(前略)栞文の別の箇所に、〈今の時代における、ひとりぼっちの大人が、ここにいる〉という一節もあって、佐藤の佐藤に対する共感の根はつまりはこのあたりにありそうだ。そう理解しておいて、なんでこんなに飲み食いのことばかりなのよと、やはりそれが頭を離れない。今の時代における、ひとりぼっちの大人が、俳句形式のうちで現代を生きる主体を立ち上げようとすると、食べることと飲むことの具体性が決定的な手掛かりになるのである――と間に合わせの回答を用意することもできなくはないにせよ、貧しさの印象は否めない。否めないが、同時に、佐藤文香が佐藤智子に見ている可能性はこの貧しさ自体にあるのだろうし、貧しさゆえの切実さが感じられないと言ったら、それはそれで嘘になってしまいそうだ。 (後略)
このあと話は芭蕉の書く食べ物の日常性に至るのだが(なるほど)、ここでドキッとするのはやはり「貧しさ」という言葉で、しかしこれ、私はかなりはっきりと思い当たるものがある。
私たちの「余暇の心におけるエンゲル係数の高さ」だ。
週末はキャンプもしくはスノボ!のような"陽キャ"ではもちろんなく、家にいるからといってお菓子作りや編み物もせず、俳句が好きだからと言って古書を蒐集するでもなく洋画マニアでもない私たちは、じゃあいったい、何をして楽しく生きればいいのか。
教養の積み上げをもとにせず、そこに浸る快楽を味方につけず、ヴィヴィットな現実および虚構をあてにするでもなく、それでも今、言葉の表現をなぜかしてしまうような私たちは、では、どこから明かりを採ればいいのか。
……そのひとつのこたえとして、毎日3回+αかならずおこなう”食”に関わるこまかな心の動きをまめに掬い貯めて、甘美な、あるいは切実な光を生み出すというやり方があるのではないだろうか。後輩オススメのカオマンガイ。買い物メモに夫が書き足した「アイスクリーム」。タピオカ屋がケバブ屋に変わること、などなど。いや、これらは句集には出てこないのだけど。
と、勝手に話している私は、佐藤智子なのか佐藤文香なのか、よくわからなくなっている。もしかすると佐藤智子はそんなことは思っていないかもしれない。今更ながら、私は作者ではない。
が、ここで、高山の発言をあえて『ぜんぶ残して湖へ』読者であり勝手な共感者である私・佐藤文香が引き受けるとすれば、私と同じように「貧しい」人は、ほかにもたくさんいると思う。陽キャやオタク(←完全にいい意味で使っています)の方であっても、ある日急に、いつもやっていることのすべてをぽかんと楽しめなくなったりすることもあったりしませんか。そんなとき、佐藤智子の俳句が「おまもり」、あるいは「よすが」と言い換えてもいいのだけれど、そんなふうに効いてくることがないとも限らない。
さきほど「共感者」と言ったがしかし、この著者の作品については、共感し尽せなさが一番の魅力でもある(私だと錯覚させる力と私でないことの尊さが、交互に点灯するこのかんじは、穂村弘のエッセイとの共通点を感じる)。この句集に共感できた、共感できない、と言うことは、本の感想としてはあるのだろうけれども、その時点ではまだ、"俳句を読むこと"は始まっていないように思う(始まらないなら仕方がないが)。
高山れおなが、この句集に対して「共感の要素はほぼ欠落している」「猛悪な私が共感するのは無理」、という立ち位置から、先月の「パイクのけむりⅪⅡ~花とめし~」を書いてくれたことを、私は嬉しく思った。
*
『ぜんぶ残して湖へ』、通して読んだあとはおみくじのように、その日ぱっと開いたページの一句を胸に出勤したりしてみてほしい。滋味深いので。
もしよろしければ、こちらの特集もご覧ください。