2022年5月15日日曜日

パイクのけむりⅩⅦ~断章ななつぼし~  高山れおな

1 させていただく考 
K楽坂駅のW稲田側を地上に出た斜向かいにある✖ローチェで、テイクアウトのコーヒーやカフェラテを買うことがよくある。よくあるというか、出勤日にはほぼ毎日買っている。✖ローチェのどの店でも同じなのだろうが、注文をすると店員はいの一番に、「袋に入れさせていただいてもよろしいでしょうか」と聞いてくる。私はこれが常々癇に障ってならなかった。そもそも、自分用の飲み物を一つだけを買う客が、カップを袋詰めにしてもらうことを希望する確率はむしろ低いのではあるまいか。低くても作業の流れ的に、最初の段階で袋に入れるか入れないかを確認しておくのが効率的ということなら、聞くこと自体はやむを得ないとしよう。しかし、ならばなんで「袋にお入れいたしますか」と聞かないのか。

このように思っていたところ、今日(風光るまたは風薫る五月四日の午後三時過ぎであった)の店員は珍しく「袋にお入れいたしますか」と聞いてきた。私の「いいえ」と答える口調はいつもよりやさしかったはずである。「袋に入れさせていただいてもよろしいでしょうか」が不快なのは、テイクアウトの飲み物は袋に入れるのが当然で、自分はその当然のことをしつつあるが、念のために貴殿の諾否を確認しているのである、丁寧でしょ、というまことに鬱陶しい理路が背後に感じられるからであろう。これに対して、「袋にお入れいたしますか」は、単に入れるか入れないかを確認しているだけで、無用の理路を感じさせないのである。なお先般、『「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ』(椎名美智著 角川新書)という本が出たらしい。あるいは、私が感じてきた不快の所以について、学問的な説明がなされているかもしれない。時間が出来たらきっと読まさせていただくことにしよう。 

2 涼しきむむむ
髙柳克弘氏から新しい句集を頂戴した。『涼しき無』という書名が長谷川櫂風なのでいささかドキッとした。『究極の俳句』もたしか長谷川氏の慫慂を受けて書いたような話だったはずである。しかし、読んでみると、 

名をもらひ赤子も花の世の一人

のような長谷川櫂風の句もあるにはあるが、これはあくまで例外である。どころか、長谷川氏のオプティミスティックな志向とは真逆の、陰々滅々としたペシミスティックな句が、特に句集の後半にははなはだ多い。あとがきを参照すれば、〈生や死にまつわる根源的な主題〉をめぐる〈私なりの挑戦〉の結果ということなのだろう。主題の重視には少しも反対ではないものの、この句集について言えば、全体をやや単調な色に染めてしまっている印象を受けた。なお、句集名の由来となっているのは、 

子にほほゑむ母にすべては涼しき無 

というなかなか不気味な句である。 

3 石橋山の飴 
このところ勤め先の席では、佐奈田飴を舐めている。石橋山の古戦場に建つ佐奈田霊社で買ってきた。石橋山は、反平家の兵を挙げた源頼朝が、伊豆から相模へ進んできたところで、大庭景親率いる十倍の敵軍と激突して大敗を喫した場所である。今年の大河ドラマは最初の何回かは低調なドタバタに終始する感じで、個人的には一向に盛り上がらなかったが、第五回の石橋山の戦いで、國村隼の大庭景親と坂東彌十郎の北条時政が名乗りを上げて罵り合う場面は感心した。これは、『源平盛衰記』に基づいたシーンらしい。佐奈田霊社は、この合戦で頼朝側で戦い、討死した佐奈田与一義忠を祀った墳墓堂の後身だ。珍しく神仏混淆の形態をとどめていて、寺とも神社ともつかない(管理しているのはお坊さんである)。

佐奈田霊社でなぜ飴を売っているかというと、〈「ぜんそく・せき・のど」気管支炎、等 日本唯一の祈願所〉だからだ。要するに喉の神様として崇敬されているのである。これは、佐奈田与一の戦死の状況と関係がある。与一が俣野五郎景久(大庭景親の弟)を組み伏せ、首を掻き切ろうとしたが、短刀が血糊で固まってしまい鞘から抜けない。そこへ俣野方の長尾新五、新六兄弟が加勢にやって来る。与一も味方を呼ぼうとするが、痰がからんだか何かで声が出ず、そうこうするうちについに討ち取られてしまう。つまり、声が出ずに死ぬことになったので、声=喉の守り神となったということらしい。芸能人や木遣師の崇敬が厚いとのことで、堂内外の長押上には立派な奉納額がたくさん挙がっていた。飴は桂皮とかチンピとかカンゾウを使った昔ながらのもので、懐かしいような味がして美味しい。 

4 俳句魂2022 
前島篤志がまたホッチキス留めの句集を送ってくれた。去年の八月にもらったのは『寝耳』だった。今回のタイトルは『千年一日』である。

神泉や猫の湧くこと限りなし 
はりぼての河豚は隻眼夏の路地 
間氷期市民プールに雨の輪が 
秋の果てのぞいて戻るモノレール 
エゴサーチすれば画面に雨虎(あめふらし) 
冬の日のズボンおろしたまま暮れる 
夢の父オレンジの棒道で振る 
子の吐いたすももが繁る夜の雲 
今日の自転どう?と巣穴の蟻に訊く 
安心な卵が五つ冷えている 

前回に比べるとおとなしいものの、間氷期や夢の父の句は絶品ではないか。何かを背負おうとしてこちこちに凝り固まってしまった感じがする高柳、何かを背負うことから降りてしまったために放埓に歯止めがかからない前島。そういうお前はそういうお前は……とにかく時間が欲しい、もうただそれだけ、ですね。 

中年や遠くみのれる夜の桃  西東三鬼

5 回想の鬼百合 
N葛西駅南口の三井住友銀行の前で家人と待ち合わせた。五分ほど時間に余裕があったので、バス通りを渡ったところにあるB教堂書店に入った。先日、「NHK俳句」八月号の「わたしの第一句集」というコーナーの原稿を頼まれた際、見本に池田澄子『空の庭』の回と大串章『朝の舟』の回のpdfを送ってもらって読んだ。原稿はもう書いてしまったが、本屋に入ってそのことを思い出したので、今月号は誰なのだろうと思って雑誌を確認すると、坪内稔典『朝の岸』だったから買って出た。

家人と待ち合わせたのは、ドコモショップへ行くためである。買ってから丸六年になるiPhoneがそろそろ不安定な感じになってきたので買い替えようというのだ。機種も色もすぐ決めて、事はさくさく進んでゆくが、それでもいろいろ待ち時間がある間に坪内さんの記事を読み始めた。ブログの“坪内稔典の「窓と窓」”なんかを時々のぞくと、感心しないことが多い。これは全く比喩でしかないけれど、一種のポジショントークのような印象を受けてしまうのだ。ネンテンは如何にしてかくなりし乎は、しかし、かなり興味深いテーマで、いずれちゃんと書いてみたいと思っている。すぐに取り掛かれない理由を申せば、二〇一七年の蔵書大断捨離で坪内本をほとんど失ってしまっていることだ。現代のことだから買い直しは難しくはないわけだけれど、手許に本が無いのだよというのはさしあたり自分に対しての言い訳になっている。 

それはさておき、『朝の岸』についての文章は淡々としていてよかった。冒頭に短文を置き、同句集からの自選二十八句のそれぞれに自解の短章が付く形だが、素直な回想モードに入っているのが、なにやら珍しいものを見たような印象であった。 

父祖は海賊島の鬼百合蜜に充ち 
鬼ゆりのあふれる花粉渇水日 

これらの句に最初に出会ったのは塚本邦雄の『百句燦燦 現代俳諧頌』だったろうか。確かめてみると、“百句”としては、 

鬼百合がしんしんとゆく明日の空

を取り上げていて(この句は『朝の岸』ではなく、次の『春の家』所収)、評の文章中に先の二句が引かれていた。 

鬼百合は彼の護符の意匠の一つである。「父祖は海賊島の鬼百合蜜に充ち」「鬼ゆりのあふれる花粉渇水期」と句集『朝の岸』にもこの三弁三蕚の花式図を橙黄色に描き止めてゐる。彼の漂泊感も飢渇感もすべてこの紋章が救済してくれるのだらう。 

塚本の熱弁を久しぶりに堪能して、坪内氏の進み来たった道について考える上でも示唆するところ少なくないなと思った。ところで、自分の方の「わたしの第一句集」だが、これはこれで書いていて発見があった。ちょっと意外なようでもあるし、当たり前でもあるような発見だった。 

6 再来年まで
二〇二四年のNHK大河ドラマが、紫式部を主人公にした「光る君へ」になると発表された。主演は吉高由里子だそうだから、これはもう仲間由紀恵に和泉式部か清少納言をやってもらうしかない。うん、和泉式部だな。そしたら、吉田鋼太郎が藤原保昌でいいじゃん……と、たちまち妄想が湧き始めた。とにかく再来年までは生きようと思ったことです。 

7 楚歌 
「ふらんす堂通信」172号で、高橋睦郎による小島明句集『天使』五十句抄を読む。そこからさらに面白かった十句を引く。

   神保町 
春一番根雪めきたる古書の山 
吹き出しのやうに雲あり山笑ふ 
象のごとバス洗はるる立夏かな 
瞑れば楚歌のごとくに蟬時雨 
狐とはああこんなにも痩せてゐて 
すれちがふ声の空似や宵祭 
空蟬の砕けてものを思ふころ 
たましひもおほよそ水と知る秋ぞ 
煮大根の飴色濃かり親不孝 
春隣粥食ふための中華街 

 面白かったなら買いに行けばいいのだが、当面そうもいかないので本全体を読むのは後日の楽しみにしておく。ここで引いた中でも、「楚歌のごとくに蟬時雨」は特に素晴らしい。言葉の構成はシンプルだが、心の深い句であると思う。