「翻車魚」6号拙稿訂正
「翻車魚」6号に対して何人かの方々からお葉書やメールでご挨拶をいただいたが、復本一郎先生からは〈「紅さいて」は、「紅さして」の音便ですよ。紅差す。〉との御指摘を頂戴した。復本さんは「呵呵」と笑っておられたが、こちらは「ガーン」である。
これは同号に載せた「『尾崎紅葉の百句』補遺」という拙文への御批正である。紅葉が新婚の弟子・小栗風葉に与えた〈あなにえや紅さいて口あけの春〉という句について鑑賞したのだが、当方はそこで、
〈紅さいて〉は〈紅咲いて〉で、若い花嫁の紅顔の美を讃えるのが第一義には違いない。しかし、〈さいて〉は「裂いて・割いて」も含意しているはずで、〈口あけの春〉は口紅を塗った唇の動きのクローズアップにもなっていると思わざるを得ない。
というふうに解し、〈艶めかしく受取れば受取れる〉云々と書いてしまったのだ。しかし、「あなにえや紅差して口あけの春」を「紅さいて」と表記したということであれば、艶めかしいとかなんとかはお角違いで、化粧をする新妻の様子をごく晴朗に詠んでいることになろう。『尾崎紅葉の百句』本体にも、どんな誤りがあるやら冷汗ものであるが、ご一読の上、お気づきのことあらばご指摘くだされば幸い。書店には、年明け一月五日頃から並ぶようである。以下、最近読んだ句集の感想を簡単に記す。
小田島渚『羽化の街』 現代俳句協会 2022.10.23
ひとことで言うとぶんぶん丸というのか。やたらめったら言葉のバットを強振する感じ。その多くが空振りのように思ったが、次のような句には魅力を感じた。
芋虫に咆哮といふ姿あり
臨月のごとき砂丘や秋の蝶
やがて鳥の心臓が生む冬銀河
目覚ましく育つわたしと青黴は
金魚の目光るプリンを食べるとき
冬の森われを異物のやうに吐く
どこをどう辿りてもつく死や朧
子猫から子猫分裂したやうな
日本語しか話せず海市さまよへり
白南風や軋む音して羽化の街
〈やがて鳥の心臓が生む冬銀河〉は、高野ムツオが帯の十句選に入れているが、実際、たいへん高野ムツオ風の句ではある(作者は「小熊座」の所属)。一方、プリンを食べようとしたら金魚の目がふと光ったように見えたなどという句は高野にはありそうもなく、この作者独自のフットワークが感じられていいのではないだろうか。日本語しか話せず・・・の情けなさには大いに共感。しかしながら、〈春雨や大仏のなかがらんどう〉とか〈白鳥は悲恋を咽に詰まらせて〉とか、単なる空振りともしておけないような悪凡句がかなり目ざわりで、全体の印象を混濁したものにしてしまっている。〈つちふる街消しゴム積むる遊びかな〉なんていう句もあるが、「積む」はマ行四段活用だから「積むる」という活用はない。「積む」の命令形+完了の助動詞「り」の連体形で「積める」とするか、「消しゴム」のあとに「を」を補って「消しゴムを積む」とするかだろう。まあ、単なる「積める」の誤植かもしれないが。
恩田侑布子『はだかむし』 KADOKAWA 2022.11.7
この著者もバット強振系の作り手だが、小田島氏と違ってベテランで俳句的教養が分厚くあり、その限りで空振りは少ない。しかし、それが良いことばかりでもないとも思う。型通りの解決をつけているなと感じる句も少なくなく、それをテンションの高さというか、この作者ならではの情熱で押し切っている印象。終始、既視感につきまとわれる感じがあり、読んでいてそんなに楽しくはなかった。ひかれたのは次のような句。
毛氈の緋の底なしやひゝなの夜
春愁やはんこのやうな象の足
足もとのどこも斜めよ野に遊ぶ
草摘むやひと待つごとき地平線
振りむく子片手抱きして夏めけり
須佐之男のすねげは自毛里神楽
青苔にはづむや盲蜘蛛の恋
便箋のふちは螢にまかせやる
最後の二句は、雑誌の初出で見た際にも良いと思ったが、句集の中で読んでもことによろしいようだ。青苔の句は、「現代俳句」で神野紗希が名鑑賞をしていたと記憶する。
小山玄紀『ぼうぶら』 ふらんす堂 2022.11.19
ずっと『ぼうふら』だと思って読み続け、後半に入ったあたりで、
一人一個ぼうぶら持つて前進す
という句に出会って、ああ『ぼうぶら』だったかと気づく始末。熊本弁でカボチャのことらしい。竹岡一郎の『けものの苗』以来の空目タイトル句集だろう。一句目が、
鎌倉や歌声のする穴一つ
で、んっ?となって、三句目には、
絶えず鏡へ流込む谷の噂
などというのもあって(まさか谷雄介の噂ではないと思うが、どことなく谷雄介っぽい句ではある)、期待が高まる。なんだかわけがわからない句も多いが、そういうのを含めて、全体として面白かった。
大丈夫ここも鶯のこゑがする
さみだれの森の一番奥の顔
顔の中から新しき蔓と汗
竜胆色の切符かざしてゆく人人
西へ顔動かしてゆく桜かな
喇叭吹く方に浮巣のありにけり
白シャツ著て神の勉強捗りぬ
秋の瀧撮らむとすれば誰か泣く
小春日を壺の方角へとあゆむ
桃色のピアノの内の豪雨かな
歌声は霞うごかすこともなく
避暑の姉妹それぞれにある鹿のイメージ
父母に真赤な廊下続きをり
この句集の成功している句は、しばしば良い意味で気持ちが悪い。〈歌声は霞うごかすこともなく〉なんかもデリケートな、あるいはフラジャイルな気持ち悪さがあって、冨田拓也の〈天の川ここには何もなかりけり〉に匹敵する名句だと思う。
斉藤志歩『水と茶』 左右社 2022.11.25
巻頭が、
水と茶を選べて水の漱石忌
これはキレッキレで素晴らしいと思ったのだが、読み終わってみると、私にとっては出オチ感の強い句集ということになってしまった。
贈られてすぐにかぶるや冬帽子
間奏を揺れてゐる歌手手にミモザ
東風吹くや鞄を出づる犬のかほ
紙コップ多き祭の本部かな
紙の皿ふやけてきたり芋煮会
秋や手に文鳥の来てすこしにぎる
帯文(=解説の一部を引いたもの)で岸本尚毅が、〈とにかく、作者が楽しそうであり、俳句を通じて人生を面白そうに眺めている。〉と言っているが、読者自身に生活の細部を愛する態度が無くては、この句集は十分には楽しめないのではないかと思った。私などはどちらかと言えば陰気で観念的な人間で、生活の細部が楽しいというタイプではないので手が合わないということなのだろう。たとえばここに挙げた六句などに好感は持ったけれど、どうも満腹はしない。ただ、巻末の方にある
冬服やくちびる開いて歯の見ゆる
は、平凡かもしれないが、「冬服」の慎ましさがなんだかよくて、漱石忌の句と同じくらい好きである。