2023年5月15日月曜日

パイクのけむり XXⅦ ~余子句集感想~  高山れおな

新潮社のPR誌「波」に「掌のうた」という見開きの連載コラムがあって、短歌の筆者が三枝昂之、俳句の方は小澤實である。これまであまり読んでいなかったが、最近、まじめに目を通すようになった。五月号は小杉余子の句を取り上げている。タイトル風に大きく掲げられているのは、 

菖蒲引て藺草の水を濁しけり

で、文中にはさらに以下の六句が引かれている。なお、二句目の「債メ」に小澤はルビを振って、「おいめ」と読ませている。

坐業の身およそいとひぬ二日灸
小さく住んで債メありけり蚕飼ふ
纜の濡れて陽炎ふ重さかな
海苔船のありとは見えでありにけり
山表焼く山裏の木の芽かな
送らるゝ虫を泣くなり山の虫

いずれも大正一〇年(一九二一)刊行の『余子句集』に所載とある。時代色も含めてどの句も面白いのと、「ホトトギス」ではなく「渋柿」の俳人というところに興味が湧いて句集そのものを読んでみたいと思った。調べると国会図書館でインターネット公開もされていたが、ネット古書店に手頃な価格で出ていたので取り寄せると、文庫サイズの小ぶりな本である。ただし、一頁に最大十句入っていて百七十頁以上あるので、句数はかなり多い。四季別に編集し、季語をいちいち見出しに立てた古風な体裁。こうした場合、季語を級下げして句の上に置くのが普通のところ、季語の末尾の一字と句の一字目が同じ高さに揃えてあるのが変わっている。つまり季語と句が互い違いになっているのだ。興に入った句を少し引く。 

元日になる乾鮭や山の宿
農具部屋けさ閉ぢてある初日哉
織初も同じ糸なる五百重かな
廻礼の本両替に諸藩かな

以上、新年。四句目は、越後屋のような両替商の大店へ、諸藩の江戸詰の侍が年始に行く場面。近世の正月の様子を想像して詠んでいるわけだ。ちなみに、余子は銀行員だったので、ひとつ前の時代であればと、我が身の上に興を働かせている部分もあろう。

庖丁に三月の芹応へけり
春惜む女ばかりや聚楽御所
行春や焚いてしまゐしつぶれ垣
糸買は軒端伝ひや春の雨
山影をかぶる草家の雪解かな

聚楽御所の句もやはり詠史の想像句で、この種の作が他にもまだまだある。明治・大正の俳句に目立つ要素の一つだろう。

糸買の句もこの時代の俳句ならではのもの。小澤が引いた中にも「蚕飼ふ」云々とあったが、養蚕業は絹製品の最大の市場であったアメリカとの戦争によって壊滅的な打撃を受けることになる。現在でも養蚕関係の季語で句を作ることはあるが、仮にほそぼそと養蚕を続けている現場に取材した場合でも、社会的背景が失われてしまっている点はどうしようもない。

山影の句は典型の域に入った名吟だろう。向井潤吉の絵のようだとも言えるが。

広重の矢立沸きけり雲の峯
徴兵検査ある日のさまの小駅かな
うたかたや菖蒲漂ふ引きあまし
山の根を焦がして更くる鵜舟かな
羅や珠数をかけたる袖の内

一句目は、スケッチ旅行する歌川広重の矢立の墨が、あまりの暑さに煮えてしまったというのだ。広重の句は他にもあり、余子の好尚をうかがわせる。

二句目は、本籍地の部隊で行う徴兵検査のため、各地からそれらしい壮丁が集まってきた様子を詠んでいる。いつもは乗降の人も少ない田舎の小駅に、目立つほど若者たちが降り立ったという場面。アナクロな人が多い俳句の世界でも、昨今、徴兵検査で作っている例はさすがに見たことがない。『ホトトギス雑詠選集 夏の部』には五月の句として、〈肥料焼け徴兵検査合格す〉という昭和一二年(一九三七)の句が見えるが(作者は佐藤暁華)、「肥料焼け」がよくわからない。肥料小屋が火事で焼けたということ? 余子の句の方が、ともかく情景の想像がつくという点では勝っていよう。

三句目のうたかたの句は、小澤のコラムで取り上げられていた〈菖蒲引いて藺草の水を濁しけり〉と共に、「菖蒲葺」の項に並んでいる。同じ時の作かも知れない。

けさ秋やあかしのもとの経一巻
染物につゞく日和や天の川
鵙なくや空間ばかりに湖の宿
荷をつける馬の列飛ぶとんぼかな
鬼灯を打つ雨土を飛ばしけり

けさ秋の句は、余子自身や親の姿などとしてあり得ないわけではないものの、やはり詠史の想像句ではないか。建礼門院や兼好法師のような人物の面影と見たい。

染物の句、鵙の句、とんぼの句は、いずれも空間性の表出にすぐれる。特に、とんぼの句は傑作かと思う。明治後半から大正初年にかけては、まだこういう光景が残っていたわけだ。

雪積む夜梁染むる爐の火かな
土間の鶏に風吹き添へば粉雪かな
城の崎の温泉によそなれや神の旅
書を読みて詩の糞ひるや冬籠
火事の火の中に黄に湧く火の子かな

雪積む夜、土間の鶏、火事の火。いずれも、精度の高い描写力が光る。

三句目は、東京から見て出雲へ行く途中に城崎温泉があることを想起しつつ、神々は温泉になど目もくれず旅路を急いでいることだろうと思いを遣っている。この作者には珍しいユーモアがある。

四句目。用語は汚いようだけれど、意外や自嘲めいたニュアンスは帯びない。卑下するでもなく、自分に酔うのでもなく、あくまで客観的な自恃を感じる。

ここのところは他に、星野石雀『薔薇館』を購入再読し、星野麦人『草笛』の到着を待ち、篠崎霞山『霞山集』をプリントアウトして目の前に積んでいるような案配。近刊の句集では千葉皓史の『家族』を読んだが、気分的に現代の句集は遠く、五十年、百年前の句集は近く感じられる。気分の問題だから、この倒錯に特に理由はないと思うが、もしかするとあるのだろうか。