2022年10月17日月曜日

042*2022.10



10句 

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散文

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みんな昔の仲間、になるか ー第13回田中裕明賞授賞式ー  佐藤文香

10/16(日)は、第13回田中裕明賞授賞式だった。今回は相子智恵さんの第一句集『呼応』(左右社)が、ほぼ満場一致で受賞。受賞挨拶からも、相子さんがこの田中裕明の名を冠する賞にふさわしい作家であると誰もが納得した。

すでにリリースされている受賞の言葉や候補作についてはこちらをご覧いただきたい。


裕明賞の授賞式は吟行句会とセットで、応募者が全員招待されるのが面白い。また、授賞式では全員が受賞者の一句を挙げて一言お祝いの言葉を述べることになっており、それがすべて冊子の電子版に収録されるというのもいい。というわけで、句会や授賞式の中身については、賞の主催者であるふらんす堂から後日刊行される冊子をご覧いただくとして、ここでは個人的な話をする。

私は今回第3句集『菊は雪』(左右社)で応募した。応募したというより、版元が応募してくれた。正直に言うと、本当はもう応募する気はなかったからだ。
私はすでに第6回に第2句集『君に目があり見開かれ』(港の人)で応募し結果に満足していたし(その年の受賞は鴇田智哉第2句集『凧と円柱』(ふらんす堂))、現在の裕明賞の審査員には関悦史がいる。関さんはご存じのとおりここで「翻車魚」を一緒にやっている仲だ。裕明賞では同じ雑誌のメンバーには点を入れないことになっているので、関さんからの点は入らない。別に受賞を目指しているわけではないから点が入らないこと自体はどうだっていいのだが、なんというか恐縮である。

それでも今回、私の句集も俎上に上がってよかったなと思ったのは、やはり4人の審査員が真剣に読んでくださったこと、そしてそれが「活字に残ること」に尽きる。誰が受賞したかも大事だが、どんな句集が・誰の評価を得て・どのような経過で受賞したか、ほかにどんな句集があって、どうして受賞作はそれを上回るとされたか、そういったことが残るというのは素晴らしい。十年後、五十年後に2022年を振り返ったとき、俳句にとってどういう時代だったかがわかる。昨日の授賞式中の相子さんの受賞の言葉も、現在の結社のなかで若手がどう育つかがわかるよう(暗に問題提起として)、今広く・のちのちまで長く・参照されることを意識した素晴らしい挨拶だった。同時代に作家としていられることを誇りに思う。


   火星にも水や蚕の糸引く夜  相子智恵『呼応』

一句挙げてお祝いの言葉、ということで、誰かと重なることを考えて、あらかじめ2パターン用意していた。実際の挨拶は冊子をお読みいただくとして、補欠はこの句だった。行ったことのない火星にも水があることと、蚕の糸引くこの夜は、同じくらい神秘的なこと。暗さのなかにあらわれるひとすじの美のきらめきの「呼応」の一句である。なお、自選30句のなかでは〈湯豆腐の底だぶだぶの大昆布〉も愛唱している。「どうふ」「だぶだぶ」「だいこんぶ」の音がいい。

吟行句会もよかった。第6回のときは授賞式からの出席だったため、通しての参加は初めてであった。アメリカ帰りという肩書き(?)を負った私としては、やはり小石川後楽園の日本らしさを嬉しく感じ、句会に出句した五句以外にもずいぶん句ができた。森賀まりさんと高田正子さんには「案外背が高い」と驚かれた。けっこうよく言われる。

   目のなかに芒原あり森賀まり  田中裕明『夜の客人』

この森賀さんの目のなかに自分も入ったと思うと嬉しい。
吟行中の写真はブログ「ふらんす堂編集日記」をご覧ください。


手を動かして清記するのも久しぶりで、点盛では久しぶりに「いただき!」を言えたのも楽しかった。ものすごく久しぶりに如月真菜さん(前年度受賞者)ともお会いできた。実は私が中学時代にちゃんと読んだ句集は夏井いつき『伊月集』と如月真菜『蜜』だけだ。ほかにも、応募者のみなさん、審査員のみなさん、ふらんす堂のみなさん、みんなにお会いできてよかった。


田中裕明賞は、若手にひらかれた応募制の賞である。田中裕明の享年に合わせて、満45歳までの句集に限られている。さすがに私が応募するのは今回で終わりにしようかなと思っているが、裕明は生前5冊の単行本句集を出しているから、私も45歳までにもう2冊くらいつくってもいいかもしれないと思っている(あと8年)。

   櫻待つみんな昔の仲間かな  田中裕明『先生から手紙』

パイクのけむり XXI ~岡田朝太郎問題、附けたり青山茶会記~ 高山れおな

岡田朝太郎問題 
本連載の第十六回「ウェルテルは何回泣いたか」に、岡田朝太郎という人物が出てくる。そこでは、尾崎紅葉の 

 泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧かな 

が、明治三十六年(一九〇三)二月二十三日の白人会の句会に出句されたものであることを述べたが、その根拠となったのは岡田が「文藝春秋」の昭和十年(一九三五)三月号に寄せた「癌」という随筆であった。赤坂の清風亭で開かれたこの句会が始まる前、岡田は紅葉を別室に呼んで、紅葉が胃癌であるとの入沢博士(大学病院の医師、前日に紅葉の胃を検査していた)の診断を伝えたのだった。そのことを紹介した上で、私は次のように述べている。 

というわけで、ウェルテルの句は、単に三月二十五日付けの「卯杖」第三号に初出したというだけでなく、胃癌であることを告げられた当夜、二月二十三日の句会に出句されたこともはっきりしたのである。岡田の文章では、この句が席題による即吟か、持ち寄りかまではわからないが、当夜の作でないとしても直前の数日のうちの作であることは間違いあるまい。ゲーテを句にし得た得意はそれとして、この句のウェルテルに紅葉の自己像を重ねること自体は自然な読解であって、決して高山の勝手な想像ではなさそうだということは岸本氏に改めて申し上げたい。 

ここでなぜ、批判的な調子で岸本氏=岸本尚毅の名を出しているのかは、元の文章の方を読んでご確認いただきたい。今回、「岡田朝太郎問題」などとものものしいタイトルを掲げて文章を書き始めたのは、しかしじつは岡田はこの日、紅葉に癌であることを告げてはいないらしいことが、別の資料からわかったからだ。その資料とは、春陽堂書店から出ていた文芸雑誌「新小説」の明治三十七年(一九〇四)一月号に出る「故尾崎紅葉君追慕演説」で、紅葉の死から一ヶ月半後の明治三十六年十二月十六日に紅葉館で開催された紅葉会における、友人五名による挨拶の筆録である。 

横道にそれるが、紅葉館といい紅葉会といい、紅葉だらけでややこしいのでちょっとひと言。紅葉館は、現在、東京タワーが建つ場所にあった会員制の高級料亭で、その名称は芝公園の紅葉山にちなんでいる。芝中門前町に生まれた尾崎徳太郎もやはり紅葉山から自分のペンネームを取ったので、名前が混線してしまったのだ。紅葉会の方は尾崎紅葉の追悼集会、今風に言えば「尾崎紅葉君をしのぶ会」であって、会場が紅葉館であることとは本質的には関係がない(ただし、紅葉をはじめ、硯友社の連中は、まだ駆け出しの頃から、この料亭に盛んに出入りしていたという因縁はある)。 

演説の方に戻る。この日、演説した五人は以下の通り。

・巌谷小波 作家、児童文学者 
・角田竹冷 代言人(=弁護士)で衆議院議員
・岡田朝太郎 刑法学者、東京帝国大学教授
・高田早苗 政治家で教育者、後に第二次大隈内閣の文部大臣、早稲田大学総長 
・芳賀矢一 国文学者、東京帝国大学教授 

このうち芳賀は、本来は上田万年(国語学者、東京帝国大学教授)が演説するはずだったところ、急用で出席できなくなったための代役。上田は中学(日比谷高校の前身)時代に一時、紅葉と同級生だったことがあるらしい。芳賀の方も、文科大学国文学科の同級生で、この日は当時の思い出を語っている(紅葉が早々に落第・退学してしまうため同級だったのは短期間だが)。 

芳賀・上田については、紅葉との所縁は比較的淡いもののようだが、他の四人はどうか。小波は、硯友社における紅葉の弟分であり、竹冷は紅葉が幹部として連なる俳句結社・秋声会の主宰者、高田早苗は読売新聞の主筆として若き紅葉(と幸田露伴)を同紙の専属作家に招いている。つまり、第一の親友、俳句の盟友、大恩人であり、なるほど追悼の演説を任されるにふさわしい。 

この三人に比べると、岡田と紅葉の付合いのあり方はよくわからない部分もあるが、紅葉とはほぼ同年輩(紅葉の慶応三年十二月生に対して慶応四年五月生)で、硯友社の初期メンバーであった(号は虚心)。初期メンバーの多くがそうであったように、文学の道からは徐々に離れ、刑法学者として大成する。こうした場合、疎遠になるのが普通のところ、ずっと付合いが続いていたことが、残された手紙などからわかる。端的に馬が合ったのだろうし、俳句が仲立ちをした部分もあるようだ。江見水蔭の『自己中心明治文壇史』に出る、紫吟社の初句会(明治二十三年[一八九〇]秋)の記事では、七人の参加メンバーのうちに虚心の名も見える。その後、岡田は東京帝国大学助教授としてドイツに留学、明治三十三年(一九〇〇)に帰国して教授に就任する。 

ところで、本稿冒頭で、〈泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧かな〉の句が、明治三十六年二月二十三日の「白人会」の句会に出句されたと述べた。この白人会とは、明治三十四年に巌谷小波が中心になって結成されたベルリン在住の日本人の句会である。ベルリンの漢字表記「伯林」の「伯」の字を偏と旁に分解し、「しろうと」の意を込めたネーミングであった。小波が、ベルリン大学東洋語学校の日本語講師として、二年間の約束で同地に赴くべく横浜港を出発したのは明治三十三年九月二十二日だから、岡田朝太郎とは入れ違いの形でドイツに暮らしたことになる。岡田は、帰国した小波が引き続き開催した白人会に加わったのだ。硯友社のメンバーとして岡田と小波は旧知の関係にあり、時期こそ違え、ベルリン暮らしの経験者同士でもあったわけだから、この参加はごく自然な流れであろう。 

ここでいよいよ、「故尾崎紅葉君追慕演説」における岡田の発言の検討に入る(出典は総ルビだが、必要なもの以外は略した)。 

二月の中旬になりましてから紅葉君が(本日も御多忙の処を矢張故人の知己として御出席になつて居りまするが)、医科大学の教授の入沢博士の診断を受けられたのでありまする。続きまして紅葉君から入沢君に診て貰つたが、君に少しく話があると云ふことだから会つて呉れと云ふことでありました。(初めての診断は二月二十二日の事です。此頃紅葉君の手紙を見出したのに其中に此記事がありました。)翌日でありましたか又翌々日でありましたか、大学の集会場に参りまして、入沢博士にお会ひ申しましたらば、どうも自分は胃癌だと思ふといふ事でありました。初めて私は其時は承はりましてどうも驚いたのでございます。直ちに電話を持ちまして小波君を呼び出しまして大事件が起つた早速会つて種々相談もせねばならぬがと云ふことを打合せまして、恰(あたか)も翌日巌谷君の卒(ひき)ゐて居られます白人会と云ふ俳諧の会合があります、(中略)其席上で巌谷君に横町は胃癌であるさうだが、どうしたものであるかと申すと、此時は流石に洒落(しゃらく)一点張の巌谷君も真蒼(まつさを)な顔になりました。 

上記の発言には、日付の曖昧な部分があるが、これは現存する二月二十二日付け岡田朝太郎宛紅葉書簡(上記引用にある「紅葉君の手紙」)で確認できる。二十二日から二十三日にかけての出来事を、箇条書きにして追ってみよう。 

二月二十二日
 ① 紅葉は入沢博士の診断を受ける。
 ② 博士は紅葉本人には「胃にはれ物」が出来ているとのみ告げた上で、誰か「第三者」に今後のことを相談したい。その第三者には岡田朝太郎が適任なので、翌二十三日の昼どきに大学の食堂で会えるよう手配してほしいと紅葉に言う。
 ③ 紅葉は岡田に手紙を出し、明日、入沢博士に会って話を聞いてくれるよう頼む。その後についての話は、やはり明日、清風亭で会った時にしようとも段取り。 

二月二十三日 
④ 岡田は、大学の食堂(演説では「集会所」と言っている)で入沢博士と会い、紅葉は胃癌というのが自分の診断であると告げられる。 
⑤ 岡田はただちに電話で巌谷小波に連絡し、清風亭で会った時、重大な相談をしたいと告げる。 
⑥ 赤坂の清風亭で白人会の会合。句会になる前に、岡田は小波に紅葉が癌である旨を伝える。 
⑦ 岡田は小波と相談の上、紅葉には癌との診断結果は告げず、入院してさらに厳密な検査を受けるように勧める。 
⑧ 句会となり、紅葉はウェルテルの句を出句。 

先程の演説の引用では、上記の⑥までが述べられていた。⑦についての言及は以下のようになる。 

(岡田と小波の間で)第一に起りました問題が故人に癌腫と云ふ を言はうか、言ふまいかと云ふのが第一の問題であつたのです。夫(そ)れは入沢博士の御注意もありまして軽卒に癌腫のことを本人に言ふのは宜(よろし)くない、大躰(だいたい)は医士には分るにしても、随分誤診と云ふこともある、夫れは今言ふ必要もないが自分は多分さうであるまいかと思ふが、本統に夫れを見るには二週間と三週間入院の上で總ての方面から観察をしなければ分らぬと云ふお話でありました。それから其時は既に手前どもは入沢博士が癌腫と診断されたことは承知して居りましたが、本人は勿論家族の方(はう)にも申上げないで、未だ一二回の診断では到底本統のことは分るものでないから、入院の上に充分診てお貰ひになるが宜(よ)からうと云ふことを勧めたのが第一着でございます。 

癌の告知が、明治時代から難題であったことがわかって興味深い。また、家族(特に妻)をそっちのけにして、さしあたり事が友人間の問題として進行しているのが、尾崎紅葉という特殊な人物の事例だからではあるにせよ、当時の女性の立場の低さを感じさせる。紅葉はその後、三月三日に大学病院第二内科に入院し、入沢博士・長沢医学士の診察を受ける。「退院前五日」という文章は、その入院中の心事や逸話を紅葉みずから記したエッセイであるが、その最後は次のように結ばれる。 

越えて三日、十四日の午前九時半、入沢博士は自ら来(きた)つて、其の断症試験の結果を告げ、而(さう)して去るに臨んで、「私の誤診であることを希望するのです。」 

エッセイを読む限りでは、紅葉はすでに自分が胃癌であることを疑っているが、正式な告知は三月十四日であったことがわかる。告知を受けた紅葉は同日午前中には、牛込区横寺町の自宅に帰っている。 

以上、長々と書いてきたのはひとえに、明治三十六年二月二十三日の岡田朝太郎の行動をめぐっての、随筆「癌」と「故尾崎紅葉君追慕演説」の記述の齟齬ゆえだった。事が起こって三十二年後に書かれた「癌」と、わずか十ヶ月後に当事者である巌谷小波や入沢博士の面前で語られた「演説」では、後者に従うべきことは言うまでもない。筆者の関心はむしろ、岡田は「癌」においてなぜ、紅葉に癌を告げたのは自分だなどと書いたのかということにある。このエッセイは、前半では岡田が癌で妻を失ったことについて述べている。〈妻が癌だと医者に宣告されたのは忰で、私はそれを忰から宣告されたのだつたが、相談の結果妻には遂にそれを明かさなかつた〉とあるその流れで、かつて三十代半ばの若さで逝った畏友への癌告知をめぐるエピソードが語られるのだ。「ウェルテルは何回泣いたか」でも引用した、紅葉への癌宣告の場面を、再度引いておこう。 

さて、その夜会ふと紅葉がどうだつたと云ふから別室へ呼んではつきりと宣告し、同時に入院をすゝめたのであつた。彼は、やつぱりなあ!! と云つた。 
その夜の記録に 
泣いてゆくヱルテルに会ふ朧かな 紅葉 
と残つて居る。 

改めて読んでみても、エッセイとしてなかなか巧い。「やつぱりなあ!!」などというあたりは、いかにもという感じで、実相を伝えている雰囲気がある。しかし、これが全くの作文なのだ。岡田はなんでこんな書き方をしたものか。七十歳近くなっている老学究の、他意なき記憶の捏造の可能性ももちろんある。あるいは、ウェルテル句を含む、手許の句会稿を見返すうちに、こんな小説風のイメージが湧いてきて、それを事実譚のごとく書く誘惑に抗えなくなったものか。真相は藪の中ながら、いささか人騒がせなことである(まあ、騒いでいるのは高山一人だが)。 

ウェルテル句が出てきたところで、最後にこの句の解釈の問題にふれておく。冒頭の拙文の引用で述べているように、この句が三月二十三日の白人会に出されたものだとしても、持ち寄りの句か、席上の即吟かはもともとわかっていない。仮に、この日の句会に出たものでないとしても、三月二十五日付けの「卯杖」第三号に初出しているのだから、二月中(せいぜい三月上旬以前)の作であることは動かない。体調の悪化がどうしようもなくなり、入沢博士の診察をうけ、さらに検査入院をする流れの中で詠まれた事情に変化はないのだから、この〈泣いて行くウヱルテル〉に、紅葉のセルフイメージの反映を認めるという判断を撤回する必要はあるまい。 

それはそれとして、ウェルテル句が、二月二十三日の句会に出されたのか否かはやはり気になる。岡田が言う〈その夜の記録〉の信頼性の問題になってくるわけだが、「癌」から当夜の句会について言及した部分を引いておこう。 

さてその夜、手紙にある清風亭にてと云ふのは赤坂の清風亭で、白人会の俳句会の集りがあつたのだ。

(中略、白人会は)非常に多数の多方面の人が集つた会だが、二十三日に集つた者のみの名を並記するが、これによつても他は察せらるゝ事と思ふ。もつとも紅葉は会員でなく客員であつた。故小波が自然その主たるものとなつて居つたが、終始この会の面倒を見て来られたのは星野麦人氏である。当夜集る者 

小波(巌谷) 晴月(清水澄) 世音(久保田米齋) 古泉(美濃部達吉) 龍江(芳賀矢一) 鼠禅(宮本叔) 熱河(中村進午) 垂香(岡村叉畔) 蓬仙(大塚陸太郎) それに紅葉、岡田虚心 

こうした出席者名の記述までが錯誤あるいは捏造とも思えないがどうなのか。出席者名は真正の記録によりつつ、俳句は当時の俳句雑誌から、時期や内容が合うものを拾ってきて小説風に仕立てるなどということも不可能ではないにせよ、果たしてそこまでやるか?という気分が拭えない。句も含め、句会の記録は実際の当時のノートか何かを踏まえつつ、その前段の紅葉とのやり取りを、記憶の捏造によってか、小説風の筆の走りによってか、作文してしまったというのが現時点では穏当な推理かと思っている。 

今回の件を別にしても、岡田朝太郎はなかなか気になる人物である。明治三十四年の年末から正月にかけて(十二月二十九日~一月九日)、紅葉と連れ立って関西に旅行したりもしている。岡保生は、〈当時、硯友社同人中では、この岡田ともっとも気が合ったらしい〉(『日本の作家41 明治文壇の雄 尾崎紅葉』)と述べている。それでいて、紅葉編『俳諧新潮』には、岡田の句は採られていない。付合いは付合い、俳句は俳句という、紅葉の線引きだろうか。紅葉との関係を離れても、清国政府から招聘されて、近代刑法の整備にあたるなど、刑法学者としてそうとう優秀だったのだろう。一方で、いつからか俳句から古川柳に関心を移して、そちらの研究でも著書がいくつもある。個人としても興味深く、紅葉伝の上からも見過ごせない重要人物のはずなのに、『尾崎紅葉事典』の「人名編」に立項されていないのは謎。追い追い調べてみたいと思う。 


青山茶会記
十月✕日、南青山のN美術館の弘仁亭で行われたS先生の茶会に行く。弘仁亭はN美術館の庭園内に四席ある茶室の一つで、いちばん大きな建物だ。弘仁亭自体は十畳半の広間で、畳敷きの廊下を挟んで無事庵という四畳半の草案茶室と一体になっている。最初は無事庵の方に上がって、S先生ご自慢の大燈国師の墨蹟が床に掛かっているのを拝見する。S先生が日本橋の✕✕堂から空中戦で手に入れた由。写真では見ていたが、実物に接して印象ががらりと……変わることはなく、写真と全く同じであった。 

一度、外に出てから弘仁亭に入る。まず、廊下に広げられた新作の屏風を拝見する。S先生が、春日大社の藤棚(直会殿横の砂ずりの藤)を撮影した写真を大きくプリントし、六曲一隻屏風に仕立てている。写真なのに、藤の花が筆で描いたように見えるのが妙な具合で面白い。やがて席に着く。客は十人で、正客はLギャラリーのT氏。S先生の骨董道の師である。当日いただいた会記から抜粋。 

床    春日若宮曼荼羅   鎌倉期 
 花入  春日社 油注筒
  花  ときのもの
 (脇と書院は略) 
釜    芦屋 車軸
 風炉  高台寺柱巻     鉄 菊桐紋
 甃   泉涌寺伝来
水指   空中信楽 細 共蓋
 先   戦艦三笠 古材 
茶器   砂張 棗 
茶碗   彫三島 松浦鎮信箱  藤田家伝来 
 替    緑釉輪花 神泉苑出土 河瀬無窮亭旧蔵  平安期 
 替    一入 赤 銘仙骨 了々斎 
(以下略) 

お茶は武者小路千家の千宗屋氏がたてる。S先生は椅子に掛けたまま、床に掛けた軸やら茶碗やらの説明をする。要は自慢なのだが、一種の自慢芸とでも言うべき域に達していて愉快である。潮時を見て、千さんが今日のお菓子について切り出す。その間も茶をたてる手は休めない。S先生の屏風の披露の席でもあるから、奈良つながりで萬々堂通則製のぶと饅頭だという。話を聞いていると、要するにドーナツみたいなものらしい。ここで困ったことが起こった。私以外の人たちはみんな扇子を出し、懐紙を出す。正式な茶席なのだから当たり前だ。職場のY子は、千さんにお茶を習っているのに、なぜ彼女に事前に必要な物を借りて来なかったものか。いや、それ以前に、Y子は私が今日の茶席に呼ばれているのを知っていた癖に、なぜ先回りして必要な物を貸してくれなかったのだ……と、だんだん逆恨みモードに入る。しかし、誰も私のことを気にしているわけではなし、じつはこちらも大して気にしていないので別に問題はなかったのだが。 

お菓子を食べ終わると、正客から順次、茶が出てくる。今はコロナだから、もちろん濃茶の回し飲みなどはしない。会記にある三つの茶碗は正客から三人目までが使う(私は八人目)。四人目からが使う茶碗は、S先生がE浦測候所(小田原市のE浦にある)の土を使い、信楽の窯で焼いてもらったのだという。「お庭焼きというのがあるでしょう。大名気分ですよ。わはははは」と、S先生の軽口が止まることはない(なお、四人目からはお茶をたてるのも宗匠ではなく、裏の方にいるお弟子さんである)。

茶を出し終えた千さんが、本腰を入れて茶席のしつらえについて話し始める。良いものはあれこれ出ているのだが、目玉はじつは風呂先に立てた「戦艦三笠 古材」なのだった。戦後、三笠が横須賀港で記念艦として公開されるに先立ち、改修を受けた際に流出したものかという。三笠といえば三笠山、すなわち春日社の神体山であるからこれも藤の屏風に合わせてのセレクションなのだが、「ちょうどウクライナで戦争もやっていますしね」と千さんがきな臭い方へ振ってゆく。挙句に、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と東郷元帥の訓令まで飛び出す。「だいたい、茶室ではこういう話ばかりしていたはずです」。それはつまり、千さんのご先祖が、信長や秀吉とやっていた茶の湯のことである。

みな、立ち上がって、茶碗や床飾りを拝見して回る。先ほど、千さんが床の花について喋っていたのを聞き取りそこねたので、Picture Thisで撮影する。たちまち託宣がくだる。イブニングトランペット? しかし、そんな洋花を使うものかしらんと思って改めて千さんに確かめると、キバナノツキヌキホトトギスだという。花はまだ綺麗な黄色を保っているが、笹の葉に似た葉っぱは、一部が飴のように黒変して枯れ始めている。秋も深いこの時期の、名残りの茶の演出ということらしい。外に出ると前日来の雨が上がっていた。 

句会の間に、頭の中で〈雨聴天ここにもありし秋の雨〉という駄句をひねったが披露しそこねた。雨聴天はウチョウテンで、E浦測候所にあるS先生の茶室である。屋根がトタン張りで、雨の音がよく響くところからそのように名付けられた。ところで、花のことだが、あとで調べると、黄花の突抜杜鵑草とイブニングトランペットは実際よく似ている。Picture Thisも誤ることがあるというのが、この日の最大の教訓であった。

2022年10月1日土曜日

帰去來兮     佐藤文香



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帰去來兮     佐藤文香 

残暑且つ酷暑にはかに博打都市 
巨大峡谷赫しこの地球(ほし)を構成す 
秋は夜の街簡体字手書きにして 
詩の九月唄の市俄古(シカゴ)に湖を見ず 
けふの松散らせる小鳥七羽かな 
虫のこゑ我がアパートの石造り 
平麺に兔ソースや加州の月 
金風の夢と思ひぬ見送られ 
さはやかに桑港を発つ航空機 
書き始むる日記へ秋の手元灯

龍淵に潜む       関悦史



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龍淵に潜む       関悦史 

ゴルバチョフの屍をプーチンの見下ろす秋 
ホモ・サピエンスが地獄も須臾の銀河かな 
コラージュまづ首消し飛ばす秋の雷 
ドラゴン娘とスーパーフラットの淵に潜む 
曼珠沙華生者は咥へてはならぬ 
故郷はディラックの海秋日さす 
水晶のやうにみだらに冷やかに 
バルトークに摑まれ生きて木の葉髪 
ホーキングが車椅子よく人轢き冴ゆ 
総統閣下何に怒号す日短

BARBAROI     高山れおな

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BARBAROI      高山れおな 

猫鳴けばいよいよ上がる花火かな 
夷狄(バルバロイ)我ら花火を愛し死す 
ひろまへに雀の遊ぶ昼の月 
蜥蜴つと秋暑の道に出て動かず 
とんばうの光満ちゆき天高し 
糞落とす象の形や秋日和 
ことごとく虫は若造歌が好き 
秋風のうしろの正面腥(なまぐさ)し 
彼岸花もし物言へば蒙(くら)からん 
天然の良港に来て秋高し