2022年7月15日金曜日

パイクのけむりⅩⅧ~断章四ツ橋~    高山れおな

1 U中央公園の楠、出雲大社の松
自宅マンションの北側は、U中央公園に面している。歪な五角形をした公園なので大きさの説明がしにくいが、いちばん長い対角線が二百メートル強といった感じである。公園の中心部は野球場になっていて、フェンスで囲ってある。スタンドなどはないものの、地元の少年野球や社会人の草野球の試合は時々やっている。草野球といっても両チームとは別に審判団がいる、なかなか立派なものだ。そうした、届けを出した試合や練習を行なっていない時は誰でも出入り自由で、若い人や家族連れが遊んでいる他、あたり一帯の犬たちの一大社交場になっている。

私はこの公園の東南の角あたりでよく煙草を吸っている。マンションの目の前だし、公園の中でもいちばん人の少ない一画でもある。子どもたちの遊び場の中心は、野球場ではなく、野球場の西側から北側にかけてのエリアで、砂場や遊水地や築山、ジャングルジムなどの遊具がある。子どもが小さい頃――もう十年以上前――は、しばしばそちらへ連れて行って遊ばせた。エリアの真ん中には立派なクスノキが立っていて、俳句に詠んだこともある。近年は滅多に足を向けることもなかったのだが、先日ふと、今ごろはさぞ茂りも深くなっているだろうとクスノキを見に行って愕然とした。主たる枝が何本も、根本近くから何本も切り落とされて、見るも無残なありさまになっているのだ。この木はまあまあ大木とはいえ、クスノキとしてはたいしたことはなく、老木という程の木ではない。私が見ないでいるうちに、急に枝が弱って危ない状態になっていたというのであろうか。おそらくはそうではあるまい。管理がしやすいようにというような、役所の判断があったものだろう。

先日、十数年ぶりに出雲大社に参拝した。松江での仕事を済ませて、出雲空港から羽田へ飛ぶ前に立ち寄ったのである。ここの参道の松は巨木揃いで、つまりは大変な老木ばかり。それこそ台風などの折りはかなり危なそうに見える。E戸川区の公園課であれば、二十本でも三十本でも躊躇なく切り倒して、あたりを切株だらけにしているに違いない。しかし、出雲大社ではあちこちに支えの柱を立てて、どうでも松を切り倒さずに生かそうとしているようだった。参道の松並木は参道の松並木であって神木ではないはずだが、木を尊ぶという神信仰の根幹の精神がそういう行動になっているのだろう。出雲大社とE戸川区の公園では比較にならないとはいえ、木は木に違いない。無念なことである。ともかく、なんであんなに枝を切ったのか、理由を聞いてみようと思う。


2  國清辰也の時評
「梟」の七月号をいただいた。「梟」では、國清辰也「現代俳句を読む」を時々覗く。第六十七回になる今回は、〈俳句にだけ引き籠っていると、窒息してしまいそう〉なので、〈窓を開けて換気〉をするために、〈近年話題の〉歌集を読んでみたのだそうである。読んだのは、北山あさひ『崖にて』で、私は全然知らなかったが、なるほどたいへん面白そうだ。東郷雄二のウェブサイト「橄欖追放」でも取り上げていたので、そちらもざっと眼を通した。

さて、國清は文章全体の四分の三程を使って『崖にて』の感想を記した後、次のように続ける。

『俳壇』六月号の特集は「新人賞作家大集合!」。該当する俳人が競詠している。短歌が時代を鋭く抉り取っている傍らで、俳句は静かに瞑想している観がある。

幽霊は競艇場に来てゐると  岩田奎
水筒の麦茶濃き日とうすき日と  岡田由季
パン生地の蛹の色も冴返る  篠崎央子

俳句と短歌には、できることに違いがあるのは事実であろう。また、ここで、かつての社会性俳句を蒸し返すつもりはさらさらない。諧謔を求める姿勢や、小主観を捨てて不易を追求する姿勢は、尊重されるべきだろう。

ただ、現代俳句の新たな可能性を追求する姿勢が放棄され、今を生きる俳句主体の息づきが、掲出句から伝わって来ないのは、いかがなものか。俳句の伝統に個々の詩魂が抜き取られた〈俳句の伝統の囚人〉の印象を拭えない。俳句は静かに瞑想していると書いた所以である。

この「俳句の伝統の囚人」というフレーズは、國清のオリジナルなのかどうか知らないが、なかなか巧い言い回しだなと感心した。國清はここで止めておいたら良かったのである。ところが彼は調子に乗って(?)こう続けてしまう。

向日葵を蒔こうよ死者の数ほどに  矢島渚男

近詠から引いた。この句には今を生きている俳句主体の息づきが、臨場感を伴って伝わって来る。また、歴史の基層に立つ視点があるため、不易流行を予感させる。

向日葵はウクライナの国花だそうで、矢島の句はもちろん現下のロシアの侵略戦争を背景に詠まれている。私は朝日俳壇の選をしているので、この種の投句は結構な数、眼にしている。金子兜太が選者だったこともあり、朝日俳壇は新聞俳壇の中でもこうした時事的な投句が相対的に多いのではないかと思う。その上で申しますと、矢島の句はさすがに巧い。蛇笏賞作家を摑まえてさすがに巧いもないものだが、情も姿も兼ね備えていて、新聞俳壇の投句よりも明らかにレベルが上である。専門俳人の作として恥ずかしくない。と、このようには言えるわけだけれど、しかし、果たしてこの句をそれ以上に高く買ってよいものか。

私は仁平勝のように時事詠に否定的ではないが、だからと言ってこの種の句が〈今を生きている俳句主体の息づき〉の具現であるというならいささか片腹痛い。北山あさひの短歌にはなるほど、セクハラや貧困問題、ジェンダーの問題など、さまざまな時事的な話題が盛り込まれているが、彼女の歌が歌壇で高く評価されているのは、それを自身の問題として引き受けての自虐的な迫力あればこそだ(個人的には、迫力は迫力として、詩としての格はあまり高くないんじゃないの、とは思うが)。矢島の向日葵の句は、プーチンとプーチン支持の一部ロシア人以外の世界の誰もが許容できる感情を歌っているのであり、ごく常識的なウクライナ応援歌であろう。ウクライナ応援歌、大いに結構。しかし、それをもって俳句主体がどうこうと言ってしまうあたり、杜撰とせざるを得ない。俳句主体を公式言語に引き渡してしまっているからこそ、応援歌として成立しているんだよ。さらに、〈歴史の基層に立つ視点があるため、不易流行を予感させる〉とまで言われては矢島もさすがに困惑するんじゃないか。こういうのを標準的日本語では、贔屓の引き倒しと言うのである。


3  越智友亮の句集
何はともあれ、今を生きている俳句主体の息づきが確かに感じられる句集が最近出た。越智友亮の『ふつうの未来』。

冬の金魚家は安全だと思う  Ⅰ 十八歳
今日は晴れトマトおいしいとか言って  同
体温はたましいの熱梨を食う  同
コーラの氷を最後には嚙む大丈夫  Ⅱ 花火なう
焼きそばのソースが濃くて花火なう  同
都市の灯に星は隠れて秋の風  同
夏野かなリュックは翼ほど重し  Ⅲ 春を暮らす
白玉や今が過ぎては今が来て  Ⅳ 柚子は黄に
くちづけのおわりに息や雪催  Ⅴ 三十一歳
枇杷の花ふつうの未来だといいな  同

冬の金魚と花火なうは、ずいぶん前の作だが、現在も全く色褪せていない印象。「○○なう」という言い方は一般にはかなり廃れているはずだが、それとこれとは別の話なのだろう。「家は安全だと思う」という不思議な認識から、「ふつうの未来だといいな」というあまりにも慎ましい祈りまでに流れた時間を思う。この巻軸句まで来て、私は少し目頭が熱くなってしまったことですよ。


4 橋
中原道夫『橋』は、すでに第十四句集である。ここ何冊かの中原の句集では、いちばん面白いように思った(中原は正字を使っているが、引用は通行の字体による)。

彼方とは流るる星の着けぬ先  二〇一五年
鯛焼の二尾は湿れる関係に  二〇一六年
自撮棒破魔弓せめぎあふ騒(ぞめき)  二〇一七年
それぞれの曲線競ふ秋果なる  同
甲比丹渡る犬の遠吠えそこかしこ  二〇一八年
一老が一狼と化し雪解野を  同
按摩機に揺らす骨柄萬愚節  同
手花火を了へたる膝のほきと鳴る  二〇一九年
炎天に唾棄するごとくカラス語を  同
通過駅竹内まりあ似のコート  二〇二〇年

ちなみに、「甲比丹渡る」は「阿蘭陀渡る」とも言って春の季語である。上記十句のうちでは、個人的にはカラス語の句がいちばん好ましい。カラスが、だみ声でアアとひと声鳴いたのをこのように言ったわけだが、この「唾棄するごとく」には、案外、中原のナマな感情が出ているのではあるまいか。