県下の県立高校では一番と言われる高校だったが、勉強が得意な男の子の多くは中高一貫の私立男子校(現在は共学)へ行ってしまうし、我々のころは1学年11クラス440人もいて倍率も異常に低かったため、テストが得意な生徒は東大・京大や医学部、真ん中くらいの人は地元国立大学くらいの分布で、大学進学を希望しない人もいた。今となってはうちの高校のそういうところがよかったと思う。
11クラスのうち文系は5クラスで、社会が2科目必要な京大・東大、体育大学や芸術大学への進学を希望する生徒は授業の割り振りなどの都合で2つの学級にまとめられた。残りの平凡文系3クラスのうちの1クラスに、私はいた。
文系なので数学はⅠAとⅡBまで。数学が得意という子以外はセンター試験でどうにかがんばれればいいというレベル設定で、先生の言っていることさえわかれば学校のテストはできた。私の成績としては、学校の範囲ごとのテストであればⅠAでもⅡBでも90点くらいというかんじ。そうするとクラスでは相対的に数学ができる側にまわる。数学だけでなく、ほかの教科についてもだいたいそんな具合だった。
クラス内での私の立ち位置は学級委員または生徒会役員で、クラス内に女子のヒエラルキーが存在するとすれば、その外部に立ち回るべく苦心していた。一方で教室移動や便所行き、休日をともにする唯一無二の親友を求め、しかし愛しすぎて嫌われてしまうなど、客観的に見れば十分に浮いた存在であった。女の子たちはみな可愛く、もっと仲良くなりたかった。
そんな私にとって、休み時間の「さとぅ〜!この問題おしえて〜」にこたえることこそ至福の時間だった。
教えてほしいと言われるのは数学が多かった。数学は暗記や読解による他の文系科目と違い、解き方のすじみちをひとつひとつ理解していかないと解けないからだろう。何度も言うが、私は数学が得意だったわけではない。ただ、先生の言ったことをその順序のまま頭に写してあり、その子の性格や理解力に応じてわかりやすく言い換えることができたので、さとぅーによる個別指導はわかりやすいと評判であった。聞いてもらいさえすれば、誰にでも分け隔てなく教えた。自分がわかることを話して感謝されるのは嬉しかった。そして私は、学校の先生たちも好きだった。
私はあのとき数学を教えていたのではなく、先生の言ったことを翻訳していただけだったのだと思う。これまで俳句を教えるような仕事をいくつもやってきたけれど、半分くらいは先人や友人の知見や仕事をトレースしてミックスしては言い換えてきたにすぎない。しかし、誰かの考えや研究の素晴らしさが、私を介して少しでも多くの人に伝わるなら、それに越したことはない。だから私は、自分より物事をよく知っているすべての人を尊敬しているし、教わる側の代表として、教わりたいと思う誰とでも仲良くなれる。
結局数学はすべて忘れてしまったが、数学のことは好きだ。それもあって、ツイッターでは数学の研究者の人を何人かまとめてフォローしている。雑談しかわからないけれど。