2021年11月15日月曜日

パイクのけむりⅪ ~写生文ネオ 広沢池眺望~  高山れおな

写生文には山がなくてはならないというので、「ホトトギス」の写生文の互評会が山会と呼ばれているのはご承知のとおりだ。本稿も写生文ネオと銘打つからには山があってしかるべきところ、山はどうも作れそうにない。その点は最初から白旗を掲げておくとして、一方で実際の山はたくさん見たのだった。

十一月一日の月曜日、カメラマンのH君と七時に車で会社を出て、八時の新幹線に乗った。少し時間の余裕を見過ぎたらしく、私は電車に乗る前に、駅のホームで弁当を使ってしまった。昨年来がらがらにすいていた新幹線も、この日は品川で座席の八割方が埋まる。それにも驚いたが、品川駅を発車するや否や、ビル群の上に大きな真っ白い富士山が浮かび出たのには目がさめる思いがした。 

昔は調布市や川崎市の多摩区から都心の高校・大学に通っていたから、晴れた冬の日には京王線の窓から富士山を見ることも珍しくなかった。しかし、東京の東の端に住むようになってからはそれもなくなった。もちろん、新幹線から富士山を見る機会は折々ある。しかし、富士の裾野から富士山が見えても、それはあたりまえというものだろう。この朝の富士山が殊に印象的だったのは、場所がまだ品川なのにもかかわらず山容が眼前に迫ってくるかのようで、しかもパウダースノウ(たしかにそんな質感だった)に厚く覆われたみごとな白富士だったためだ。しかし、白富士というのはじつは誤解だったらしく、防音壁やビルに隠れては現われる山の姿がだんだん大きくなるにつれて、冠雪した部分に続く土色の山肌がちらちらしはじめる。それでもまだ丹沢や箱根の山並みに半ばを隠されていた山容も、列車が静岡側に入ってとうとう全体をあらわにすると、雪を被っているのは七合目あたりから上に過ぎなかった。その点は拍子抜けしたものの、空気が澄んでいて稜線がくっきりと出ているのがすばらしく、後方に消え去ってしまうまで飽きずに見ていた。 

この日は終日、京都市内を動きまわった。愉快といえば愉快、多忙といえば多忙。しかし、仕事について事細かに書いても仕方がないので以下略。泊まった京都駅前のホテルの部屋が819号室だったので、夜は俳句ができるかと思いきや、疲れ切って早々に沈没する。なお、御朱印は三か寺(安楽寿院・北向不動院・建仁寺両足院)で三個をゲットした。

翌日はS先生ご夫妻も合流し、六人の集団になって山陰本線で福知山へ向かう。前日に続いての快晴である。丹波路に入ると、はっきりした紅葉こそ目につかないものの、こんもりと丸い山々がそれでも秋色を帯びて車窓に畳なわる。おのずと、〈遠山に日の当りたる枯野かな〉を思い出したものの、午前の陽気が山々ばかりか手前の平地にもあまねく満ちて、虚子の句の冷え冷えとした冬の暮方の構図とはだいぶ様子が違う。しばしば柿の木が目に入るのがいかにも関西の田園地帯らしく、たわわになった柿の実が秋日和につやつやと輝いているのが貴石細工めいて見える。 

福知山では威徳寺観音堂を訪ねた。山を見るというよりは、お堂そのものが山の中である。威徳寺などと厳めしい名前を冠してはいても、寺ははるか昔に廃絶しており、周辺地域の古仏数十体が取り集められ祀られているお堂を、地元集落の人びとが管理している。この日も当番の男性がお堂をあけて待っていてくれた。集落でいちばん若いのだそうだが、昭和二十三年生まれというから七十三歳のはずである。S先生が、僕と同い年だと言って盛り上がっていた。 

仏像はほとんどが平安時代のものらしく、多くは躯体が腐朽し、目鼻も溶けてしまったような高さ一メートル内外の立像(いわゆる三尺像にあたるか)である。それらが階段状になった檀上に数十体もひしめいているさまは、ちょっともの凄い。同行のK県立K文庫のSさん(S先生とは別人)によれば、古美術業界ではこの種の古仏を「流れ仏」などと呼んで、廃仏毀釈の折に川に捨てられたせいで摩耗したのだなどと説明されることもあるが、実際は、諸処の小堂に祀られたまま、メンテナンスも受けずに何百年も経ったものだろうという。いや、しかし、仕事の話は省略に任せるというのが本稿の方針でした。威徳寺レポートもこのくらいにしておこう。

私とSさんだけが帰りの京都行きの特急を亀岡で降り、鈍行に乗り換えて嵯峨嵐山駅まで進む。佛教大学の宗教文化ミュージアムで威徳寺の仏像群についての調査報告書を入手するためである。Sさんが知り合いの学芸員を呼び出したものだから、こちらも挨拶をするなりゆきになる。佛教大学といえばネンテン先生。名前を出したら、先日も講演会にいらしていただいて云々といった話になる。私も俳句をやっておりましてと振ってみたけれど、その方面には関心のない人らしく、そこからの展開はなかった。 

以上が長い枕で、ようやく標題の「広沢池眺望」へ到達したわけだ。というのも、その佛教大学宗教文化センターの正門を出たすぐ目の前が広沢池なのである(なお、佛教大学の本部キャンパスがあるのは紫野)。読者諸賢においては、なになに、じゃあこれから広沢池の眺望を写生しようというのだなと思われるに違いない。なるほどそのつもりもあるにはあるが、「広沢池眺望」というのはじつは歌題、しかも四季の題なので、まずはその話をしなくてはならない。

昨年末の「豈」六十三号に「百題稽古」というタイトルで百句出した。タイトルの通り百句の題詠で、題は「堀河百首」に拠った。「堀河百首」は、堀河天皇の長治二年(一一〇五)頃、源俊頼と源国信をとりまとめ役として百の題を定め、十六人の歌人に詠進させた百首歌の集成である。題は春二十首、夏十五首、秋二十首、冬十五首、恋十首、雑二十首からなり、たいへんバランスよくできていたことから中世の組題百首の規範になってゆく。藤原定家たち新古今歌人の家集を見ると、初学百首とか二見浦百首といった具合に、○○百首というタイトルの百首歌がずらずらと並んでいるが、その多くは「堀河百首」の題を使っている。こうしたことは知識としては知っていても、自分でも同様にやってみるといろいろなことに気付かされる。立春とか霞とか鶯とか、現代の俳句でもふつうに季語として生きている言葉も少なくない一方で、子日とか照射とか駒迎のように早くに実体が失われてしまった題もあれば、苗代のように近過去数十年のうちに実体が失われないまでも非常に希薄化してしまった題もある。

この最初の取り組みが面白かったので、今年の「豈」六十四号用には、同じく「百題稽古」のタイトルで、「永久百首」の題に拠る百句を作った(雑誌は本稿のアップまでには出るかと思っていたが、間に合わなかったようだ)。こちらは永久四年(一一一六)、やはり源俊頼が題を定め、七人の歌人が参加している。永久二年に亡くなった堀河天皇中宮の篤子内親王の追善に加え、さらにそれ以前に世を去っていた天皇自身の追善をも企図した催しだったらしい。「永久百首」の題は「堀河百首」とまったく重複しないのが味噌だが、題詠にあたって往生したのは春日祭・石清水臨時祭・稲荷詣といった、王朝貴族の祭事や習俗に強く結びついた題が「堀河百首」以上に多かったことだ。しかし、春日祭や石清水臨時祭は現在でも続いている行事ではあるし、伏見稲荷も何度か参ったことがあるので取り着く島くらいはある。にっちもさっちもという感じだったのが志賀山越という題で、「永久百首」の七首については、四首が霞、二首が桜との取り合わせで詠まれている。 

じつは私は志賀の山越えの現地を知らないわけではない。これも仕事で、何年か前、大津市の崇福寺跡の写真を撮りに行ったのである。別名を志賀寺といった崇福寺は大津京時代に天智天皇が創建した大寺院ながら、中世には廃絶してしまった。昭和期に発掘がなされ、現在は遺跡公園風に整備されているのだが、少し山に入ったところにあって、地元のタクシー運転手すらその存在を全く知らず、たどり着くまでが大変だった。もちろん、永久の頃には寺はまだ存続しており、京都側から山を越えて崇福寺の横を通って大津に出るのがつまり志賀の山越えである。にっちもさっちもというのは、こうしてせっかく現地は知っていても、シガノヤマゴエの音数の多さと読者サイドがまったく連想を喚起されない言葉であると予想されることからして、どう手をつければよいのか見当もつかなかった点をさす。まあ、それでもなんとかでっち上げて作品は出したのであった。

そうして次。来年の「豈」で最後にもう一回この百句題詠をやろうと考えて、こんどは「六百番歌合」の題を使う予定にしている。「六百番歌合」は、建久三年(一一九二)に、当時は左大将兼権大納言だった藤原良経の主宰で行われた歌合で、十二人の歌人に詠ませた百首歌(つまり計千二百首)を六百番に組んで、藤原俊成が判者を務めた。題は一部が「永久百首」と重複するが、「堀河百首」とは重複なし。当時すでに組題百首のスタンダードになっていた「堀河百首」に対して、良経が(おそらくは定家の助力を得て)新風を打ち出そうと企図して題を定めたのではないかという(篠崎祐紀江/「六百番歌合」歌題考――四季の部をめぐって――)。春十五、夏十、秋十五、冬十、恋五十という構成で、恋の題がなんと五十もある。恋の句ばかり五十句も作れるのかという不安はさておき、この歌合の秋の題の一つがつまり広沢池眺望にほかならない。そしてそれは春の志賀山越と対になっているのだ。

上記、篠崎論文によれば、「永久百首」の題の選択・配列にはやや荒っぽいところがあって「堀河百首」より完成度が低いのに対し、「六百番歌合」は非常によく練られた構成で、題と題の間のシンメトリカルな対応関係が随所に見られるという。すでにふれたように、「永久百首」では志賀山越は霞および桜と取り合せられており、性格付けに曖昧なところを残していた。これに対して、「六百番歌合」では春の題に桜(花)が無く、秋の題に月が含まれない。その代わり、「志賀山越=花」「広沢池眺望=月」という形で、春秋を代表する景物を名所題と固定的に結びつけて対に仕立てているのである。

佛教大学宗教文化ミュージアムの正門前は、小さなロータリーになっていて待合室付きのバス停もある。ただし、学芸員の人が、バスが来ないバス停と言っていたので、いよいよ帰る時にはタクシーを呼ぶことになるだろう。それはいいとして、広沢池の側に道を渡ろうとするのだが、これがなかなかおそろしい。片側一車線でさして大きい道でもないのに交通量が多く、おまけにどの車もかなりスピードを出している。信号はなく、道がゆるやかな弧を描いているため見通しも悪い。私はまだしも、資料がぎっしり詰まったキャリーバックをごろごろ引いたSさんが一緒であるから、よほど気を付けて道を渡った。

渡ってから右手へ四、五十メートル行くと、そこが広沢池の西南の隅になる。池の北側に低い山並みが連なっているのは遍照寺山で、宇多天皇の孫の寛朝僧正がその麓に遍照寺を開いた際に池の方も掘削したのだという。しかし、池といっても庭園の池の範疇におさまるサイズではないので、この説は怪しいだろう。寺は早くに廃れたものの、我々がいる地点から南に少し下がった地点に再興され、創建時のものと考えられる十一面観音像と不動明王像が現存しているらしい。その辺のことはSさんの専門であるから事細かに教えてくれる。聞いているうちに拝観したくなってきたが(御朱印ももらえるだろうし)、もう五時を回っているのでそれはさすがに遠慮した。 

渺として広い池の周囲はただアシやオギが深く生い茂っている。我々がいる南側の道を車が激しく行き交っている他は、果たして道がめぐっているのかもわからない。学芸員氏は、池の東側には新興宗教の施設があって、池を一周することはできないはずだと教えてくれた。ただ、西側の池畔には道が北に伸びていて、池に突き出す形で祠らしきものが建っているのも見える。その周囲では何人かが釣糸を垂れている。空気は黄昏の気配を濃くしながらも、朝からの好天はそのままで、アシもオギもそよりとも動かない。水面は暗く、遍照寺山の下辺にもその翳りが及んでいるが、山の上半分には夕日が当たって赤く、黄色く、温かそうな色に染まっている。枯野を水面に置き換えさえすれば、これこそ〈遠山に日の当りたる枯野かな〉だよと思った。

追記
池畔にあった案内板には、〈現在は鯉などの養殖が行われており、年末に池の水を抜いて成長した鯉を収穫する「池ざらえ」は、京の冬の風物詩となっている〉との記述があった。今春に出た井上弘美さんの句集『夜須礼』に、〈嵯峨野鯉上げ 三句〉と前書きして載るのは、この「池ざらえ」の情景であろう。 

 底冷えの池底に組めり鯉生簀 
 寒鯉を摑みて素手のなまなまし 
 ざりがにの愛宕颪に乾びゆく