2023年8月15日火曜日

一句鑑賞〈吸入器君が寝言に我が名あれ/佐藤文香〉

 君は生まれつき気管支が弱かった。笑いすぎると途端に君の喉はびゅうびゅうと鳴って、喉の狭まりは君の呼吸を妨げた。布団の中に潜って遊ぶと、埃に反応して発作が出た。友達とかけっこをしても苦しくなった。発作が出るたびに君は神さまに祈った。学校で神さまというものの存在を教えてもらう前から、君は神さま(それは純粋に「君の中の」神さまだった!)に、病気を治すよう祈った。

 村に一人だけの医者は、よくある喘息だといった。けれども病状がひどくなるにつれ、医者はただしかなり重ためのだ、と言い直すことになった。この村を出た方がいいとも言った。村は海沿いで、曇る日が多く霧が立ち込める日もあった。もっと空気の綺麗な内陸の田舎へ行くべきだ。お子さんの将来のことを考えてご覧なさい。内陸の田舎もそう悪いところではない――。そう勧められ、君の両親は俯くしかなかった。 

 君の両親はその村で代々商店を営んでいた。君を連れて引っ越すことは、店を畳むことを意味していた。君の両親は自転車から駄菓子まで何でも売った。小さい店ながらも何世代にも渡って村の人々の生活を支えてきたことは、君の両親にとって誇らしいことだった。

 しかし幸か不幸か、医者の意見は、あろうことかまだ幼い娘の――君自身によって却下された。君は、家の窓から見える景色が好きだった。だからそこの家を離れたくなかった。君の娯楽はその家の東側の窓からもたらされていたのである。窓からは海が見えた。それに灯台も見えた。岬の先端に立つ、白く小さな灯台が見えた。

 霧がかった日は灯台は見えなかった。けれど、晴れた日は白壁の照り返しが眩しいほどだった。距離にして二百メートルくらい。夜はくるくると回る光の帯に見とれた。君自身は病弱で、灯台へ行くことはほとんど出来なかったけれど、その灯台の存在は間違いなく君の精神を明るくし、君を支えていた。灯台の光が届かないところに引っ越すことは、君には考えられなかった。君は以後、ずっとこの村で暮らすことになる。

 君の喘息の発作は遺伝的なものだった。君の父が喘息もちだったのである。だから、母が困惑気味に喘息の君を見守るのに対して、父は、彼自身の経験を基にした冷静さをもって君の喘息に対処したし、深い愛情を惜しみなく君に注いだ。発作が出て寝付けないときに背中をさするのも、吸入の薬を調合するのも、吸入の間に絵本を読み聞かせてくれるのも、君の父だった。

 君は、読み聞かせが大好きだった。君が吸入器から出て来る薬品入りの水蒸気を吸って手持無沙汰なあいだ、君の父は、吸入器に負けないような大きな声で、絵本を読んでくれた。吸入器から溢れ出てくる水蒸気が、絵本の頁を濡らした。君は吸入器を咥えながら笑い、悲しみ、泣いた。

 小学生になり文字を覚え、君が本をひとりで読めるようになってからは、君の父が読み聞かせをしてくれることはなくなったけれど、君が本の虫になったのは確実に父のおかげだった。君は書物の中に友達をたくさん作り、多くのことを彼らから学んだ。

 また君は現実でも、友達に恵まれた。君が学校を休んでいる日は君のことをみんなが心配した。プリントを届けてくれる友達もいれば、クラスに戻ってきたときに仲間外れにならないよう、学校の出来事を意識的に君に教えてあげる(しかし意識的であるというそぶりは見せない)友達もいた。彼らに感謝しながら、君は小学校を、中学校を、そして高校を卒業した。休みがちだったけれど、君の成績は優秀だった。

 それから君は恋もした。君の初恋は君が中学生のとき、それは窓越しだった。君はいつも窓辺に座り、ぼんやりと灯台を見ていた。決まって午後――それは放課後くらいの時間――、君の家の前を通り、岬へ、灯台の方へ向かう自転車があった。自転車に乗っているのは同い年くらいの男の子、彼は自転車の籠の中に膨らんだ手提げのトートを入れて、三日に一度くらいの頻度で、君の窓の前を通過した。彼がなぜ灯台へ向かうのか、君は知るすべがなかったけれど、トートの中に詰まっているのがたくさんの本だと知ってから、ますます彼に惹かれるようになった。彼とはほんとうに仲良くなれそうな気がした。 

 彼はなぜ灯台へ通うのか。一度にたくさんの本を持っていくのはどうしてなのか。どこの国の文学が好きなのだろうか。歳は幾つなのだろうか。それから、名前は――。知りたいことが君の中に渦を巻き、寝ても覚めても、自転車で灯台へ向かう彼のことを考えるようになった。君は毎日窓辺で彼が通り過ぎるのを待った。彼は三日に一度来た。そして彼は君の視線には全く気付かず、ただ灯台へと続く坂をゆっくりと降りていった。そして少し時間が経つと、引き返してくるのだった。 

 恋は突然終わりを迎えた。半年ほどたったある日、彼が姿を見せなくなったのである。何日待っても、彼は銀色の自転車で、君の家の窓の前を通ることはなかった。一切の事情は分からなかった。突然のこと過ぎて淋しくもなんともなかった、自転車の彼とはそれっきりね――君はいたずらっぼく、わたしにそう教えてくれた。

 わたしは君の狙い通りに少し嫉妬したから、曖昧に笑って、もう寝たら、と促した。手元の電気スタンドの灯を消して、覚醒状態のまま天井を見上げる。やはり寝る前に飲んだ珈琲がよくなかった、ミルクにしておけばよかった、と思う。だんだんと君の呼吸がゆっくりになり、一息一息が長くなる。おだやかに寝息へと変わってゆき、寝息に変わった。君はいま寝ている。静かに夢を見ている。枕元には、君が高校生まで使っていた吸入器が埃を被ったまま置いてあった。

 わたしは、君の寝言を聞き取る前に眠りについている。



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この鑑賞文は、佐藤文香のDropboxに入っていた。
佐藤文香の文章、ということでいいのかもしれない。