荒涼たる心象に直結しがちな「真葛原」に、いかにもモダニズム建築の無駄のない直線的明快さに富んだ「ガラスの部屋」が合わせられたところにすでに意外性がある。とはいうものの「ガラスの部屋」も大地の豊かさなどといったものから敢えて一線を画した人工性が持ち味。こちらもまた「真葛原」とは別の都市的荒涼と渇きを含むものであるかもしれない。
しかしそこにいるのが「ピアニスト」であるとされたとき、その紡ぎだす音楽は、「真葛原」と「ガラスの部屋」との緊張を思いもかけない形で止揚したものとなるはずである。「真葛原」的なおどろおどろしい内面をも数理的な秩序へと組織するものとして、音楽が洞察され、把握されているというべきか。
ここでの「ピアニスト」は一人の人間というよりもその機能や、あるいは鍵盤に触れる指、ペダルを踏む足ばかりが着目されているようで、さながら部屋の調度品のようでもある。
しかしながらそのことを人間性の剥奪といった殺伐たる方向に考える必要もなくて、むしろ人が「真葛原」的混沌を手放さないまま、それと隣接する形で、典雅な在り方ができるものなのだと提示しているとも考えられる。自意識に汚されることなく地上に暮らす人の姿の一ケースとして明るい「ガラスの部屋にピアニスト」はいる。
フレスコの罅こまやかに百千鳥 倉田明彦
美術品を詠む句は単なる讃嘆の態に終われば退屈なものとなることが少なからずあるのだが、この句は「罅こまやかに」の子細な吟味ぶりがそのまま絵画作品への冷静な没入ともいうべき矛盾的なありようをあらわしていて、清潔な粘着力をもってフレスコ画に心を染みとおらせてゆく。
フレスコ画に鳥たちの生気が添うとなればジョットの「小鳥に説教をするアッシジの聖フランチェスコ」の図がおのずと連想されるが、この句は鳥たちすらその説教に聞き入ってしまうフランチェスコの聖性を直に描き出そうとしているわけではないし、話をジョットの絵に限定する必要も特にない。
画面に見入るうちに、フレスコ画に筆触として残る画家の手仕事の痕跡、それによって描かれたイメージを透過するようにして、長い時間の経過をあらわすこまやかな罅が次第に視界を占めてゆき、目は無秩序な罅の海を漂流しはじめる。
その画材とイメージの間、人の営為と自然の物質との間に立ち騒ぐ名状しがたい生気こそが、ここで「百千鳥」と呼ばれている当のものなのだ。
街の灯や雪に降り積む雪の影 倉田明彦
街灯の明るみの及ぶなか、雪の上にさらに降り積もる雪が、あるいは逆光となり、あるいはすでに積もっている雪に影を落とす。およそ雪が降る地方の住人ならば誰もが目にしたことのある光景ではあるはずであり、句はそれこそ客観写生と呼ばれても何の不都合もない、ごく正確で無駄のない言葉から成っている。
にもかかわらず句にあふれる情感は、「街の灯」「雪」といった、それ自体が多分に郷愁をさそう語句が放っているもので、句はそうしたウェットな題材と、情に溺れぬ文体との相克の場としてある。
そして客観的に正確にその降り積もり方を描出された雪は、もっぱら「灯」と「影」の光のコントラストに還元されることにより、重く積みかさなるつつある実体でありながら、同時に幻想そのもののように儚いものとなる。豪雪地帯に住む者以外にとっての雪とは、実体にしてそのまま幻想なのだろう。
白の上に白を重ねてみせる清潔な美意識もそのままに、あっさりとその両義性を把握してみせたこの句は、いわば雪に対する本質直観のようなものであろうか。目の前に展開されつつある最中であっても、記憶の彼方の光景と見え、その光景はわれわれの郷愁の対象であるのと同時に、われわれの死後にも在る。
三句あわせて見ればどれも端正な、非情即有情の景か。