転生したら闘牛をする約束の口づけ
いるよ 夏が来る免罪符のための人
きみのとしゃ音であかしほをつくる
特に、三句目は一九八〇年代の大沼正明風でぐっと来た。今泉はさらに、応募六十七篇から少なくとも一句を挙げて講評を加えており、そちらにも惹かれた句が多かった。
台風圏ペンの突き出る紙袋 尾内以太
雪女郎もうにどとまたあへさうな 森尾みづな
時雨れては鏡の恍惚をよぎる 青本瑞季
赤き目の蚕を祀る遺伝学 千住祈理
つぎつぎに仮面をはずし山眠る 加藤絵里子
パーカーの手とか林檎を入れる部分 田中木江
ムーミンがのびちぢみする花筏 うにがわえりも
カトレアやうつくしいはらわたばかり 佐々木紺
応募作全講評という鼻息の荒さと関係があるのかないのか知らないけれど、そうこうしているうちに今泉の新著『渡邊白泉の句と真実――〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉のその後』が届いた。「円錐」ほかで、今泉がこれまでに発表してきた渡邊白泉関係の文章を核に再構成したものだ。
ある冬の夜のことである。額 (ひたい) のはげ上がった中年男がひとり、仕事帰りに酒を飲み、酔いの覚めぬうちに帰宅しようとバス停に向かった。時刻は夜八時。宵闇の雑踏のなか、彼はバスに乗り込もうとして、突然、意識を失って倒れた。脳溢血である。すぐに病院に運ばれるが、二度と意識を回復せぬまま、翌日の夜、この世を去った。
こんなふうにいささか小説風に幕をあける本書が焦点を合わせるのは、一九六九年、五十五歳での急逝まで、足かけ十八年にわたった白泉の沼津時代である。一九四〇年に京大俳句事件で検挙された白泉は、起訴猶予となったものの執筆禁止を申し渡され、俳壇的活動からは身を引いてしまう。敗戦によりその制約は無くなったにもかかわらず、白泉が俳人としての社会的活動を本格的に再開することはなかった。それでも一九四七年の現代俳句協会の創立には参加しているが、やがて岡山を経て、静岡県の三島ついで沼津に移住し、高校の一教員として後半生を送ることになるのである。
思えば、白泉というのはずいぶん奇妙な存在ではあるまいか。そもそも論として、マイナーなのだかメジャーなのだか、それすらよくわからない。俳壇的に活躍したのは実質的に二十代の数年間だけで、ムーブメントのリーダーだったわけでもなく、生前にはまともな個人句集さえ刊行していないのだからマイナーもいいところのはずが、一方で現在、おそらく昭和前半期の俳人のうちで最も人気がある一人であり、いろいろな形で作品が引用される頻度の点でもトップクラスのうちに数えられるのではないだろうか。これは究極的には作品の力に帰することとはいえ、実際には三橋敏雄という唯一の弟子の奮闘努力の甲斐あってという部分が大きい。今泉の仕事も、三橋によるテクスト整備を前提に、曖昧だった白泉の後半生の履歴を可能な範囲で洗い直したものにほかならない。
白泉を俳句史の中に位置づける短い概論と、戦前戦中の代表作十数句(今泉は前期代表作と呼んでいる)の鑑賞につづく本書の主部「エリカはめざむ――沼津時代の渡邊白泉」は、いわゆるオーラル・ヒストリーに基づいている。白泉次男の渡邊勝氏ほか、沼津時代の教え子や同僚ら計十一名からの聞き取りや書簡でのやりとりと、その過程で入手した文字資料若干が主な情報源だ。今泉の入念な探索の行間から、全体として感じられるのは、渡邊白泉がじつに善良で平凡な人だったということ。沼津高校への異動は、自由主義的な教育者だった校長の石内直太郎を慕ってのものであり、石内に理想の教育者像を見ていたであろう一方で、白泉に教育者としての強固な自負や信念のようなものがあったかというとそんな印象は受けない。何しろ放課後ともなれば常に酔っぱらっていたというほどの大酒飲みで(脳溢血も結局それが原因だろう)、麻雀にも目が無かった。作詞・作曲したという「市立沼津高音頭」には、
沼津市立の校庭(にわ)に咲く
でかい真実(まこと)の花みたか
俺の心の燃える花 燃える花
という、胸奥にあるものを垣間見せるかのような言葉もないではないものの、白泉は結局、この曲を周囲に流布させることなく筐底に秘してしまう。俳句活動でも同じことだが、白泉には抜きがたい対社会的な消極性が見て取れる。よって周囲には俳人であることをことさらアピールはしないながら、求められれば俳句指導もしていたらしい。勤務先の学校新聞では「現代俳句読本」と題して入門的な現代俳句史を連載し、晩年には地元の市立図書館で開催された俳句講座の機関誌で添削指導までしている。そこでは、近作の自解まで披露しているが、これが初心の読者の理解に配慮しつつ、じつに行き届いたものであるのに驚く。衒いもなければ照れもなく、自分の作品と読者に対する誠実さに満ちた文章と言っていい。消極性の一方で、白泉が自分の作品に強い自信を持っていたことは確実に思える。
すぐれているのは自句自解だけではない。やはり勤務先の紀要に書いた「俳句の音韻」という論文(原稿用紙にして百二十枚を超える由)から、中村草田男の〈雪女郎おそろし父の恋おそろし〉を鑑賞した部分が引用されているのだが、これがたいへん素晴らしい。しかし、同論文の本筋をなす音韻論の方は、(当方の十倍は白泉贔屓のはずの)今泉さえ〈ちっとも面白くない〉と述べているように、特に感心するようなものではない。ただ、白泉の俳句作りの根幹にあるのが音韻、という以上に水原秋櫻子に由来する「調べ」第一主義であることを知ることができたのは収穫だった。
平畑静塔は白泉が亡くなった年の「俳句研究」で、白泉について、「風にも怯えるデリカシー」云々と述べているという。白泉の人となりについてのそうした証言を引きながら今泉は、白泉の一九五六年の作品、〈手錠せし夏あり人の腕時計〉について次のように述べる。
特高に連行された体験は、戦後になっても、決して過去のこととして濾過されてはいない。街ですれ違う人が腕時計をしている。ふいにその銀色の鉄が目に入る。自らの両手に巻かれた手錠を連想してしまう…。弾圧による心の傷はこうして戦後の白泉のなかに生々しい身体感覚として生きていた。
この生々しい身体感覚が、生来の「風にも怯えるデリカシー」と相俟って、〈また弾圧されるかもしれない〉という恐怖で白泉をしばり、積極的な俳句活動から遠ざけてしまったというのが今泉の見立てである。それに納得しつつ、先にも述べたような、白泉の善良さと平凡さの印象がやって来るのをとどめ難い。それは必ずしも否定的な意味で言うのではなく、白泉のあれらのすぐれた句が(今さら作例を引くのはやめておく)、そうした平凡さをこそ根拠にしていたということへの驚きを伴ったものだ。この人があまりにも平凡で弱い人に見えるがゆえに、調べへの深い没入を軸にしたその言語感覚の鋭さがどれほどのものであったかを思わざるを得ないということでもある。今泉の次のような述懐も、当方のこうした感想と矛盾するものではないだろう。
白泉は孤独な人間ではなかった。だから、孤独な俳人でいられた――本書を書くことを通して、ぼくが理解したのは、このことである。
今泉著は、巻末に今泉による白泉百句選が付き、全句集未収録句も採集、朝日文庫「現代俳句の世界」のそれを増補した年譜も載る。読み物としても面白い上に、資料性も高い。注文は大風呂敷出版局ホームページへ。