2021年4月17日土曜日

Judamaの言葉    佐藤文香

大学時代、穂村弘のエッセイの他は新興俳句や芥川龍之介の俳句と『侏儒の言葉』くらいしか読んだおぼえがない。「侏儒の言葉」でさえ、はじめ「珠玉の言葉」だと勘違いしていた。そのもっと前、いや案外高校時代くらいだったか、「珠玉」を「じゅだま」と読んで、親をひとしきり笑わせたのを覚えている。

濁音への愛が重箱読みを促す。


にわかに評論を読みたくなり書きたくなって読み始めたものの読み終わらず書き始めることができない。 

井口時男『金子兜太 俳句を生きた表現者』(藤原書店)。 
夏石番矢編『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫)中、井本農一「俳句的対象把握」。

イローニッシュな態度。 
どなたにもわかるように池田澄子が言い直すと「ひねくれている」で、

   想像のつく夜桜を見に来たわ

ということになる。



書き始められないときはいつも声で書く。
音声入力し、それを直すところから始める。

書くことは生むことなので容易ではない。
声を出すのは運動なので愉快。
書かれたものを直すことは、いつでもできる。

自分にとって、声は芋づる。


分相応は心掛けているが、等身大は忌避している。 
私の俳句は私のように幼稚であってはならないからだ。


自分は自分の幼稚さを憎んでいるし、書いたものが幼稚であることに価値を感じない。
とくに俳句以外のものを書くことは、大人でなく・洒脱でない自分を諦めることで、そういうちょっとお馬鹿なところに一抹のチャーミングさを感じてもらえばだなんていう気もない。

幼稚なことと馬鹿なこと以上に、媚びることが嫌いだ。
媚びないことだけは自らの意志により可能になる。


斜に構えるにしても、丈高く見せるためのものは笑ってしまう。
かと言って、がんばっているのはもちろんダサい。
結局はダサさの質の問題であり、それが多様性であり、恥ずかしいところを見せないようにしている人は作家ではない。


イロニーかアイロニーか。
どちらにせよ、愛とは仲が悪い。


自分は、大学のそばの広場のような人間でありたい。
草花と生き物、酒と食事の屋台を用意しておく。 
人々は私で遊んで、研究へと帰っていく。 


自分の考えは収斂していかない。
思考のはじめはかすり傷、
脱線して爬虫類、
すべてを飛ばした結論は奇形の花、
問いのままであれば悪くない石、
そういったものを、みなさんは、うちの広場で手に入れることができる。 


ある日の夢日記。
詩の講義。
前期つかっていた教室の学生数を減らすことにことになり、半数が別の部屋へ。私も対象。新しい部屋はとても広いが、三つの部分にわかれており、そのうちの二つは工事中で、私たちは端の方の一部に席を用意された。
しかし班活動をする段になり、またもとの部屋に戻ることを余儀なくされる。
詩は始まらない。


好きな人の寡黙、あるいは、好きな人の饒舌について。
その人は話さないようにするとき考えている。
話し始めるときはご機嫌である。
私と話さないときのその人の考えやご機嫌、 
その思考や声が、私の好きな草や鳥に及ぶ可能性の美しさ。


大学のそばの広場は、研究者になりたかった。
大学のそばの広場も、広場なりに、勉強し続けたい。
研究をする人のために、よい広場であるために。

そういう絵本をつくりたい。


イローニッシュな態度ふたたび。
うちの母風に言えば「喧嘩を売る」である。 
これは去年のもの。




自分は俳句を書く際、イロニーの配分を毎度調整していると言える。
それを、俳句や書く自分へのイローニッシュな態度としている。


愛の配分や愛の態度についてはまたの機会に。
オカヨシガモやマグレガモのことも話したいよ。