大学時代、穂村弘のエッセイの他は新興俳句や芥川龍之介の俳句と『侏儒の言葉』くらいしか読んだおぼえがない。「侏儒の言葉」でさえ、はじめ「珠玉の言葉」だと勘違いしていた。そのもっと前、いや案外高校時代くらいだったか、「珠玉」を「じゅだま」と読んで、親をひとしきり笑わせたのを覚えている。
濁音への愛が重箱読みを促す。
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井口時男『金子兜太 俳句を生きた表現者』(藤原書店)。
夏石番矢編『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫)中、井本農一「俳句的対象把握」。
イローニッシュな態度。
どなたにもわかるように池田澄子が言い直すと「ひねくれている」で、
想像のつく夜桜を見に来たわ
ということになる。
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書き始められないときはいつも声で書く。
音声入力し、それを直すところから始める。
書くことは生むことなので容易ではない。
声を出すのは運動なので愉快。
書かれたものを直すことは、いつでもできる。
自分にとって、声は芋づる。
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分相応は心掛けているが、等身大は忌避している。
私の俳句は私のように幼稚であってはならないからだ。
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自分は自分の幼稚さを憎んでいるし、書いたものが幼稚であることに価値を感じない。
とくに俳句以外のものを書くことは、大人でなく・洒脱でない自分を諦めることで、そういうちょっとお馬鹿なところに一抹のチャーミングさを感じてもらえばだなんていう気もない。
幼稚なことと馬鹿なこと以上に、媚びることが嫌いだ。
媚びないことだけは自らの意志により可能になる。
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斜に構えるにしても、丈高く見せるためのものは笑ってしまう。
かと言って、がんばっているのはもちろんダサい。
結局はダサさの質の問題であり、それが多様性であり、恥ずかしいところを見せないようにしている人は作家ではない。
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イロニーかアイロニーか。
どちらにせよ、愛とは仲が悪い。
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自分は、大学のそばの広場のような人間でありたい。
草花と生き物、酒と食事の屋台を用意しておく。
人々は私で遊んで、研究へと帰っていく。
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自分の考えは収斂していかない。
思考のはじめはかすり傷、
脱線して爬虫類、
すべてを飛ばした結論は奇形の花、
問いのままであれば悪くない石、
そういったものを、みなさんは、うちの広場で手に入れることができる。
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ある日の夢日記。
詩の講義。
前期つかっていた教室の学生数を減らすことにことになり、半数が別の部屋へ。私も対象。新しい部屋はとても広いが、三つの部分にわかれており、そのうちの二つは工事中で、私たちは端の方の一部に席を用意された。
しかし班活動をする段になり、またもとの部屋に戻ることを余儀なくされる。
詩は始まらない。
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好きな人の寡黙、あるいは、好きな人の饒舌について。
その人は話さないようにするとき考えている。
話し始めるときはご機嫌である。
私と話さないときのその人の考えやご機嫌、
その思考や声が、私の好きな草や鳥に及ぶ可能性の美しさ。
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大学のそばの広場は、研究者になりたかった。
大学のそばの広場も、広場なりに、勉強し続けたい。
研究をする人のために、よい広場であるために。
そういう絵本をつくりたい。
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イローニッシュな態度ふたたび。
うちの母風に言えば「喧嘩を売る」である。
これは去年のもの。
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自分は俳句を書く際、イロニーの配分を毎度調整していると言える。
それを、俳句や書く自分へのイローニッシュな態度としている。
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愛の配分や愛の態度についてはまたの機会に。
オカヨシガモやマグレガモのことも話したいよ。