2023年1月11日水曜日

パイクのけむり XXⅣ ~誤植のお知らせ、以下、年末年始読書日記~ 高山れおな

誤植のお知らせ
拙著『尾崎紅葉の百句』(ふらんす堂)は、1月5日頃、店頭に並んだらしい。らしいというのは、丸善丸の内本店に6日に取置き本を買いに行った時に俳句書売場を覗いたところ、見当たらなかったからだ。しかし、アマゾンではこの日から売っているので、きっと本屋でもあるところにはあるのだろう。

当方に見本が届いたのは年内12月27日で、早速パラパラとやったら瞬息で誤植を発見してしまった。誤りがあったのは、p83の1行目から2行目にかけて。

✕ シュウロ 
〇 シュロウ

でありますので、もしかお手元に本をお持ちの場合は、赤字をお入れくださいましたら幸いです。。。

年末年始読書日記 
その① ジョン・ケネディ・トゥール『愚か者同盟』 木原善彦訳 国書刊行会 
1960年代のニューオーリンズを舞台にしたコメディ、というかブラックコメディ。登場人物のほぼ全員気が狂っている感じで、たいへん笑える。「幽門」という知りたくもない言葉を覚えさせられた(小説の中に千回くらい出てくる)。原著は1980年の刊行で、翌年にピューリッツアー賞を受賞している。 
 
その② 川上眉山「観音岩」 
『明治文學全集20 川上眉山 巌谷小波集』(筑摩書房)で読んだ。原著は明治40年(1907)の刊行。友人がやっている雑誌の連載で眉山の俳句を取り上げるにあたり、代表的長編ということで目を通したのだが、残念ながら読むに堪えない。ざっくり要約すると、静岡県東部の農村を舞台に、村刎(むらはね)つまり村八分にあった新興地主の一家の苦闘と勝利を描いた小説、ということになるのか。村刎というテーマはたいへん興味深い一方、ストーリー展開の強引さと通俗さにげんなりするし、登場人物にそろいもそろって魅力がない。本書にやや遅れる明治43年、長塚節が東京朝日新聞に「土」を連載しているが、同じ農村小説とは言いながら、ストーリーらしいストーリーもない「土」の方がはるかに面白いとはどうしたことか。

河野多恵子が、尾崎紅葉は近代日本の小説家で初めて登場人物に「性格」を与えることに成功したと言っていて、これは坪内逍遥の人物が「気質」によって描かれているのと対照しての評価なのだが、「観音岩」は紅葉没後に書かれているにもかかわらず、人物造形の原理が「気質」まで後退してしまっている。これに対して「土」の主要人物ははっきり「性格」を持っているのだから、勝負は自ずから明らかということだろう。眉山の小説は他に「書記官」と「店暖簾」くらいしか読んでいないが、これらもまったく感心せず。じつは、俳句については、眉山の方が紅葉より資質において勝っている節もあるのだけれど、しかし、早々にやめてしまっているのだよね。 
 
その③ 四方田犬彦『パゾリーニ』 作品社 
イタリアの詩人・小説家・映画監督のピエル・パオロ・パゾリーニの評伝。恥ずかしながらパゾリーニの映画は1本も見たことがないが、個々の作品のディスクリプションが詳しいお蔭で、そんな映画的野蛮人にも通読が可能になっている。詩の方は、四方田氏自身が『パゾリーニ詩集』(みすず書房)の編訳者であるから、ふんだんにさわりを引用してある。何しろ二段組で千ページ以上あり、12月の始めから1月2日までずっとこの本を読んでいた。パゾリーニは1922年生の1975年没であり、1925年生で1970年没の三島由紀夫と、生きた時代が完全に重なる。三島が自衛隊に突入して自決したのに対して、パゾリーニは深夜の貧民街で惨殺されており、何らかの政治的な背景があったようだ。右翼と左翼という点では対照的だが、時代性や本人たちの資質にはさまざまな共通点もあって、四方田氏も文中に何度も三島の名を召喚している。 
 
その④ 安井浩司『天獄書』 金魚屋プレス日本版
本書について、夏石番矢がブログでなかなか手厳しいことを書いている。

全651句を何度か読んでみたが、ものものしいタイトルに反して、手ごたえのある俳句は一句もなかった。かつて、私は安井浩司を尊敬していたが、安井が多作になり、無理な造語にふけり、一句の磨き上げをしなくなってから、疎遠になった。この第18句集も、中途半端な句が大半。


このおっさんは大学教授のクセに、〈君子は交わり絶ゆとも悪声を出さず〉という格言も知らんのかね、とは思いましたよ。この場合は、交わりが絶えただけではなく、相手は死人に口無し、なのだし。ではあるのだが、批判の内容は、事実無根、見当はずれ、というわけではない。

私自身は、2003年刊行の『句篇』に深く感動したものの、『山毛欅林と創造』、『空なる芭蕉』、『宇宙開』、『烏律律』と、その後も収録千句以上の句集が刊行され続けることに対して、だんだん疑問を感じるようになった。疑問というのは、これはもはや普通に俳句を読むようには読めないではないかということだ。そして今回の『天獄書』を読んで思ったのは、安井浩司的〈凡句〉の氾濫ということだ。 

高浜虚子の句集に載っている句の大半は平凡だが、平凡なりに一定の水準と快適さがあって、大量に読まされても必ずしも苦痛ではない。それは虚子の句が、ある時代の文化のエッセンスのようなものになりおおせているからであって、普通の俳人の平凡な句集を読まされるのとはわけが違うのだ。安井の句は、一見、虚子的な平明な行き方とは遠いようだけれど、じつはある段階からは同様に、心地よい凡句の垂れ流しのようなものになっているのではないか、そんなふうに感じたのである。

もちろんこの場合は、虚子の句のような日本近代のさらにある一時期の文化のエッセンスというようなあり方ではなく、安井による虚構世界の土壌から無限に湧出する澱みたいなものとして句が並ぶということになる。湧出源としての土壌を創り上げてしまったとしたら、それはとにかく大変な力業として間違いないが、読者としてはその澱の方を問題にすべきなのだろうか、それとも土壌をこそ対象とすべきなのだろうか。とにかく、安井の句は今や読み方からして改めて発明しないと、どうにも手がつけられないような状態になっていることは確かだろう。

その⑤ 西池冬扇『臼田亞浪の百句』 ふらんす堂
臼田亞浪の名前を知ったのは、中西夕紀の〈山見ゆるうちは山見て亞浪の忌〉という句を、何かの俳句雑誌で目にした時だ。座談会みたいなところで言及されていたように記憶するから、あるいは「俳句」の合評鼎談だろうか。初学の頃は、忌日俳句が好きというか、わかりやすく感じられたので、この句などもすっと記憶した。亞浪の句はまだ読んでいなかったながらに、「山見ゆるうちは山見て」という感じの人なんだろうと思ったわけである。

その後、「現代俳句大系」(角川書店)で『定本亞浪句集』を読んだ時、なんとも淡々(あわあわ)としてとりとめもない俳句だなと思ったものだが、西池冬扇『臼田亞浪の百句』を読むに、そんな感想も特に的外れではなかったらしいことがわかって安心した。ちなみに西池氏は高井北杜という人の弟子で、亞浪から見ると孫弟子にあたる。

西池は、亞浪の俳句は、〈寂しさ、冷たさを基調とする〉とした上で、リフレインを多用し、造語癖があり、時間で言えば暮方の詩人、色彩感は比較的とぼしいといったような特徴を、鑑賞文に織り交ぜながら丹念に説明してゆく。鬼貫に影響を受けて「まこと」の説を唱えたが、亞浪の精神主義は直弟子たちにもあまり受入れられなかったらしい。西池自身も、そこには距離を置いている。作風も地味で、理念的にはやや空念仏めいたところもあるのに、結社運営の面ではかなりの成功を収めた理由を知りたいと思ったが、そのあたりのことは本書の役目ではないだろう。文体的な部分への言及では、〈牡丹見てをり天日のくらくなる〉という句の鑑賞で、以下のようにあるのに注目した。

この句のような俳句文体は通常の二句一章とはことなり二つのモチーフを並べあわせた継接法とでも呼ぶような文体である。たんなる中切れの句でないのは二つの句の関係が牡丹と天空の光の昏さのカットバックのような効果を発揮しているところにある。

牡丹の句の次に取り上げられているのは、〈電線泣いてゐる青菜漬け込まれ〉で、両句は共に昭和7年(1932)の作。電線の句の鑑賞で西池は、〈亞浪の句はこの時期に少しく変化する〉と断った上で以下のように続ける。

この句も前掲句と同じく文体としては等価の二つの句を繋ぎ合わせた継接法とでも呼ぶべき俳句表現法である。上の句は9文字、下の句は8文字である。それまでは中切れということで忌避された表現法である。

中切れという用語は知らなかったので興味深く感じた。それから、西池は特にふれていないが、この文体は自由律に近いのではないかとも感じた。昭和7年というと新興俳句の勃興期に当たる一方で、種田山頭火が盛んに行脚を続けている頃であり、自由律俳句の最盛期でもある(尾崎放哉はすでに故人ながら、荻原井泉水の編集により放哉句集『大空』が刊行されたのは昭和8年)。実際、山頭火には次のような句がある。

いちじくの葉かげあるおべんたうを持つてゐる
焚くだけの枯木はひろへた山が晴れてゐる
寝ざめ雪ふる、さびしがるではないが


亞浪にしろ山頭火にしろ、こうした構成の句が多数を占めるわけではないとはいえ、なんとなく類縁性を感じる。そもそも亞浪が「石楠」を起こすにあたっては大須賀乙字の力添えがあったのであり、亞浪には新傾向の流れとの接点がある。もちろん、亞浪自身は有季定型の立場ながら、その「まこと」の説にしても井泉水の自然主義と案外遠くないのではないか。生命主義のような、分野を超えた大正期の時代思潮のようなところに、ともども根を持っているという面もあろう。以上は本書を読みながらの思いつきで、今は実証的に何かを述べる用意はないけれど、そんなに見当違いではないような気もする。というか、こんなことはきっと誰かがとっくに言っているに違いない。

その⑥ 池田澄子『三橋敏雄の百句』 ふらんす堂
半ば忘れられたようになっている亞浪とは違って、没後も人気のある作家を、直弟子である現存の人気作家が読むかたちになっているから、賑やかなことおびただしい。こちらが筆者をよく知っているものだから、自ずと本人の声が頭の中に聞こえてきて、余計に賑やかになっているということもあるだろう。

旧作についての作者からの口伝や、作品が生まれた現場の報告は、20年近く身近で教えを受けることができた人ならではのアドヴァンテージであり、読む側にとってはいずれも貴重な情報ということになる。それは本書の大きな価値だが、しかし、それを差っ引いても文章がたいへん巧いのに感心する。たとえば、〈少年ありピカソの青のなかに病む〉の鑑賞文では、冒頭に〈一句の背景の説明は要らないだろう〉と振ってから、

ピカソの「青の時代」は、説明が要らないほど知られていることで、ピカソが親友の自殺をきっかけに、多くの貧困ゆえの苦悩を青く描いた一九〇一年から三年間ほどの作。
と続く。説明は要らないだろうと言ってから説明するくらいなら、ストレートに「青の時代」の説明に入ってもいいのだが、このひと呼吸の迂回と、〈説明が要らないほど知られていることで〉という駄目押しによって、読者はじつは知らなかったことを最初から知っていたような気にさせられる。その上で読者は、改めて俳句と直接対峙することになる仕組みだ。こうした流れに乗ればこそ、

昭和四年以来の世界恐慌の煽りを多分に受けていた絹の町・八王子の暮らしの中での、少年・敏雄の哀しみが、それとなく重ねられた「少年あり」なのだと感じる。

という、作者の個人的な状況がわずかワンセンテンスのうちに陰翳豊かに立ち上がり、さらに以下に続く、作品の本質的な価値の提示に説得力が生まれることになる。

我と言わず我をも描き、我は敏雄個人ではなく世界中の「我」。それ故に結果として感傷から離れ、美しくモダンでさえある。人間の持つ愁いを単純には嘆かずに、滑らかな言葉のこなれによって描いた。

これでピカソの句の鑑賞文の全体なのだが、ほとほと間然するところがない。こういう巧妙な説明的鑑賞の一方で、師の主張と自分の主張を重ねて打ち出すことにも躊躇はない。たとえば、〈待遠しき俳句は我や四季の国〉の鑑賞なんかがそうである。

敏雄と俳句は、こういう間柄であった。最低限失敗はしない俳句の作り方というものがある。先達の残した安全圏、しかし先達のそれは、その時点では安全圏にあったとは限らない。安全圏とみなされた範囲での作り方をしていれば顰蹙を買うこともなくラクで愉しいのに。

なかなか挑発的な書きぶりで、鼓舞される人もあるだろうがムカつく人もあるだろう。最後は、〈今私は、額装の、この句の色紙を正面上にしてパソコンを打っている〉で締めて、師の思いは自分の思いでもあることがはっきりと示される。

そういうわけで、全体として素晴らしい出来栄えなのだが、もちろん疑問を感じる部分もある。〈箸置や危かり憲法第九条〉の鑑賞なんかがそうだ。

 憲法第九条は知っての通り、「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」。その第九条が「危かり」である。よく「九条を護れ」と詠まれるが、言葉での表現行為として「九条」では不完全。俳句の言葉の少なさは、そのことを可としたくなるけれど、敏雄はそこで諦めない。ラクをしない。あくまでも「憲法第九条」である。

以下、揚げ足をとらせていただくが、「九条」と書いても「憲法第九条」と書いても不完全なのはじつは同じである。憲法はどこの国にでもあるし、日本に限っても「日本国憲法」と「大日本帝國憲法」の二つある。当たり前だが、後者の第九条は戦争放棄ではなく、天皇の命令発令権の規定になっている。池田が、〈よく「九条を護れ」と詠まれるが〉と言っている例として、さいたま市のある公民館(じつは三橋公民館というのだが)が公民館だよりに掲載することを拒否して訴訟にもなった、〈梅雨空に「九条守れ」の女性デモ〉を仮に挙げておくが、三橋の「危かり憲法第九条」という不完全な表現も、このアマチュアの女性作者(当時73歳)の「九条守れ」という不完全な表現も、日本国憲法第九条を指しているものとしてあやまたず了解されるのは、そりゃ文脈の力でございます。

日本ではすでに70年来(掲句の制作時点では50年来くらい)、憲法改正が政治の焦点のひとつであり続け、そのいちばん核にあるのが第九条なので、「九条」とあるだけで(京都の地名や高貴なお公家さんのご苗字、つまりクジョウでない限りは)自動的に「日本国憲法」の第九条を指すのがコンセンサスになっている。だから箸置の句も、梅雨空の句も、意味の了解性の点では全く優劣はない。いや、さらに揚げ足をとらせてもらうと、むしろ梅雨空の句の方が、言葉の正確性という意味では勝っているのではないかと思われる。というのは、この女性は、安部政権の集団的自衛権容認に反対するデモに実際に参加して句を詠んだのだが、そのデモではプラカードに「九条守れ」と書いてあったり、シュプレヒコールで「九条守れ」と叫んだりしたのではないだろうか。この言葉は、句の中でカギ括弧で括られて使われており、それが引用であることが明示されている。つまり、作者は正確に現場を描写している可能性があるので、であれば池田が言う「不完全」にはいよいよ当たらないことになるだろう。

私はむしろ、三橋は正確に「日本国憲法第九条」とすること、また単に「九条」とすることをともども避けたいがために、「憲法第九条」という中途半端な言い方をあえてしたのではないかと思う。実際、掲句を〈箸置や危かり日本国憲法第九条〉としても、「箸置や」「危かり」「日本国憲法第九条」という形で明確な三句体をなすため、字数的には大きな破調であるにもかかわらず、韻律的な収まりにはさほど無理がない。池田が言う意味での「完全/不完全」が問題なのであれば、三橋は是非そうすべきだったのである。しかし、そうしなかったのは、三橋としてはこの場合、じつは完全さをこそ避けたかったし、強く符牒化してしまっている「九条」という言い方ももとより避けたかった、ということではないのか。避けたかった理由としては含羞というような理由も考えられるが、これ以上この話題を詰めるためには、掲句だけを問題にしていても埒があかないだろう。よって今回はこれくらいにしておく。

もうひとつ、これは端的に誤りと考えられるのは、〈大正九年以来われ在り雲に鳥〉の解釈だ。池田は、三橋が〈大正九年(一九二〇)十一月八日、八王子市に生まれた〉ことを確認した上で、以下のように続ける。

誕生という事実、その認識に続くのは「雲に鳥」。歳時記の副題にこの言葉は無い。『角川俳句大歳時記』の「鳥雲に」の例句五十数句の中「雲に鳥」は、敏雄と、敏雄と親交の深かった宗田安正の二句のみだった。

「雲に鳥」とは鳥が北方へ帰っていくこと。ならばこの世に生まれた我が、未生以前、もっと言えば父母未生以前へ帰っていくこと、老いること、いつか死に消えることの前提がある。


要するに池田は、この句の「雲に鳥」を季語「鳥雲に入る」「鳥雲に」を破格な形で使ったものと解しているのだが、これは芭蕉の〈此秋は何で年よる雲に鳥〉の本歌取りであり、「雲に鳥」はそこから来ている。つまり季語ではない。角川の歳時記がある誤解のもとで掲句を「鳥雲に入る」の例句に採ってしまい、池田はそれを見て引きずられたのだろう。三橋の誕生日の11月8日といえば冬の始めも始め、年によっては立冬の当日である。まさに「此秋」が終わって冬が始まる時に当って、俺もまたひとつ年を取ったかと、芭蕉の句を念頭に置きながら感慨に耽っているというのが句の枠組であろう。通常の有季定型句集であれば、こういう場合、配列を見れば季節の判断がつくのだが、『畳の上』ではどうなっているか。掲句の前後の並びは、

銀座銀河銀河銀座東京廃墟
大正九年以来われ在り雲に鳥
亀も蚯蚓も泣くと云爾
(しかいふ)国いかに

であり、みごとに紛らかしてある。だが、「銀河銀座」が秋、「亀も蚯蚓も」が春と秋の季語を入れながらの無季であることからすると、この配列は紛らかしつつの仄めかしではないだろうか。つまり、「大正九年以来われ在り」はつぶさに言えば「大正九年十一月八日以来われ在り」なのであり、秋→無季(じつは冬)→無季(じつは春[かつ秋])という季節の流れが見え隠れになっているのである。

そういうわけで、〈「雲に鳥」とは鳥が北方へ帰っていくこと〉ではないけれど、それに続く部分、〈この世に生まれた我が、未生以前、もっと言えば父母未生以前へ帰っていくこと、老いること、いつか死に消えること〉という記述は、三橋の句にも、さらに芭蕉の句にも含意される気分に迫った、すぐれて深い読みだろう。渡り鳥かどうかにかかわらず、鳥が高く雲に舞う姿が誘う感慨としてそれはごく自然なもの。しかし、それをこんなふうに言語化することは、もちろん誰にでも出来るわざではない。