2022年2月16日水曜日

書き始める、書き続ける、書き終わる  佐藤文香

終わりが視界に入らないものがこわい。映画も小説も、自分が書くことについても。だから俳句なんだと思う。俳句は書き始めた時点で、書き終わるしかないから。自分が思いつくのは2行くらいで、そのあとは崖だ。自分は崖づくり職人みたいなもんだと思う。書き続けるなら、自分の外側のことを書き取り続けるしかない。というか、「思いつく」以外の、やり方がわからない。「書き続ける」とは。

こうやって昨日のツイートをコピー&ペーストするのは、真っ白なところに文字を書き始めるのが苦手だからだ。

面白さを度外視すれば、自分は「書き出し続ける」ことはできる。Twitterでなら、起きている間中、5分に1回つぶやき続けられそうだ。なのになぜ文章を書くのはこんなに苦手なんだろう、と考えて、それを文章にしたらいいじゃないか、と思うところまではいったが、面倒くさくなって終わった。怠惰なだけなのかもしれない。私の頭の中はいつでも崖だらけだ。

続いて、ツイートを少しアレンジしてみた。書き始めてやめてしまうこともしょっちゅうで、自分には「途中」がない。終われなさそうなことは、書き始めたくない。
ここからは自分のブログに書いたことを、少し詳しく書いてみるのはどうか。

最近、自分にはひとつ能力があることに気づいた。自分は、誰かに伝えたいことを、その相手がわかるように話して説明することができる。子供から老人まで、俳句に関わりのない友人や美容師さん、バイト先の先輩、以前の恋人のお母さん、夫の同僚などにも、ある程度自分のやっていることや考えていることを、相手がわかる範囲で説明することが可能だ。

自分が人に伝えたいことというのは所詮話して理解されるレベルのことであるというのと、難しい言葉を知らないから難しくない言葉で話す、あとは相手のことを決して見下したりしないからなのだが、とはいえ自分はそれで満足できるので、これが能力であることに気づかなかった。『俳句を遊べ!』『天の川銀河発電所』はどちらも会話形式を用いた構成になっていて、それは私が書くのが苦手だからなのだけれども、同時にやはり会話がある程度得意だからだったのだろう(もちろん、ものすごく編集してあるが)。

しかしそれが能力であることになぜ気づいたかといえば、英語で会話がまったくできないからだった。言葉に詰まって、何か言うのを諦めながら、自分はシャイじゃない、あなたが考えるよりもう少し頭がいいはずなのに、と思い続けた。その場で話せないので、あとで調べて書き送るか、あらかじめ言い方を調べて行って、読むしかなかった。

小説家になりたい、とか、文芸部に入ろうと、一度も思ったことがないのは(まぁ、俳人になりたいとも思ったことはないが)、自分が書いて伝えないといけないようなことに直面しなかったからだと思う。言葉は好きなので、アナウンサーや声優、書道の先生になりたいと思ったことはある。これらは、自分の中身を意味で伝える以外の言葉を扱う職業だ(作詞家にもなりたいときがあったが、それは「ゆず」というミュージシャンにかぶれていたときだ)。

自分が「俳句で伝えたいことはない」などと言ってきたのも、結局、自分が伝えたい程度のことは話せばわかってもらえるから、だったのだろう。今では「自分はあまり話すのが得意でないから書くようになった」という人の気持ちがわかる。

はじめのツイートと、この話を合わせて考えてみる。ではなぜ、話すときは終わりが見えなくてもいいのか。会話というものはそもそも見えないからだろうか。いつまででもその人と話し重ねたいからだろうか。相手の反応によっていくらでも話し方や内容を変えていくことの方に面白みを感じているからだろうか。相手からの反応が得られることで、毎度話し始め続けることができるからだろうか。そういえば私は、ひとりで話し続けるのがとても苦手だ。そして、手紙を書くのは得意だ。打ち返してくれる(かもしれない)「相手」の存在が、重要な気がしてきた。

ーー崖がきた。
ツイートのコピペのアレンジに戻る。

自分がなにか書けていることがあるとすると、それはすでに「逸話化」ができている=自分の外にある 場合で、そういうときは、顛末=話の尾っぽ を見据えることができるから、絵を描くというよりは塗り絵を塗るように書く。塗り絵というのは、全貌が「見えている」。A41ページくらいのものだ。せいぜい2000字、小話、ネタ程度のものでしかない。

そうだ。さきほどの話は、ブログで逸話化が済んでいたから、アレンジでいけた。

そう考えると、自分が書くもののなかで自分の中身を超えられる可能性のあるものは、今のところ、日記だ。終わりのある一日について毎日「書き終わり続ける」ことができ、翌日を予測することが不可能であるが、どの段階でも自分という主体によってその物語を回収することが可能だからだ。

それと、音声入力、ツイートの断片の組み合わせ、か。

句集『菊は雪』巻末の「菊雪日記」はまさに、日記形式を借りながら、小話として成立するものをある日一気に音声入力し、それを各日付に割り当てるかたちでつくった。素材さえあれば、編集はできる。
去年、平岡直子歌集『みじかい髪も長い髪も炎』の書評を書かせてもらったが、書評というよりは、短歌のなかを自分が彷徨く紀行文のようなつもりで書いた。

とはいえ、(評論などの有益なものを)書けないのは、単純に文章を読む量が足りないから型を知らないというのと、資料にあたらないから持ち駒がないというのが大きく、「本を開くのが苦手」(ほとんどの本は自分にとって途方もない)というのを克服しないといけないという別の問題(同じ問題ともいえる)がある。去年はたしか、詩歌以外の本は5冊も読んでいない。

さらに、誰かや誰かの作品について中途半端なことを書いて作者や読者に迷惑をかけたくない、とも思っている。今もまた私は自分について書いていて、私がいつも自分の話をするのは、単にネタがないというのもあるが、自分の思ったことが何かしらの判断として誰かに影響を与えてしまったら困るのと、自分のことならいつ書きやめても何をはしょっても、自分にしか迷惑がかからないので安心できるからだと思う。

ここまでツイートとメモ。「終わりが視界に入らないものがこわい」という、はじめの話に戻ってきたし、自分の話をしている言い訳もできたので、今日はこのへんで。

だいたいこれくらいの長さのものを書くときは水分も摂らず、過集中の状態で、一気に書く。書き終わるまで書く。『ぜんぶ残して湖へ』の栞文もそうだった。書き終わってようやく呼吸をする。ずっと息が止まっていたのではないかと思う。文章ひとつを書き終わるまで息ができないとすれば、ずいぶん体に悪い。

そう考えると、俳句は体にいい。
推敲には時間がかかることもあるが。