2023年9月18日月曜日

柿本多映句集『ひめむかし』からの三句鑑賞   関悦史

  野は無人きのふ冬日が差しました  

 人の姿が見えないにもかかわらず演劇的な空間が成立している点、ある時期以降のベケットの戯曲を思わせる句だが、ベケットのような消尽の果ての殺伐とはやや異なる何かが示されているように見える。 
 現在のところ、野は無人である。 
 それに続いて示されるのが「きのふ冬日が差しました」。 
 ここでの冬日は無生物であるにもかかわらず、人と同等の重い存在感を持っている。しかし現在はそれも不在だ。言葉として示される「冬日」とそれが今は不在であるところから、野は曇っているようでもあり、冬日が差したイメージを記憶にたたえているようでもあり、その明るさや天候は判然としない。この句は現在の光景をはっきり描くことに興味や価値を見出している句ではないのだ。 
 冬日が差し、そして去った。それが無人であることが当たり前の野での出来事である。「冬日」にとって最も根底的な事件といえば「差す」ことのほかはなく、そこに注意を向けるならば人の存在は夾雑物にしかならない。 
 しかしこの「無人」は、ひと気のない閑静な場でのみ得られる安らぎといった廃墟趣味に還元するには、いささか奇矯なものを含んでいる。口語調の「差しました」が、人との会話を思わせ、「無人」であることの安息を許さない賑わいをもたらしてしまうのだ。この発語は誰にさしむけられたものなのか。 
 もし読者にであると捉えるならば、句を読み、「差しました」と話しかけられたわれわれは、無人の野や昨日の冬日が形づくる事件性と同等の、人の姿を失った事件性そのものにすでに半ば変身させられているのかもしれない。そこにあるのはさびしさ、安息、虚しさのどれでもあってどれでもない感情である。 


   寝て覚めて菫が雲のあはひから 

  目覚めたばかりの夢うつつの感覚を描いた句というよりは、つねのとおりに寝たあと、はっきり目が覚めてからの事態を描いている句と見える。日常的なただの睡眠のあとの景である。そこでは雲の間から見える菫という位置関係のおかしさも、さして驚くべきことではないのかもしれない。 
 しかし「菫が雲のあはひから」とは、菫が天空に咲いているということか、それとも視点人物が天にいてそこから地上の菫をかいま見ているということなのか。日常を踏み固めて再確認するような「寝て覚めて」からすると後者はいかにも唐突、やはり空に菫があるととるべきだろう。いずれにしても異変には違いないが、後者ではまわりではなく自分に異変が起きていることになり、菫や雲の臨在感がうすれてしまう。 
 はるかな雲を見上げて目にとまる菫となればかなり巨大な花になりそうであって、大小のスケール感も歪となる。そういえばオキーフが描く花や骨も、周囲との遠近法的秩序からはそのスケールがしかとはつかめないものだった。この句にもオキーフの絵に通じる美しく静謐な驚異がある。日常とはそもそもそういうものであり、われわれはそれを普段意識できていないだけなのだとも、この句を見ると思えてくるが、句そのものはそうした一般論には還元不能な、鋭い単独性を帯びたものだ。「寝て覚めて」は日常性の強調というよりは、一種の通過儀礼として機能しているのかもしれない。その先に見えるものは人や時によっておそらく異なる。ここではそれが雲の間の菫であった。 


   蟹と蟹向き合つて二葉亭四迷かな 

  謎かけの句ではないのだが、向き合った二匹の蟹と「二葉亭四迷」との間にはたしかに密かな連想の通路があると直観させられる。ただしそれは二葉亭のよく知られた肖像写真の、眼鏡の奥でみひらかれた目が蟹のそれを連想させるといったような容貌上の類似ではない。また二葉亭の業績であるロシア文学の翻訳や、従来の小説の文体とは一線を画す平易な言文一致体の確立といったことどもがもつ複眼性も背景に見え隠れはするが、そうした批評的なことがいいたい句でもない。 
 そうしたことよりも先に、向き合った結果として蟹の目、あるいは特徴的なハサミが「二」対となって計「四」本となり、それが「二葉亭四迷」の名を一直線に呼び出してしまうさまが連想の通路の中心をなしているのであり、この句はその剛直なアナーキーさこそが賞されるべきなのである。暗喩の重ったるさはここにはない。 
 ほかにも二葉亭の筆名の由来となったといわれる「くたばってしめえ」から蟹と蟹が江戸言葉で喧嘩しているさまが思い浮かべられたりもするし、ほぼ等身大の自己像を見つめあって膠着する蟹たちに、自然主義的深刻さに対する二葉亭の「平凡」のような茶化しの要素を見てとることもできなくはなさそうだが、蟹たちはおそらく自分たちの対峙が二葉亭四迷を呼び出していることなど関知しない。蟹たちと二葉亭四迷は、ダリの描いた「ヴォルテールの見えない胸像が出現する奴隷市場」の奴隷市場の修道女たちと、そこへ騙し絵的に重なるヴォルテール像のように場を同じくしながら別の位相にいる。この句の諧謔味はそこから生まれる。 
 なお二葉亭四迷はロンドンから船で帰国中に海上で死んだという。この点も蟹に通じる要素のひとつといえそうではある。