2023年8月15日火曜日

耽美俳句逍遥     関悦史

 少々前のことだが、さる雑誌から耽美性俳句なるテーマを与えられて論評を書いたことがあった。俳句史にそういう流派がまとまってあるわけでもないので雲をつかむようなテーマに困り、とりあえず例句になりそうなものを集めたらけっこうな量になった。紙幅の都合でほとんど触れずに終わってしまったのだが、これをもとに50句選か100句選程度のアンソロジーを組んだらそれなりに面白くなったのかもしれない。そういう目で例句を見返してみよう。

   少年の死神が待つ牡丹かな   永田耕衣 

 耽美というテーマを与えられてはじめに思い浮かんだのがこの耕衣の句である。ただ美しいのではなくて美に“耽る”からには、あまり晴れやかではなく、句に何がしかの翳りや、ときによっては悪魔的な魅力もあってしかるべきだろう。これは悪魔ならぬ死神の句だが、その死神があろうことか若々しい少年の姿をしていて、その条件を充分みたす。出会う場も百花の王と呼ばれる牡丹のそばである。
 
 他者にはうかがい知れない密会の風情となるのは、おのれの死であれば当然のこと。エロスの極まりとして死を描くといえば三島由紀夫「憂國」その他いくらでもあるありきたりの発想にきこえるが、しかし発表当時に夭折とは到底呼べない齢にいたっていた作者の名が付された句である。句の主人公にも老齢の影は落ちるが、とはいうものの「ヴェニスに死す」の主人公アッシェンバッハのように、美少年の面影を追い求めながらあえなく病死するといったものさびしさはない。それどころか少年の死神との出会いは確実に果たされるであろうという予感があり、待っている時間そのものに充足がある。アレゴリカルに少年の死神とされているもののその内実は己の死なのだから、これ以上確実にやってくるものはない。

 死を美によって悦楽に転じる概念の力技をやすやすと成し遂げているこの句が、五七五定型わずか十七音に過不足なくおさまっていることはあらためて奇観とすべきだろう。その先には、少年と牡丹のイメージをまつわらせた若返りと再生すらもが予感される。

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 少年や青年がテーマの句は以前、BL俳句についての連載をしていたので、この句のほか、〈怒らぬから青野でしめる友の首 島津亮〉や藤原月彦の作品などもそちらで取りあげてしまっていて、私としては二番煎じの感がある。

 耽美というよりはゴシック趣味に近づくかもしれないが、アンソロジー的に並べるのならば「人形」「迷宮」「怪物」「変身」「百合」等、ほかのテーマも探ってみるべきなのだろう。次回以降、気が向いたら続けてみる。