2023年10月18日水曜日

パイクのけむり XXXⅡ ~日々に未来を素描したとせよ~  高山れおな

八月は澤好摩についての原稿書きに終始し、九月は十八冊ある長谷川櫂の句集の読み直しにかかりきり(多くは再読、一部は初読または三読以上になる)、十月に入ると俳句どころではないといった調子で、なかなか新刊の句集が読めずにいる。それでも南十二国の『日々未来』を読んだのは、余りにも長谷川櫂漬けになった頭に少しは風を入れようと思ってのことで、実際、気分転換になった。いわゆる一服の清涼剤ですね。とはいえ、長谷川櫂の句に清涼感が欠けているというのではない。むしろ、大いにあるであろう。ただし、長谷川氏の場合は、清涼感自体をぎらぎらと追究するようなところがあるのに対し、南氏の方はもっと天然の清涼感で、この場合はそれがことさら徳に感じられた次第。

ひとしきり道濡らし春ゆきにけり
鏡みな現在映す日の盛
暖かし耳を模様と想ふとき
ロボットも博士を愛し春の草
集まつてだんだん蟻の力濃し
ででむしの腹ゆゆゆゆと動きけり
重機みな途中のかたち暮れかぬる
椋鳥の塊伸びてすすみけり
あをくなりやがてまつくら秋の暮
秋灯はばたくごとく点りけり
木犀や恋のはじめの丁寧語
ランナーズ・ハイはつふゆのあさひの香
木枯が闇にのたうちまはりゐる
警察官かちやかちや走り去る西日

終始一貫、肩に力が入ったところがなく、かと言ってゆるく崩れているわけでもなく、文字通り等身大の言葉がここにあるという印象を受けた。作者が自分以外のものになろうなどと全く思っていないという意味でも等身大だし、表現に過不足がないという意味でも等身大だ。表現に過不足がないと言ってもいろいろなケースがありそうだけれど、この句集の場合、言葉に裏表がないというか、意味しようとするところと書かれたところが常にぴったり一致している感じで、余情のようなものは乏しいかわりに、良い意味での素朴さの感触にじんわり胸を温められる。

この原稿を書いている十月十五日日曜日は新月にあたる。突然、月齢の話になったのは、中秋の名月(今年は九月二十九日だった)の前後から二十日月を過ぎたあとまで、毎晩、月を見ていたためだ。雪月花の中では、私は月派なのであるが、こんなに何日も続けて意識的に月を観察したことはなかった。しかし、それで立派な句が出来るかと言えば、なかなかそうは問屋が卸さないのは、過日、当ブログにアップ済みの作品でご覧の通りだ。

十月に入って全く休みが取れなかったが、今日は家にいて、あれこれ俳句関係のゲラを戻したりしたあと、数日前にいただいて気になっていた句集を読むことができた。清水伶『素描』で、これは素晴らしい本でした。 

天窓も死者ミサ曲も青あらし
ぼうたんの狐雨なら母の景
全身を水の螢の過ぎゆけり
霧を来て霧の感情見てしまう
春あかつき水の軀を放し飼い
にんげんと桜のあわい舟が着く
女郎花星の骨格しておりぬ
遠ければ去来の墓に秋の光(かげ)
約束の数を下さい冬の薔薇
冬満月裏側きっと象通る
狐火の大わがままを聞いてやる
緑夜なり孔雀啼くまではさすらい
てのひらに夏蝶灯す遠忌かな
冬銀河夜あるかぎり父の居て
オペラ座の奈落を覗く春の夢
白もくれん遠い乗換駅見ゆる
枇杷啜る水脈のごとくに指濡らし
麦秋の絹いちまいを風という
一滴の海のしずくの瑠璃蜥蜴
絨緞のばらの秘境を踏み外す
千年を鶴のかたちで湯冷めして
またたきの銀となるとき冬の鹿

一九四八年生まれ、「朝」「海程」同人を経て「遊牧」代表。キリスト者とのことで、「海程」でクリスチャンの女性というと真っ先に名があがるのは柚木紀子だろう。実際、影響は受けているのではないか。ただし、有季定型を遵守して破調もほとんどなく、柚木よりはずっとわかりやすい。もちろん、柚木だけがどうこうというのではなく、金子兜太などは直接的なフレーズの取り込みがあるし、阿部完市や攝津幸彦が登場する句も見られる。飯島晴子、柿本多映の影もちらつくようだ。しかし、読みながら私がしきりに思い出していたのは、じつは岡井省二なのだが。ちなみに、標題句の

鶏頭を素描にすれば荒野なり

における「荒野」は、あとがきを参照するに、キリスト教的な意味でのそれである、あるいはそれでもある、らしい。一方で、 

鶏頭に大笑面のありにけり

ともあって、「大笑面」は十一面観音の背面側についた暴悪大笑面のことであるから、仏教的なイメージに他ならない。京都や奈良のお寺を巡っての句が結構あり、美術については特にキリスト教にこだわっているわけではないのだろう。加えて、端的な写生の対象としての鶏頭ならばさておき、掲出二句のような求心的な詠み方をする場合に、正岡子規の鶏頭句が念頭にないはずはないから、これらは俳句的なるものないし俳句性について考えた俳句でもあるはずだ。作者はそこに荒野から大笑面までの振幅を見ている、そんな言い方もできようか。

掲出した句にあきらかなように、清水伶の俳句は等身大のよろしさなどとはおよそかけ離れたもので、発想の飛躍と感覚の奔放さをほしいままにしている。必ずしも映像性が強いわけではないものの、幻視の世界と言っていいのだろう。モティーフ的には、死後の永遠の生を意識した上での現在を、特に自己の身体や小動物を媒介に詠もうとしていると私は感じたがどうなのか。近年、妹君を癌で亡くしたとあとがきにはあり、ご両親もすでに亡いようだ(母君はやはり比較的最近、父君はだいぶ以前に帰天されたのではないかと思ったが、これはあくまでなんとなくの想像である)。〈天窓も死者ミサ曲も青あらし〉のような句から伝わってくるのは、死者の存在の近さで、それはその死者が第一義的には身近な肉親だからであろうけれど、やはり信仰もかかわっているはずだ。現世を詠むが、現世だけが問題だとは思っていない(ただし、俳諧者流の、お気楽な詠みのパターンに過ぎない、「次の世」がどうした的なものとは違う)、そのような思惟ないし感性が一句の核にありそうに思えるからだ。 

くちびるが攫われそうで椿山
くちびるに星の乾きて冬に入る
冬鷗ほどの微光をくちびるに
くちびるを岬と思う冬の雷

身体のうちでも特に目立つのがくちびるで、それはあきらかに世界との通路のようなものとして観念されている。くちびるによる一種の汎神論が展開されているようでもある。

夜の卓の前衛であり寒卵
前衛といい漂泊といい鳥雲に

あえて難を言えば、句柄に多少の既視感が拭いきれない点か。先述したいろいろな俳人の名前はそこにかかわるわけだが、要するにこの作者の句はあんまり今風ではないのである。前衛という言葉を静かに使ったこんな句もあって、表現の根差すところは、一九七〇年代から八〇年代あたりの、末期の前衛俳句と見てよさそうだ。まさにそれゆえにこそ、最近では、個人的に最も鼓舞されるような気分を味わえた句集であった。