2022年4月15日金曜日

パイクのけむりⅩⅥ~ウェルテルは何回泣いたか~  高山れおな

今年の十月に、『尾崎紅葉の百句』という本を出す予定だ。ふらんす堂の新書版の『○○の百句』シリーズの一冊である。これまでは特にシリーズ名も無かったようだが、今年二月刊行の『長谷川素逝の百句』か、その一つ前の『沢木欣一の百句』から、「名人百句シリーズ」という名前ができたらしい。

前回の本欄で書いたように、百句鑑賞の原稿は三月二十日に書き上げた。まだ、巻末に収録する作家論が手つかずながら、その前にガス抜きとして本稿を書こうと考えた。というのも、紅葉の俳句について書くために多少は資料を読むわけだが、イラッとすることが多いのです。たとえば二〇二〇年に翰林書房から出た『尾崎紅葉事典』。内容は書名の通りで、作品編・人名編・事項編などの部立てのもと、紅葉にかかわる百般を記している。いや、たいへんお世話になりました。しかし、解説編の「紅葉の俳句」の項はどうだろうか。これも、いろいろためになる情報がよく整理されて掲出されているには違いない。ただ、筆者の上田正行は、金沢の徳田秋声記念館の館長を務める人で、つまり小説が専門の近代文学研究者である。夏目漱石がらみの論文が多く、泉鏡花を論じる文章もある。鏡花・秋声は紅葉の弟子だから、紅葉についても相応に詳しいのであろう。しかし、上記解説を読む限り、上田氏が俳句への、まして紅葉の俳句への愛をお持ちである印象は受けない。それかあらぬか、研究者にしては詰めの甘い記述も見られる。紅葉の句作がいつ始まったかをめぐって、上田は次のように記す。

ところが、最も早いものとしては星野麦人編『紅葉書翰抄』(博文館、明治三九年一月)に見られる「月の前通るも見たし杜宇」(明治一九年六月一二日付篠崎霞山宛)であることを、村山古郷が『明治大正俳句史話』(角川書店、昭和五七[一九八二]年四月)で指摘している。明治一八、九年頃から句作を始めていたことが知られる。 

しかし、これは誤りで、管見では明治十七年(一八八四)の俳句が伝わっている。岡保生の『日本の作家41 明治文壇の雄 尾崎紅葉』(新典社 一九八四年)にこうある。

明治十七年当時、『膝栗毛』が紅葉無二の愛読書であったことは美妙のいうとおりだが、紅葉の興味が前記のように江戸後期の文学全般にまで拡大されつつあったことは、勝本清一郎氏が紹介した人情本、二世梅暮里谷峨(うめぼりこくが)の『春色連理楳(しゅんしょくれんりのうめ)』の筆写本五冊が伝存しているのを見てもわかる。この筆写本の奥書には「半可通人」の署名で、

   汗落ちて墨色にじむ夏書(ゲガキ)かな
     明治十七年八月廿二日於柳翠花紅亭 
とある、という。 

岡保生の本は、紅葉の評伝として最も基本的なもので、そこにこうはっきり書いてあるものを、村山古郷が云々という話になってしまうのはいささか杜撰。だいたい、岡にしてからが、これが紅葉の現存する最も早い俳句であることに注意を向けていない。岡も小説の研究者だから、やはりそこは素通りしてしまうのである。それにしても、上田がこの記述を見落としていたのはたまたまだとして、これは彼個人の本ではなく、編集委員が何人も(正確には五人)いる“事典”なのである。全員が紅葉周辺の研究者であるはずの彼らの誰一人として岡の記述を気にしていなかったのだとすれば、俳人たる当方としてはいささか憮然たらざるを得ない。なお、紅葉は、慶応三年(一八六七)十二月十六日生まれなので、上の句は満では十六歳の時の作ということになる。

それでは村山古郷はどうか。古郷には当方ももちろん、さまざまな学恩を受けている。『明治大正俳句史話』で、紅葉の最初の句を明治十九年のものとしたのは誤りであるにせよ、岡の本は同書の二年後、一九八四年の刊行だから、その情報を利用できなかったのは是非もない。利用できなかったといえば、古郷は一九八六年に亡くなっており、一九九三年から九五年にかけて刊行された『紅葉全集』(十二巻+別巻 岩波書店)を見ていない。この全集の第九巻は、紅葉の俳句資料を網羅的に集めた画期的な労作で、しかし、それが充分には活用されていないというのが現況なのである。 

古郷は、『日本近代文学大系56 近代俳句集』(角川書店 一九七四年)の「文人俳句」の章で紅葉の句を抄出するにあたり、星野麦人編『紅葉句帳』(文禄堂書店 明治四十年)を底本とし、久保田柳葉編『紅葉句集』(俳画堂 大正七年)を退けているが、それが必ずしも当を得ているわけでもないことは、全集第九巻を見るとすぐわかる。古郷は、紅葉の死去の翌年に出た瀬川疎山編『紅葉山人俳句集』(帝都社 明治三十七年)を、〈遺漏、誤りもすくなくない〉と批判しつつ、『紅葉句集』についても、〈みだりに用字を改めたところもあり、いささか信を置きがたい〉としている。『紅葉句帳』を採ったのは、結局、編者の星野麦人が紅葉の俳句における直門であることが理由のようだ(久保田柳葉は紅葉俳句の一ファンで、紅葉晩年の趣味である写真の仲間)。けれど、全集第九巻で、紅葉生前の新聞・雑誌における初出・再出を確認すると、『紅葉句帳』の方もしばしば〈みだりに用字を改め〉ていることが明らかで、『紅葉句集』を退ける理由は乏しい。と、このように『句集』の肩を持つのは、『句帳』の収録句数千四十一句に対して、『句集』は千二百二十句を収めており、『句集』を使わないと二百句近い句が失われてしまうからだ。それに古郷にしても用字云々と述べているように、改めていると言っても、「哉」と書くか「かな」と書くかレベルの違いの場合が多く、総じて句の価値には影響が無いのだ(句の内容が大きく変わる異同も皆無ではないが)。紅葉自身の揮毫、それも唯一の揮毫が残っているケースで、具体例を見てみよう。 

その1 寒詣翔るちん/\千鳥かな 
明治36年10月22日 斎藤松洲の俳画に着賛 
明治36年11月25日「卯杖」第11号に口絵写真として掲載 
揮毫そのものが現存(東京都立中央図書館特別文庫室蔵) 

その2 寒詣(かんまうで)かけるちん/\千鳥(ちどり)かな 
明治36年11月1日「二六新報」 

その3 寒詣翔るちん/\千鳥哉 
明治37年10月25日「卯杖」第2巻第10号 

その4 寒詣翔るちん/\千鳥かな 
『紅葉山人俳句集』 月別編集の「一月の部」に収録 

その5 寒詣翔るちん/\千鳥哉
『紅葉句帳』 四季別編集の「冬」の部に収録 

その6 寒詣翔るちん/\千鳥かな 
『紅葉句集』 季語別編集の「冬」の部に収録 

紅葉の終焉は十月三十日だったから、この句を揮毫した十月二十二日は死の八日前になる。死去翌日の十一月一日に、紅葉自身が社員として所属していた日刊紙「二六新報」に「尾崎紅葉氏逝く」の記事が出て、そこにしばしば辞世とされる〈死なば秋露の乾ぬ間ぞ面白き〉、十月二十一日に詠まれた〈床ずれや長夜のうつゝ砥の如し〉と共に引かれたのが、寒詣の句が活字に翻刻された最初。ここでいきなり表記が変更されてしまっている。「寒詣」「千鳥」にルビが振られたのはさておき、「翔る」を仮名に開いてしまっているのはどうしたことか。しかし、これは「二六新報」の粗忽からというより、ルビを加えたのと同様、読者の便をはかっての意図的なものだろう。十一月中には、紅葉が幹部の一人であった秋声会の機関誌「卯杖」も紅葉追悼号を出し、「故紅葉氏絶筆」というキャプション付きで、揮毫そのものの写真を掲載している。そして、『紅葉山人俳句集』『紅葉句帳』『紅葉句集』の三つの句集であるが、『俳句集』『句集』が紅葉の自筆に忠実で、『句帳』はなぜか「かな」を「哉」にしてしまっている。この句はたまたま紅葉の、しかも死の直前に書かれた唯一の揮毫が残っているためこうした比較もでき、正誤も明らかだ。しかし、揮毫が残っていないケースの方が圧倒的に多いのだし、逆に、句集が編纂された明治~大正の時点では、用字が異なる複数の揮毫が残っていたケースもあっただろう。紅葉は当代一の流行作家で能書だったから揮毫の依頼は引きも切らず、紅葉自身揮毫が大好きときていたのだから。ともあれ、『句集』を退け『句帳』を採る古郷の判断に従う必要がないことは、おわかりいただけたと思う。

寒詣の句の揮毫が現存することを知ったのは、昨年八月に出た岸本尚毅の『文豪と俳句』(集英社新書)によってである。同書に出る図版を見た上で、国立国会図書館で「卯杖」の口絵を確認したという順序になる。『文豪と俳句』では、幸田露伴・尾崎紅葉から川上弘美まで十三人の小説家や詩人の俳句を鑑賞している。紅葉の項もおおむねバランス良く書かれていて楽しく読めるが、他ならぬ寒詣の句については結構な珍解釈がなされている。

紅葉の絶筆は死の八日前の吟。『俳諧新潮』のカバー絵を描いた画家斎藤松洲の絵の讃として詠んだ句です。寒詣は、寒中夜毎に寺社に参詣すること。画中の男の手には提灯と鈴。飛ぶように駆ける男とチンチンという鈴の音を受けて「翔るちん/\千鳥かな」と詠みました。「ちん/\」は千鳥の声の形容ですが、男女の深い仲も意味します(山口仲美『ちんちん千鳥のなく声は』)。だとすると、画中の男は寒詣と称して女のもとへ急いでいるのです。 

珍解釈というのは、最後の〈画中の男は寒詣と称して女のもとへ急いでいる〉の部分である。岸本が参照している山口仲美の本(一九八九年 大修館書店/二〇〇八年 講談社学術文庫)は、日本語における鳥の声の聴きなしの検証を軸に、それぞれの鳥に対する日本人の思いのありようの変遷を追ったもの。チドリの章では、万葉集の柿本人麻呂の歌から北原白秋作詞・近衛秀麿作曲の童謡「ちんちん千鳥」にいたるまでの例が挙げられている。そもそもチドリのチ自体がこの鳥の鳴き声に由来し、チヨという声で何回も鳴く(チヨチヨチヨ……)と聞きなせるところから王朝和歌ではヤチヨ=八千代と鳴くめでたい鳥とされたという。中世の狂言などではチリチリと音写され、江戸時代になるとチリチリの他にチンチンという言い方も生まれ、「ちりちり千鳥」とか「ちんちん千鳥」のように鳴き声を鳥の名に冠することも行われるようになる。一方で、「ちんちん」には男性器から男女の深い仲まで、隠語としてのさまざまな意味がある。これがシンクロすると、次のような近世歌謡の歌詞ができる。 

ならぬ恋ならやめたもましよ、 
沖のちんちん千鳥が、羽うち違(たが)への恋衣、 
さてよい中(なか)それが定(ぢやう)よ、 
沖のちんちん千鳥が、羽うち違への恋衣、 
さてよい中。 

これは元禄年間にまとめられた歌謡集『松の葉』にある「ちんちん節」の歌詞。また、享保年間に初演された紀海音(きのかいおん)作の浄瑠璃「心中二ツ腹帯」には、 

女夫(めうと)の仲はちんちん、去りなしたは此の母 

という詞句もあるという。山口の本でこういう例を見せられて、岸本は紅葉句の男が寒詣と称して女のもとに急いでいるなどと言ってしまったのだが、らしくもない無理筋の飛躍である。だいたい山口は、上記の浄瑠璃の詞章を引いてすぐ、〈だが、これは、江戸時代のことである〉と断って、白秋の「ちんちん千鳥」(大正十年[一九二一])には、〈そんな色めいた意味は、全くない〉とはっきり言っているのである。 

ちんちん千鳥の啼く夜さは、 
啼く夜さは、 
硝子戸しめてもまだ寒い、 
まだ寒い。 

ちんちん千鳥の啼く声は、 
啼く声は、 
(あかり)を消してもまだ消えぬ、 
まだ消えぬ。 

「ちんちん千鳥」の冒頭二連だが、実際、全く色っぽくはない。もちろん、白秋の詩の「ちんちん」に男女の深い仲という意味が掛けられていなくても、紅葉の句のそれには掛けられていたっていいわけである。紅葉は近世文学にも音曲や芝居にも精通していたのだから、「ちんちん節」だって知っていた蓋然性は高い。ただ、言葉の隠語的な意味を承知していることと隠語的に使うこととは別の話である。松洲の絵や紅葉の句が、現に女のもとへ急ぐ男を描いているのかだけが問題になるが、これはもうあれこれ検討するまでもないようなものである。 

岸本はそもそも絵の中の男がなぜ走っているのかまともに考えていないようだ。寒詣は寒中におこなう行(ぎょう)であって、陽気の中をのんびり花見に出かけるのとはわけが違う。角川の旧版大歳時記の説明には、〈寒の三〇日間の夜、寒気をおかして神社や寺院に参り、祈願する行をいう。昔は裸にはだしのものが多かったが、近ごろは白装束や普通の服装の人も少なくない〉とある。松洲の絵の男は、白鉢巻をして白衣を着ている。裸でこそないが、白衣は腰回りまでの短いもので、脚は剥き出しだ。また、歳時記の説明通りはだしである。これを冬一月の三十日間(日数は所により時代により変化するのだろうが)、夜毎に繰り返すのである。この場合、女が待ってなくても、ふつう走るのではないか? それから、岸本は千鳥そのものが走る鳥であることも忘れている。和歌の例もいくらもあろうが、俳諧なら去来の有名な〈あら磯やはしり馴(なれ)たる友鵆(ともちどり)がある。結局、〈寒詣翔るちん/\千鳥かな〉は、寒気をついて参拝を急ぐ行者が鳴らすチンチンという鈴の音から、「ちんちん千鳥」という定型フレーズを呼び出しつつ、走る男の姿を浜辺や磯を走りまわる千鳥の姿に重ねているのである。千鳥のイメージを重層させることで、白秋の童謡に横溢しているような寂寥感をもたらす効果もあるだろう。また、提灯もだが、鈴を鳴らすのにも、衝突防止の意味があるだろう。つまり、走ることを前提にした装備なのである。女の出る幕はない。 

岸本の紅葉論では、もう一か所引っかかるところがあった。それは、 

泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧哉

についての記述である。 

 朧夜に泣きながら行く青年。彼はゲーテの小説の主人公のウェルテルだというのです。 三十五歳の紅葉が胃癌を告知されたのはこの年の三月。それを知ると「ウヱルテル」が紅葉に見えます。しかしそれは読者の勝手な想像かもしれない。日記によると紅葉は前年三月に『若きウェルテルの悩み』を読んでいます。紅葉はただ、ゲーテを俳句にして得意がっているのかもしれません。 

この一節はじつは当方の文章に対する批判でもある。「俳句」誌の二〇二〇年六月号における「大特集・教養としての〈文人俳句〉」に、私は「各(おのおの)力の限り新意を出(いだ)さむ――尾崎紅葉の俳句」を寄稿した。同じ特集で岸本は、横光利一について書いていたのである。それだけじゃ岸本がお前の文章を読んだとは限らんじゃないかとおっしゃる? ごもっともである。しかし、ウェルテル句が、紅葉がまさに胃癌を宣告された明治三十六年三月の発表作であること、日記を調べて紅葉が明治三十五年二月から三月にかけて英訳本で『若きウェルテルの悩み』を読了していることを指摘したのはたぶん私が最初だ。近代文学研究者が紅葉の俳句に興味を持っていないことはすでに述べた通りで、個別の句に踏み込んだ考証など誰もしていない。もちろん、岸本が自分で全集を突っつき回せば同じ情報は得られる。ただ、私はそうする動機があったのでこの句を読むために日記までチェックしたが、岸本にはたぶんそんなことをする理由はなかっただろう。私がそこまでこの句にこだわったのは、〈筆者が最初に知った紅葉の俳句作品〉だったことと、高橋睦郎の『百人一句』(中公文庫 一九九九年)でこの句が取り上げられており、そこで示された高橋の解釈からあれこれ考えるところがあったからである。それにしても、こんなことを縷々述べなくてはならないのは、岸本が巻末の「主な参照文献」のところに拙文を入れておかなかったからである(スペースには充分余裕があるのにね)。 

さて、私が岸本の文章のどこに引っかかったかであるが、それは〈三十五歳の紅葉が胃癌を告知されたのはこの年の三月。それを知ると「ウヱルテル」が紅葉に見えます。しかしそれは読者の勝手な想像かもしれない〉のところである。この部分がつまり、拙文の下のような記述に対するあてこすりであることは明らかだろう。 

ウェルテルの句は、一連の病中吟の直前、入院を決断させるほどに体調が悪化しつつあった時期に詠まれたことになる。ウェルテルは西欧の小説の男性主人公としては例外的によく泣くから、〈泣いて行く〉という表現は自然だが、この青年がかなわぬ恋に絶望し、ついにピストル自殺を遂げることは、死病を疑いつつあっただろう紅葉の意識と無関係ではあるまい。また、紅葉自身が小説執筆中あるいは観劇などの際に、感激の余りしばしば泣いたこと、『金色夜叉』の間貫一が「乱落(ほふりお)つる涙」に頰を濡らしながら、「僕の涙で必ず月は曇らして見せるから」と叫ぶウェルテル的人物であったこと、『多情多恨』の鷲見柳之助に到っては文庫本で数百頁にわたり、亡妻を慕ってひたすら泣き続けることも思い出しておきたい。〈泣いて行くウヱルテル〉に、紅葉の自己像(セルフイメージ)や彼が創造した主人公たちの姿を重ねてうけとることは難しくない。 

私としても、〈紅葉はただ、ゲーテを俳句にして得意がっているのかもしれません〉という岸本の見解を一概に否定するものではない。高橋睦郎は前掲書でウェルテル句について、〈ヨーロッパ文学の人名を取り入れた最初の句ではなかろうか〉と述べている。最初の句と言い切る用意は当方には無いものの、最初期の句であることは確かだろう。そういう新しい試みに挑戦して、まずまずの句ができて「得意が」るということは、たとえどんな状況にあったとしても俳人の生理というものだ。だからと言って、「ただ」それだけと見るのは、この場合はたして適切なのだろうか。 

ここで、「俳句」誌に寄稿した時のことを述べておく。ご承知のように、同誌はどういうわけか総合誌の中で締切までの時間がいちばん短いという特徴を有している。文人俳句特集の時も、締切まで一ヶ月くらいだったのではないだろうか。ところが、天の配剤というべきか、この時はたまたま良い感じで仕事のインターバルに当っていて、当該の原稿に注力することができたのですね。紅葉なんてそれまで一冊も読んでいなかったのだが、俳句はもとより、小説やら紀行やら、主要作品を立て続けに読んで執筆に備えたのだった。新型コロナ第一年で、最初の緊急事態宣言が出てしまい、国会図書館が使えなかったため、読みたくても読めない評論があったりしたのは心残りだったが、日記から紅葉が『ウェルテル』を読んだ時日を突き止めることもでき、時間的限界の中でいちおうやれることはやったという手応えはあったのである。

そして今回、『尾崎紅葉の百句』を書くにあたり、二年前に読めなかった文献も改めて読んで発見もいろいろあった。特に、明治期のゲーテ受容がどのようなものであったのかは、前回気にしていながら確認に到らなかった事項の一つであるが、星野慎一『ゲーテと鷗外』(潮出版社 一九七五年)という恰好の本があることがわかり、早速取り寄せた。書名の通り、過半は森鷗外のゲーテ受容を扱っていて、『ウェルテル』の初期の翻訳状況なども詳しく書いてある。残りの半分弱は、「ゲーテと日本の作家」に当てられており、鷗外以外の明治・大正期の文学者六人とゲーテとの関係を追っている。紅葉も六人のうちの一人で、それはいいのだけれど、紅葉を論じた章はほとんど田山花袋の『東京の三十年』を敷き写しにしたようなしろもので、またしてもイラッとさせられたのだった。しかし、紅葉の弟分・巌谷小波が主宰した白人会のメンバーでもあった岡田朝太郎(刑法学者、川柳についての著書もある)が書いた、「癌」という文章の存在を教えられたのは大きかった。これは、「文藝春秋」昭和十年(一九三五)三月号に掲載された随筆である。 

それによると、明治三十六年二月二十二日、紅葉は大学病院の入沢博士から、胃に腫物があるとの診断を受ける。入沢博士は正確な病名は第三者に伝えるので、翌日の昼食時に大学の食堂にその人をよこしてもらいたいと紅葉に告げる。第三者には岡田朝太郎氏が適任であろうとの博士の指名なので、紅葉は岡田に手紙を出し、翌日、入沢博士と面談して、結果は清風亭で会う時に教えてほしいと依頼する(この手紙は全集第十二巻にも載っている)。翌二十三日、入沢博士から紅葉が胃癌である旨を告知された岡田は、別の友人とも相談して紅葉に病名を伝えることに決める。 

 さてその夜、手紙にある清風亭にてと云ふのは赤坂の清風亭で、白人会の俳句会の集りがあつたのだ。(中略) 
さて、その夜会ふと紅葉がどうだつたと云ふから別室へ呼んではつきり宣告し、同時に入院をすゝめたのであつた。彼は、やつぱりなあ!! と云つた。 
その夜の記録に 
泣いてゆくヱルテルに会ふ朧かな 紅葉 
と残つて居る。 

 というわけで、ウェルテルの句は、単に三月二十五日付けの「卯杖」第三号に初出したというだけでなく、胃癌であることを告げられた当夜、二月二十三日の句会に出句されたこともはっきりしたのである。岡田の文章では、この句が席題による即吟か、持ち寄りかまではわからないが、当夜の作でないとしても直前の数日のうちの作であることは間違いあるまい。ゲーテを句にし得た得意はそれとして、この句のウェルテルに紅葉の自己像を重ねること自体は自然な読解であって、決して高山の勝手な想像ではなさそうだということは岸本氏に改めて申し上げたい。 

その上で、紅葉の個人的状況から離れて、句の言葉自体を吟味してみたい。まず「朧哉」については、作句のタイミングが春だから春の季語となった面が大きかろう。春の季語のうちでは悶々の情を遣る背景として朧夜はいかにもふさわしく、ごく素直な斡旋と見る。最も気になっていたのは「泣いて行く」の「行く」で、単なる文飾なのか、『ウェルテル』そのものにこの言葉を呼び出すようなシーンがあるのかということだった。二年前の原稿を書く時にも、『ウェルテル』をぱらぱらとやって、主人公が泣くシーンが何か所もあることまではチェックしたのであるが、全体を読み返すことまではしていなかった。それで前回本欄で記したように、ひょんななりゆきもあって出先で『ウェルテル』(高橋義孝訳 新潮文庫)を買い、たぶん三十年ぶりくらいに再読したのだった。 

まず泣くシーンであるが、数えてみると二十カ所ある。文庫本で正味二百十三頁のさして長くもない小説でこれはかなり多いだろう。ついで「行く」イメージのもとになるようなシーンがあるのかどうかだが、あると言っていいと思う。この小説は第一部と第二部がいわゆる書簡体小説(ウェルテルがウィルヘルムという友人に宛てた体裁を取る)で、その後に「編者より読者へ」として、自殺したウェルテルが残した断片的なメモや遺書と、編者による解説からなるパートが続く。「行く」イメージを喚起しそうなのは、このうち第一部のラストである九月十日の書簡と、「編者より読者へ」で編者によって客観的に描かれる、ウェルテルが自殺する前々夜の様子である。 

「ぼくたちはまた会えますとも。見つかりますとも。どんな姿をしていたって見分けがつきます。ぼくは行きます。よろこんで行きます。だけれど、永遠にというのであったらぼくはいやだ。さようなら、ロッテ。さようなら、アルベルト。また会いましょう」――「あしたね」とロッテは冗談をいった。――明日(あした)という言葉が胸をついた。ロッテが手をぼくの手から引いたとき、それには気がつかなかったんだ。――二人は並木路から向うへ行ってしまった。ぼくは立ったなりで、月光の中の二人の後ろ姿を見送っていた。ぼくは地にひれ伏して、泣いた。はね起きて、高台にかけのぼり、下を見ると、向うの高い菩提樹の陰を庭戸の方へ動いて行くロッテの白い服がほのかに光っている。ぼくは両腕を差し伸べた。ロッテの姿は消えてしまった。 

これは九月十日の書簡の末尾。ロッテとアルベルトの結婚が迫り、ついに町を去る決意をしたウェルテルが、二人に別れを告げる場面だ。この時はまだ死ぬことまでは考えていないので「永遠にというのであったらぼくはいや」なのだし、「明日という言葉が胸をついた」のは、翌日出発することになっていたからだ。九月だから秋だけれど、まさに月夜であり、高台にかけのぼって二人を見送ったウェルテルは、どう考えてもこのあと「泣いて行く」ことになるだろう。 

女中が行ってまた自分一人になってしまうと、隣の小さい部屋のドアのところへ行って小声で、「ロッテ、ロッテ、たった一言だけ、さようならだけでも」と呼びかけてみたが――返事がない。ウェルテルは待った。また頼んで、待った。それから身を返して、叫んだ。「さようなら、ロッテ、永遠にさようなら!」 
町の門にきた。すでに顔見知りの番人は何もいわずウェルテルを外へ出してやった。みぞれの夜だった。十一時頃になって再び町の門の扉をたたいた。ウェルテルが家に帰りつくと、従僕は主人が帽子をかぶっていないのに気づいた。しかし何もいおうとはせず、服を脱がせた。びしょぬれにぬれていた。帽子はあとで、谷にのぞんだ丘の斜面の岩の上に発見された。暗い雨夜に落ちもせずにどうしてあの岩に登ったのか、不可解である。 

ここではウェルテルが泣いているとは書かれていない。もはや世界全体が泣いているからだ。その泣いている世界の中を、絶望した主人公が狂ったように歩き回っている。これらのシーンは、全体が熱にうかされたようなこの小説にあってもまさにクライマックスと言っていい。紅葉がウェルテルの句を作ったのは、小説を読んでからちょうど一年後である。紅葉が読んだ英訳本は、カッセル版という古くて誤りも多い、悪名高い訳書だったが、そんなお粗末な翻訳からでも、こうしたシーンが帯びている熱狂性は伝わっただろう。紅葉が一年前の読書の印象をたどり直し、ウェルテルを句にしようとした時、それが「泣いて行く」という形象に帰結したことに、当方としてはともかく納得したのであった。 

最後に「逢ふ」が残っている。ウェルテルが紅葉のセルフイメージと重層する一方で、「逢ふ」主体はイコール作者なのだから、この措辞はいわば主体の分裂めいた感触をもたらすことになる。その感触は、一句を再び紅葉個人の生の状況――茫然自失しそうなところを踏みこたえているような――へと還元する効果を持つだろう。一見したところよりずっと複雑な味わいを感じられる句、そのように言ってしまって良い気がしている。 

追記 ウェルテル句の表記の揺れを、寒詣句の場合と同様確認しておく。 
その1 泣いて行くエルテルに会ふ朧哉 
明治36年3月25日「卯杖」第3号 

その2 泣いて行くウエルテルに会ふ朧哉 
『紅葉山人俳句集』 「春雑及兼三春物の部」に収録 

その3 泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧哉 
『紅葉句帳』 「春」の部に収録 

その4 泣いて行くウヱルテルに逢ふ朧かな
『紅葉句集』 「春」の部に収録 

その5 泣いてゆくヱルテルに会ふ朧かな 
岡田朝太郎「癌」 

ちなみに、上田敏に英訳本の借覧を依頼する紅葉の手紙(明治34年11月1日)には「ヱルテル」とあり、日記で同書を読み始めた記事(明治35年2月8日)では「ウエルテルの愁」、読了の記事(明治35年3月14日)では「ウエルテル」と表記する。岡田の「その夜の記録」は、句集三種のどれとも一致しておらず、岡田は「癌」を書くにあたり句集ではなく、確かに手許の記録を見たのであろう。 

こうして並べてみると、岡田の記録は句会時の紅葉の表記に、『紅葉山人俳句集』は初出の「卯杖」に、ともかく沿ったものではあるようだ(ただし、岡田は「行く/ゆく」「哉/かな」の用字には頓着していない可能性がある)。これに対して、『紅葉句帳』の編者・星野麦人は、古郷の想定とは逆に、俳句の弟子なるがゆえに、師の句の表記を整える意図から、〈みだりに用字を改め〉てしまっていると見られる。『紅葉句集』は『紅葉句帳』に従いつつ、さらに「哉」を「かな」と開いたのだ。 

問題は「卯杖」の「エルテル」で、岡田の記録を参照すると「ヱルテル」の誤植の可能性が出てくる(大いにありそうな誤植と言っていい)。他方、紅葉が「ウエルテル」と書くこともあったことからすると、ウの脱字とも見られる。『紅葉山人俳句集』の編者はまさにそう考えて、「卯杖」に依拠しつつ「エルテル」を「ウエルテル」に直したのだろう。 

泣いて行くヱルテルに会ふ朧哉 
泣いて行くウエルテルに会ふ朧哉 

この句の表記は、「卯杖」の初出に準拠すべきと考える。しかし、その初出に誤植がある疑いが濃厚で、さらに誤植の訂正案が二種あるという困った状況なのだ。ここでは上のように、それらの訂正案を示して後考を俟つこととする。

*「パイクのけむり」第21回で、本稿の内容の一部を修正しています。
 併せてお読みください。