2022年2月16日水曜日

パイクのけむりⅩⅣ~『古今俳諧明題集』漫読~①【春・夏】  高山れおな

先日、足立区立図書館の利用者カードを作った。区立図書館のカードを作るのは、これで八枚目だ。五年くらい前からすっかり図書館のディープユーザーになっている。たいていの場合は、地元の江戸川区、お隣の江東区、それから勤め先がある新宿区の区立図書館の蔵書で事足りるが、時々それでは済まないことがあって、当該資料を架蔵する区立図書館のカードが増えていくわけだ。国立国会図書館はまた別腹である(都立図書館は私のところからはアクセスが悪くてほとんど使わない)。

足立区の中央図書館で借りたのは、一九八六~九〇年に国書刊行会から出た『建部綾足全集』全九巻だ。今春、板橋区立美術館で開催される「建部凌岱展 その生涯、酔たるか醒たるか」(会期:三月十二日~四月十七日)について、仕事の方で記事を作ることになったので、そこまで必要ないだろうとは思ったものの、念のために借りることにした。なお、綾足(あやたり)も凌岱(りょうたい)も同一人物で、昔の人の習いでいろんな雅号を使っていた中の代表的なものである。凌岱は同音で涼袋、あるいは凌帒と書くこともある。享保四年(一七一九)生まれの安永三年(一七七四)没。

この人は蕪村と同じで、俳諧師兼絵師であり、年も近い(蕪村の方が三つ年上)。弘前藩の家老の息子に生まれながら、二十歳の時に恋愛問題から出奔して、以後は江戸と京を拠点に放浪の生涯を送った。四十代半ばからは国学にも首を突っ込んで、小説も書いている。文学者としてはそれなりの待遇を受けており、新日本古典文学大系(岩波書店)の第七十九巻が一巻丸ごとの作品集になっている。小説の「本朝水滸伝」、「紀行」、随想の「折々草」などはそちらで注釈付きで読めるし、新編日本古典文学全集(小学館)の第七十八巻にはやはり小説の「西山物語」が入っていて、こちらは現代語訳まで付いている。画家としても興味深い存在なのだが、大規模な回顧展は八十数年ぶりで、しかもたぶんこれで二回目。蕪村とは扱いの点で比較にならない。それだけに画期的な展覧会なので、みなさんぜひおでかけになると良いと思います。

全集の件でした。案の定、「西山物語」(これはかなりぶっ飛んだ恋愛小説)と「紀行」(乱暴にまとめると、「野ざらし紀行」くらいの規模の発句入り旅行記十五編の連作)を読了し、「折々草」を読みさしたあたりで時間切れになってしまい、全集に用はなかったのであるが、しかし、パラパラ見ていると第二巻に入っている『古今俳諧明題集』という、発句アンソロジーがなんだか面白そうだ。それでこの巻だけをネット古書店で購入することにした。原著は宝暦十三年~明和元年(一七六三~六四)刊。収録句数が三千五百句もあるので、すぐには読み切れないかと思ったのだが、読み始めると案外するすると楽しく読めた。前回に引き続き、興に入った句を淡々とあげてゆくことにする。なお、凌岱は同書を編纂した頃から国学にかぶれて正字説というのを唱え始め、漢字の使い方がかなり変。表記は適当に読みやすい形にします。それからこの本での名乗りは凌帒だけれど、展覧会に合わせて凌岱にしておくことにする。 

  もう年の外で霞むや冬木立  凌岱 

本書は「明題集」と書名にある通り、いわゆる類題句集。つまり事実上、季語別に句を配列している(一部、雑の題もある)。掲句は、これだけ読むとわけがわからないと思うが、春部巻頭の「年内立春」の句であると知れば、ピンと来るはず。年内立春の題は、古今集の〈年のうちに春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ 在原元方〉が本意になる。元方の歌は、年の呼び方を問題にしているが、凌岱の句は「冬木立」という具体的な物が焦点になる。呼び方さえ定まらない年に属する冬木立なのだから、いわば「年の外」にあるものだというのだろう。「霞」はもちろん初春の代表的景物である。 

  春立つや氷柱の矛の滴より  希因 

これは「立春」の句。古事記の冒頭では、イザナキとイザナミが塩をかきまぜた「天の沼矛(ぬぼこ)」の先から塩の滴がしたたり、オノゴロ島が生まれる。この神話は、太箸の滴がどうこうみたいにアレンジして、現在でも作句の下敷きにされることがある。希因の句は氷柱を矛に見立てているわけだが、溶ける氷柱に春の訪れを感じるのは無理がないし、品の良い祝意も感じられる。

  のりぞめや梅に白沫(しらあは)ふつて行く  茂畔 

「馬乗始(うまのりぞめ)」の句。〈白沫ふつて〉とあるのだから、馬はゆっくり歩いているのではなく、口から泡を吹きながら疾走しているのだろう。馬の口の泡とはユニークな着眼。しかし、リアリズム的な描写に徹するのではなくて、〈梅に〉と場面設定するところがいかにも近世の気分である。

  雪はもう野の透き通る若菜かな  晩九 

「人日 若菜 七種」の句。若菜と雪の取り合わせも王朝和歌以来のものだが、「野の透き通る」という言い方は新味があるし、冴えている。才麿の有名な〈笹折りて白魚のたえだえ青し〉あたりも意識した表現かと思う。

  どの歌のこゝろも見せぬ霞かな  西羊

「霞」の句。わかると言えばわかるし、難しいと言えば難しい。たとえば、八代集の巻頭歌八首のうち四首には霞が歌われている。先ほど霞を、初春の代表的な景物であると述べた所以。もちろん、春が深まった時点でも霞は歌われる。眼前の霞は、しかしそれらあまたある霞の名歌のうちのどの霞とも違うと言うのだろう。文芸の伝統の中の霞と、眼前に現に見えている物理的現象としての霞のずれそのものを句に興した。

  夜とけるものゝにほひや梅の花  滄洲 

「梅」の句。嗅覚鋭敏とも言えない私は、梅ってそんなに匂うかなといつも思うのだが(金木犀くらい強烈になるともちろんわかります)、それはさておき、梅と言えば匂いを詠むのがデフォルトだし、夜の闇との取り合わせるのも古今集以来の話。モティーフとしては全く新味が無いが、〈夜とけるものゝのにほひ〉というレトリックはエロティックで素晴らしい。 

  おもしろい夢見る顔や涅槃像  鳥酔 
  独り寝の姿教へて涅槃かな  凌岱 

 「涅槃会」の句。芭蕉なども崇仏敬神の念はごく薄い人であるが、百年後になるといよいよ世俗化が進んでこんな調子である。それぞれ発見があり、機知があって、面白いことは面白いのだが。

  風もはや入り乱れけり春の暮  斗光 
  春の別れ蛙ほど鳴くものもなし  也有 

「春の暮」の句。まず、斗光の句。春の風では東風が代表的だが、夏が近づけば南の風も吹き始めるし、いろんな風が入り乱れているな、と言っているのだろう。〈花鳥もみなゆきかひてぬばたまの夜の間に今日の夏は来にけり 紀貫之〉のような、季節の境目にあって春と夏が行き交うという伝統的イメージを、入り乱れる風によって形象化したところが清新。也有は、春の別れとか春を惜しむとかみんな言うけど、心の底からそれを嘆いて鳴いている(泣いている)のは蛙だけじゃないかと言っているのであろう。

ここからは夏部。 

  飛ンでみて石の指図や更衣  谷水 

「更衣並びに袷」の句。庭作りのひとこま。軽やかな夏衣になった庭の主が、実際に飛石を歩いて具合を確かめ、庭師に石の置き方を指図している。「飛ンでみて」は飛石からの言葉の縁で出てきたフレーズに違いないが、明るい初夏の気分はよく出ている。

  脱ぎ捨てた夏のすまひや華御堂  凌岱 

「灌仏」の句。花御堂の中には、上半身裸の釈迦誕生仏が立つ。先ほどの「涅槃会」の句と同様のやや敬意に欠けた詠みぶりながら、これまた初夏のすがすがしい感じは伝わる。 

  鼻紙へ光のにじむ螢かな  其梅

「螢」の句。捕まえた螢を鼻紙に包んだのだろう。はたしてほんとうに紙を透かして光が滲むものか知らないけれど、鼻紙という卑俗な小道具を使って美しく詠んだところが俳諧。 

  喰ひつくと子供をおどす牡丹かな  双飛

「牡丹」の句。牡丹の句と言えば蕪村。この句の目のつけどころも、要するに蕪村の〈閻王の口や牡丹を吐かんとす〉と同じことだ。うねうねと波打ちながら、幾重にも重なった花びら。牡丹花の豪奢なありようを蕪村は、罪人を叱責してかっと開いた閻魔大王の口にたとえた。閻魔の口にたとえられるようなものであるからには、嚙みつくぞとという脅しも成立するわけだ。 

  鷺の巣の風なまぐさし木下闇  破了

「木下闇」の句。句意明瞭。それはなまぐさいだろう。 

  船頭の蓑吹き散つて浮巣かな  双飛

「水鳥巣並びに浮巣」の句。風雨ついて行く舟。船頭の蓑が風にばさばざと鳴る。ふと目に入った浮巣は、まるでその蓑で作ったかのようだ。そんな句意になるか。蓑は藁製だし、浮巣も藁やら草やら木の枝やらで作られる。どちらも植物性の素材であるから、この見立ては無理がない。野趣あふれる作。 

  芭蕉葉に銀泥さびし蝸牛  阿坡

「蝸牛」の句。芭蕉の葉に蝸牛。その通ったあとに粘液がぬめり、光って見えるのを「銀泥」と言った。語感の冴えた句だ。 

  木枕に油の熱(にえ)るあつさかな  雲和

「暑(あつさ)」の句。木枕の句では、丈草の〈木枕のあかや伊吹にのこる雪〉が名作だが、この雲和の句も負けていない。木枕に付着した髪油が、暑さにぎとついて見えるのを〈熱(にえ)る〉と言った。巧い。 

  ひよどりも越えぬところぞ雲の峰  一声 

「雲の峰」の句。深閑とした青空に圧倒的な高さにそびえる峰雲のありさまが、勇壮に迫ってくる。しかし、鳥もいろいろある中で、ことさら〈ひよどり〉が呼び出されたのはなぜか。おそらく、一ノ谷の戦いの古戦場である「鵯越」の地名を利かせているのだろう。鵯のような鳥は越える、鹿もなんとか、しかし人馬には無理と言われた険しい斜面を攻め下ったのが鵯越の逆落とし。しかし、この雲の峰は、人馬はおろか鵯にも越えられないという形で、雲の峰の壮大さ、険しさが強調されている。近世の俳諧師たちは、平家物語や平家物語に基づいた謡曲が大好き。今回、取り上げた範囲でも、あと何回か出てきます。 

  涼しさや舳(とも)へ流るる山の数  凌岱

 「避暑(すずみ)」の句。凌岱は、絵を学ぶため、長崎に二度遊学している。これは寛延三年(一七五〇)、瀬戸内海を九州へ向かって進んだ際の句。凌岱は時に三十二歳。名句だろう。 

  冷麦やあらしのわたる膳の上  支考

「冷麦」の句。嵐と言ってもこれは青嵐だ。食事中の風は迷惑には違いないが、暑い時期の風だから半ば爽快でもある。一茶の〈有明や浅間の霧が膳を這ふ〉と同工の構図だけれど、一茶句のなにやら怨念を感じさせる霧とこの嵐では、似ても似つかない。なお、支考はもちろん芭蕉の弟子。この選集は、凌岱とその同輩、門下の句を主としつつも、「古今」と銘打っているように、古いところは宗鑑・守武の句なども収めている。芭蕉の句もたくさん入っているが、ここで芭蕉の句をとりあげても意味がないので、芭蕉(やその高弟)の有名句は度外視して鑑賞している。掲句は、蕉門の句ではあっても記憶になかった。