光。もし先週みたいにあなたと一緒であれば、もっとワクワクできたかな。それとも、同じように怖い思いをしたでしょうか。でも、怖いのは気分だけだった。終わってみればね。

ともあれ予定通りにビールのお店に着いた。いいマイクロブルワリーだったよ。あとは、送った写真の通りです。

英語さ、ビール飲んでたときはできるようになったかなって思ったんだけど、今日は駄目だった。来週は先生と一対一だから、ゆっくりを教えてもらおう。年末にはたくさん宿題を出してもらわないとね。もっとちゃんとあなたと英語で話せるようになりたいです。

この日記は、もうちょっと英語力が上がったら、自分で翻訳してあなたに送ろうかな。あ、でも、この日記のリンクを送ったら、あなたはいつものようにDeepLで訳して、だいたいの意味がわかってしまうでしょうね。英語を日本語訳したみたいな日本語で書いたしね。一段落目の最後はうまくいかないかも。実を言うと、この文章は、音声入力したものをちょっと修正してるだけなんだ。














2021年12月16日木曜日

日記(2021.11.15~2021.12.14)  関悦史

11月15日(月)  
吟行句及びそれにまつわるエッセイを書く。  
グレープフルーツを1個黴びさせた。 

 11月16日(火)  
気持ち悪く、寝たきり。

 11月17日(水)  
「転生したらスライムだった件」第1~12話と「くまクマ熊ベアー」第1~12話見る。

 11月18日(木)  
背の痛みひどい。 

 11月19日(金)  
午後、向かいの子供らがチャイムを押していたようだが何の用だったのか。 
ツイッターの「スペース」機能は聞くだけならばパソコンからも利用出来るらしいので、現代俳句協会青年部・黒岩君らの放送を聞き始めたが丁度終わるところだった。
診断メーカーの「異常パズル」で出てきた出鱈目な4行を、自動的に小説を書いてくれる「AIのべりすと」に放り込んでみたら「チーヨ」が何故か自殺を考え始めた。 

   ◆ 

ゆでたインターネット「ウニを」 うつ病の実体「爆裂した」 チーヨ「チーヨ」 狂ったチーヨ「いいよ」 (ここまでが「異常パズル」で出てきた文章。以下が「AIのべりすと」が生成したその後の展開) チーヨは、一人きりになると、すぐに死にたいという気持ちがこみあげてくる。それでいつも自殺することばかり考えている。しかし、いざ実行しようとすると、怖くて体が動かない。死ぬのは簡単だけれど、そのあとどうすればいいかわからないからである。チーヨには何もない。自分の家もなければ財産もない。親戚や友だちもほとんどいないし、恋人もいない。チーヨには自分が誰かに必要とされているという実感がないのだ。だから死んでしまったら、誰も悲しんではくれないだろうと思う。そう思うと勇気が出なくて死ねなかった。 ある日、チーヨはスーパーに行って買い物をした。お金はあるから好きなものを買ってもいいと言われたからだ。でも何を買ったらいいかわからない。野菜を買うべきなのか肉を買うべきなのか魚を買うべきなのか見当もつかない。結局何も買わずに帰ってきてしまった。それからずっと毎日スーパーマーケットに行きたいと思っているのだが、どうしても出かけられない。そのうち行きたくてたまらなくなってくる。そして行けば何かしら買ってしまうことはわかっているので、「今日こそ行こう」「明日こそ行こう」と思いながらずるずる日が過ぎてしまう。 そんなことをしているうちに月日だけが経ってしまい、気がつくともう三カ月以上スーパーマーケットへ行っていなくなっていた。最初はお腹が減っていただけだったのに、だんだん食べ物のことしか考えられなくなり、ついには食べることしか考えなくなってしまった。食べ物があるうちはまだよかった。なくなった瞬間から絶望が始まった。空っぽのお腹を抱えて途方に暮れていると、頭の中にいろいろな妄想が生まれてきた。例えば目の前にある食料を食べ尽くしてしまえば、この苦しみから逃れられるかもしれないと思ったり、もしこのまま飢え死にしてしまったとしても自分は誰にも迷惑をかけていないから仕方のないことだと考えたりした。すると急に悲しみが襲ってきた。なぜこんな目に遭わなければならないのかと思って涙が出てきた。私はなんのために生きているんだ 

   ◆  

以後ずっとこの調子で続きそうなのでここで止めたが、小説にするならどこかで別の展開へ跳ねてほしい。
『遠山陽子俳句集成』読了。 

 11月20日(土)  
パソコンでメール送受信が出来なくなった。 

 11月21日(日)  
体調不良が続き、御茶ノ水ソラシティ古本市に行くのも億劫になって小野村と長電話。ギリヤーク尼ヶ崎が復調して、YouTubeに上がっていた去年の映像では真っ直ぐ立って歩けていたことを知る。

 11月22日(月)  
メールはブラウザの方で使えるようになっていた。  
「円座」の原稿を書く。  
赤川次郎『ロマンティック』読了。 

 11月23日(火)  
高木彬光『黒白の虹』読了。  
「翻車魚」第5号一箱を印刷所から受け取る。去年まで佐藤さんがやっていてくれたが、アメリカに行ってしまったので今年はこちらで在庫を保管することになった。高山さんに80冊発送。

 11月24日(水)  
腹痛続く。後頭部鈍痛、吐気。  
現代俳句協会青年部勉強会のZoom打ち合わせ1回目(黒田杏子さん抜き)。 
「翻車魚ウェブ」に10句送る。 

 11月25日(木) 
図書館、古本屋へ。  
黒田杏子さんから勉強会の資料のほか、兜太の書の絵葉書セットなども送られてくる。 

 11月26日(金)  
柴田錬三郎『眠狂四郎異端状』読了。  
歯医者の後また図書館。 

 11月27日(土)  
シリル・ベジャン編『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』読了。  
「転生したらスライムだった件 第2期」閑話、第25~36話を見ながら「翻車魚」5号謹呈の宛名書き。

 11月28日(日)  
ドナルド・ニービル『スポメニック 旧ユーゴスラヴィアの巨大建造物』読了。異様な造形にばかり注意が行くが、その多くがナチによる犠牲者の慰霊碑(他の本の紹介記事だがこちらにスポメニックの写真数点あり→こちら)。 

 11月29日(月) 
明日の仕事のため立川に前泊。道中、ブックオフ数軒に寄る。 
「翻車魚」5号の雑文になるべく個人経営の飲食店に入っているようなことを書いたが、また部屋でコンビニ飯で済ませてしまった。チェーン店しか見当たらない大都市だからでもあるが、それ以上にくたびれているときに他人とぎゅう詰めになっての食事が煩わしいため。 
広いベッドで久々に手足を伸ばしたが相変わらず安眠出来ず。サイコパス夫婦に銃殺されかけて地面の穴から逃げる悪夢。 

 11月30日(火)  
国立で一日選句作業。  
帰宅後、諸連絡立て込む。 

 12月1日(水)  
豪雨でまた雨漏りが始まった。  
ゲラやメールをまとめて片付ける。  
夕方、Oさんが雨漏り修理の見積に来る。Oさん、腿をガラスで切って半年休んでいたらしい。
小島明句集『天使』読了。オビに「第一句集」とあったが、句集刊行までに著者は膵臓がんのため56歳で物故していた。 

 12月2日(木)  
司馬遼太郎、ドナルド・キーン『日本人と日本文化』、原口統三『二十歳のエチュード』、ジョルジュ・ペレック『パリの片隅を実況中継する試み―ありふれた物事をめぐる人類学』、ミシェル レリス『オペラティック』読了。  ペレックの『パリの片隅を実況中継する試み』は、句作のモチーフを探し歩く吟行とは逆というべきか、場所を決めて目に入るものを片端から列挙した、やっている本人にも意義がよくわからなかったらしい実験的なテクスト。

 12月3日(金) 
諸連絡、日程調整、添削、選句選評。  
「裏世界ピクニック」第1~12話見る。原作小説を先に読んでいたが原作の方が幻想味、迷路性に富む。  腹痛再発。 

 12月4日(土)  
「土曜俳句倶楽部」(兼題「クリスマス」)Zoom出講。  
「転生したらスライムだった件 第2期」閑話+第37~48話を見る。このところ無料公開中のアニメの一気見ばかりしているが、鬱のときはアニメなど騒々しくて耐えられないのでその意味ではマシな状態といえる。 

 12月5日(日)  
現代俳句協会青年部勉強会のため、黒田杏子さん本人も交えてZoom打ち合わせ。 

 12月6日(月)  
「翻車魚」5号(電子版)謹呈を大体済ませる。電子版の方が嵩張ったり紛失したりせず良いとの反応が複数。 

 12月7日(火)  
佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』、土屋秀夫句集『鳥の緯度』、青池亘句集『海峡』、中井久夫『サリヴァン、アメリカの精神科医』読了。 
「魔法少女 俺」第1~12話見る。主人公の少女2人が変身するとガチムチの男性になってしまうギャグ作品。どういう層に需要があるのか。 

 12月8日(水) 
祖母の命日。丸17年が経過した。 
佐野洋『白く重い血』、島田一男『終着駅』読了。 

 12月9日(木)  
深夜まで雨が続いていたが、雨量の少なさのためか雨漏りはせずに済んだ模様。
なぜか手が着けられずにいた裕明賞授賞式テープ起こしのゲラをようやく終わらせる。
安遊駈句集『片羽』、林桂句集『百花控帖』、林桂編著『俳句詞華集 多行形式 百人一句』、谷口智行『自註現代俳句シリーズ・13期8 谷口智行集』読了。 

 12月10日(金) 
図書館、古本屋へ。 

 12月11日(土) 
背の重さひどく、風邪っぽい。  
細野晴臣『HOSONO百景―いつか夢に見た音の旅』読了。 

 12月12日(日)  
第172回現代俳句協会青年部勉強会「黒田杏子に聞く『証言・昭和の俳句』と平成・令和の俳句」にZoom出演。 
Zoomなので視聴者の反応(そもそも視聴者がいるのかいないのか)がさっぱりわからないのは常のことだが、家藤正人さん、黒岩徳将さんがいずれも司会進行のベテランな上、黒田杏子さん本人も段取りの名人なので、打ち合わせを経て異様に精密な時間割が出来てしまい、こちらは自分のパートを埋めるだけで済むから遅滞なく進みはしたものの、ほぼ既知の話を二度聞く形になり、面白いのかそうでもないのか感触がつかみにくかった。

12月13日(月)
夢。テストを受けさせられたら回答用紙がなく、布団は干されて寝られず、家の屋根を子供らが歩き回っているので叱り、落ち葉を掃いて車に乗ったら運転者が意識を飛ばして延々バックし続けて他の車に当たり、喫茶店に入れば老人で満席。
肩、背の凝りひどい。
龍太一『句集 HIGH・QUALITY』、細谷喨々句集『父の夜食』、井上光晴『ぐみの木にぐみの花咲く』読了。 12月14日(火)  梶尾真治『占星王はくじけない!』読了。

2021年12月15日水曜日

パイクのけむりⅪⅡ~花とめし~   高山れおな

最近読んだ句集その一。林桂『百花控帖』。版元は現代俳句協会。(例によって長い)あとがきによれば、林は幼い時から花が好きで、〈俳句の表現技術が円熟する六十代になったら、花の句で百句を書きたいと思っていた〉という。その願いを形にした本句集は、大きなフォントで一頁一句組にしてある。句の天地は揃えず、行長は成り行きである(ベタ組ではなくやや詰打ちにしている?)。 

一頁一句組は、当方もいつかやってみたい憧れの形式。フォントの大きさは三十二級だろうか。文字が大きいのは結構なのだが、句が頁に対して上に寄りすぎなのは、いかにも窮屈で感心しない。なにしろ、天からのアキが十五ミリしかない。字数が一番多い句は、二十七頁に載る、

どんぐりころころうたふ手洗ひ遊蝶花(いうてふくわ) 

 で十七字。この句の地からのアキは二十ミリで、つまり天からのアキ十五ミリというのは、この句の地からのアキとのバランスで決められたのだろう。しかし、贅沢に余白を取るという一頁一句組の本旨からして、このゆきかたは矛盾している。フォントの級数を下げるか、それをしたくなければ、判型を大きくして、句の上下に適正なアキを確保すべきだったのである。

もう一つ、ついでにケチをつけておくと総ルビもどうかと思う。林桂の総ルビ趣味は要するに、高柳重信の『山海集』『日本海軍』に由来しているわけだが、あちらはあちらこちらはこちらだろうに、下らない末梢的な忠義立てという他はない。以上も以下も、句の引用に際してのルビの再現は選択的にやらせていただく。それは横書きのブログという技術的な制約のせいではあるが、そもそも総ルビ趣味に感心していないからでもある。

朝顔や少年ばかり憂きはなし
花終はり続けて木槿明かりかな
二の腕に風の来てゐる稲の花
空の彼方に海あるひかり曼珠沙華
南蛮煙管を誰にも言へぬ日暮かな

句の配列は、秋から冬、春、夏と続く。あとがきには、〈秋の季語に花野があるように、日本の花の季節は本来秋だから〉との説明がある。その先頭の秋から好きな句を抜いてみた。童心の世界を一種の典型美において捉えるというのは、別にこの句集に限らない林桂の既定路線のように思うが、それに最も忠実なのは「憂きはなし」の一句目と「誰にも言へぬ」の五句目。両者の間では、いわば童心の謎を感じさせる後者の方が一段勝っているだろうか。

花と花の差異をどのように一句の差異に落とし込んでいるのか、そこを味わい分けるのも、この句集を読む楽しみに違いない。三句目と四句目など、下五に花の名前が来る同じ句形だから文構造としてはすぐに花を入れ替えられるし、入れ替えてもなり立つように一瞬は思えるものの、やはりそうはいかないことがわかる。二句目の「花終はり続けて」は少し判断が揺れる表現で、木槿の花が数日にわたって散り続けているさまとも読めなくはないが、むしろさまざまな花が咲き続け、終わり続けて、今は木槿の季節だとした方が良いように思う。「槿花一日の栄」ということわざがあるように、木槿は儚さを連想させる花ということになっている。他の花々の終わりと「木槿明かり」を対比させた方が、木槿が持つ儚さのニュアンスがより迫ってくるものになり、句に心の深さが生まれる。

菜の花に身体(からだ)明るくして戻る
いまだ幼き朝の青空桃の花
園児一列触つて通る雪柳
紫雲英田へ前方回転しにゆかむ
薔薇を愛す力石徹のごとく痩せ
泰山木の蔭に翳りて仰ぎゐる
十一人ゐて夏萩に風止まず
藤房空木(ふぢふさうつぎ)ダム放水の霧に濡る
向日葵の迷路の中を呼びあへり

引き続き童心という要素に着目すれば、四句目の「前方回転」や九句目の「呼びあへり」などは最も素直な童年回顧の句になっている。他方、「蔭に翳りて」とか「ダム放水の霧に濡る」といったあたりは、林が自らの六十代に期待した表現技術の円熟を感じさせる措辞にちがいない。マンガもまた少年時代を思わせるモティーフとして登場してきていて、力石徹は最もわかりやすいが、萩尾望都の名前と作品名をさりげなく隠した七句目はいっそう洒落ている。

最近読んだ句集その二。佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』。版元は左右社。帯に佐藤文香による、〈現代を生きる主体と現代語の文体が抱き合うダイナミズムを感じるにふさわしい、二〇二〇年代を象徴する一冊が出現したことを寿ぎたい〉との熱烈な賛辞がある。投げ込みの栞も佐藤文香なのだが、これは後回しにする。昔はそうでもなかったけれど、近年は栞とか解説を先に読むことはなくなった。

早春のコーンポタージュ真善美
ブリトーと雲雀の季節切手買う
海苔炙るすべての窓が開いていて
たまごやきとコーンスープや雛祭
食パンを焼かずに食べる花曇

読みながら、ずいぶん飲み食いの句が多い句集だなと思った。巻頭からの十二句のうちに、すでにこれだけある。だいたい、四季別に構成された各章のタイトルからして、春季が「1 食パン」で、夏季が「2 微発泡」と、半分は食べ物・飲み物がらみだ。読み終えてから改めて飲食にかかわる句数を数えてみた。 

1 食パン 春季三十七句のうち十三句 
2 微発砲 夏季四十七句のうち二十九句 
3 搬入・搬出 秋季四十一句のうち二十三句 
4 橋 冬季五十一句のうち十八句 

ひところ(今もか?)、ある種の俳人の句集を読むと必ずと言っていいほど初諸子がどうしたという句が出てきて、俳人というのはなんと初諸子が好きなんだと思ったものだ。それに比べると佐藤智子の句に出てくる飲食物はより尋常な、佐藤くらいの年恰好の女性がふつうに日常生活で食べるものなのだろう(ブリトーとか、知らない食品名もいくらかは出てくるが)。そのふつうさは、初諸子俳人の気取りよりは好ましいものの、この作者はこんなに飲み食いのことばかり気にして生きておるのかねという漠たる疑問が湧いてくるのはとどめ難い。なにしろ、 

まだパジャマ紫陽花が野菜みたいで

である。朝から、食べ物でないものまで食べ物に見えてしまうのである。掲句の巧妙さ、ユニークさとは別に、なんなんだこれはと思ったことです。このへんで、佐藤文香の栞文を読んでみた。 

栞文には八句が引用されており、やはり飲食物がらみの句は多い。狭く取れば四句、広く取れば六句が該当するだろう。たいへん行き届いた文章で、少し余計なことまで書きすぎのきらいはあるものの、とにかく言いたいことがあって書いている行文ならではの爽快さと力強さはまぎれもない。方向性としては、すでに帯文(栞文の一節の引用である)で見たように、佐藤智子の作品世界に百パーセント共感し、全肯定していると言っていい。当方は、特に否定的なわけではないのだが、共感の要素はほぼ欠落している。人間的な共感抜きで、しかし特に否定的でもなく読むということは、つまり俳句的な教養の部分で読むということだ。それが佐藤智子句集と当方の関係性の偽らざる実情のようだ。ただ、これは佐藤智子句集に限らず、ほとんどの句集に共感なんかしてないな自分は、とも言えるわけで、しかし、こんなことを改めて思わせられるのも、佐藤文香の文章が佐藤智子に対する熱い共感でどくどくと脈打っているせいにちがいない。栞文から、 

いい葱はコンソメで煮るまだ泣くよ

という句についての評の部分を引いておく。 

神野紗希に〈カニ缶で蕪炊いて帰りを待つよ〉があるが、料理をつくってあげる相手のいる「帰りを待つよ」に対して、佐藤智子の「まだ泣くよ」は自分一人の台所である。つらいことがあったから、いつもよりお高い「いい葱」(下仁田葱か。太そうだ)を買ってきて、その旨さを引き出すにはコンソメでシンプルに煮るに限るっしょ、と思いながらしかし、泣き続けてしまう。 

とにかく一句の読みとしては間然するところがない。で、句そのものは、俳句的教養で読めば充分に佳句だし、一方、「いい葱」とか切り出された時点で(つまり「まだ泣くよ」よりはるか手前の地点ですでに)、この猛悪な私が共感するのは無理、ありえないという感じがする。ちなみに、引かれている神野紗希の句も佳句であり、しかし共感しろと言われても無理なのは同じだ。もう一句、 

有楽町メロンソフトを食べている

についての栞文の記述も引いておこう。

「有楽町で逢いましょう」というフレーズも聞いたことくらいはある、という世代の我々は、ここで男と待ち合わせる必要など感じない。女性一人で映画に行き、女性一人で地方物産館の珍フレーバーソフトクリームを食べることも日常のうち。そのお一人様でことたりる感は、棒立ちの文体に現れている。 

栞文の別の箇所に、〈今の時代における、ひとりぼっちの大人が、ここにいる〉という一節もあって、佐藤の佐藤に対する共感の根はつまりはこのあたりにありそうだ。そう理解しておいて、なんでこんなに飲み食いのことばかりなのよと、やはりそれが頭を離れない。今の時代における、ひとりぼっちの大人が、俳句形式のうちで現代を生きる主体を立ち上げようとすると、食べることと飲むことの具体性が決定的な手掛かりになるのである――と間に合わせの回答を用意することもできなくはないにせよ、貧しさの印象は否めない。否めないが、同時に、佐藤文香が佐藤智子に見ている可能性はこの貧しさ自体にあるのだろうし、貧しさゆえの切実さが感じられないと言ったら、それはそれで嘘になってしまいそうだ。 

春立つや新年ふるき米五升   芭蕉
侘びてすめ月侘斎が奈良茶歌
花にうき世我が酒白く飯黒し
朝顔に我は飯くふ男かな
氷苦く偃鼠が喉をうるほせり

たとえば芭蕉などもずいぶん飲食の句が多い人である。それもモティーフとなるのは、初諸子的なスノビズムとは全く異なる日常食であって、この米五升とか朝顔を見ながら食うあまり美味しそうでもないご飯とか、その存在感は焼かずに食べる佐藤の食パンとわりとよく似ているんじゃないか。とにかく芭蕉が、俳諧の発句に私性を導入する際に一つの手がかりになったのは、平凡に食べ、平凡に飲むことであった。

最後にいちばん好きだった句をあげる。 

もしももしも伊勢海老を壊して啜る

栞文では、〈新蕎麦や全部全部嘘じゃないよ南無〉という句が絶賛されており、この中七から下五へ言葉がホップしていく感じや、情緒不安定な幸福感(というのも変な言い方ながら)も面白い。ただ、蕎麦好きではない(そこか?)当方には「新蕎麦や」がやや物足りず、伊勢海老の句に一票を入れたい。「新蕎麦や」は佐藤智子に固有の表現ではもちろんなく、俳人一般のずぼらな(便利なとも言います)レトリックを利用しているにすぎないのに対し、「壊して啜る」は意外性があり、客観的で冴えた描写だろう。「全部全部嘘じゃないよ南無」の情緒の表出は謎と切迫感があって魅力的ながら、「もしももしも」は同様の情緒の揺れをより単純な表現で言いおおせている。こんなところが一票の理由である。

最近読んだ句集その三。細谷喨々『父の夜食』。版元は朔出版。良いと思った句。

減らず口かくあれと思ふ七五三
今年竹鳴る子どもらが遊ぶかに
繫盛を願はぬ職も酉の市
空蟬がすずなりメタセコイアの木
かまきりや接触不良のごと止まる

「繁盛を願はぬ職」というのは、作者が小児科医で、しかも難病の子どもたちの医療に携わる人だからだろう(定年で引退したみたいだが)。七五三の句や、今年竹の句の背景にも、そういう人ならではの思いがあるはずだ。書名には「夜食」とあるが、飲み食いの句は特に多くはない。多かったのは、初学の師である石川桂郎のことを詠んだ句だった。

2021年12月6日月曜日

神と冬     高山れおな



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神と冬     高山れおな 

白秋の白富士あはれ品川に 
蚯蚓鳴く音波も見ゆる眼鏡かな 
避け難く銀杏踏みぬ九月尽 
神と冬行き交ふ頃の空のいろ 
まはり落つ木の葉斜めにはた直ぐに 
桜木のひと木のもみぢ地に厚し 
日あたりて社長の家や冬紅葉 
冬木立おほかた青し社長の家 
餡満つるごとき一書や寒夜読む 
虎落笛牝(め)か牡(を)か知らず溢れくる

2021年12月1日水曜日

上下動、球体     関悦史



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上下動、球体     関悦史 

混み合へる線あかときの敗荷の 
生コン圧送ホース秋天からうねり来 
消費税以後なるつるべ落としにゐる 
秋草に顔ぶつかりぬ夜の国道 
震度5弱しづまりて月ありにけり 
  或る家庭
ヘドバンを妻はしてゐて冬の雨 
毛布巻きついて人体浮く曇天 
冬日さす湯を出て美童大ふぐり 
聖夜手に乗れよ美童の大睾丸 
深夜覚め寒き眼球ありにけり

横顔を生かす      佐藤文香

 


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横顔を生かす      佐藤文香

鍵の響きと美しきおがくずと 
木の家に呼んだ車が来て止まる 
嚙みてなほ七面鳥の皮の照り 
手のくれる果実をわかる手を出せば 
感謝祭をはつて膝の骨は浮く 
山のみち横顔を生かす風が吹く 
今のままからだが入る松林 
目の奥で目覚めて夢をかき集め 
かちわりの夢を成果として見せる 
瞳の中の些末な星にあてがふ詩