2019年12月31日火曜日
しゃべらなくなるときだけがほんとう 佐藤文香
遠足「生翻車魚」。季節に1度はやると意気込んで4月に初回「関さんの森」へ向かったのだったが、案外関さんも私もいそがしく夏・秋が過ぎてしまい、気がついたら12月になっていた。
私は私単体に価値がある、と思うのが苦手だった。誰かと作り上げるとか、誰かを補佐するとか、そういうことで自分に価値を感じ、元気を出してがんばってきた。なので、今回のスカパー「Edge」(2020年4月ごろ放映予定)でも、私ひとりを追ってもらうことは自分らしくないと思った。そこで、展示「句の景色」の準備のときにカメラに入ってもらったり、遠足「生翻車魚」に関さんに来てもらったりした。
誰かとしゃべっていたい。
私はどんなときでも誰かといたい。ひとりのときは仕方ないので頭の中でずっとしゃべっている。しゃべる速度で考えるし、考える速度でしゃべる。自分の中に言葉が湧き出すことが、イコール考えることで、昔からずっとそうだ。だからよくしゃべるし、ずっと考えている。あるときまで書くのはずっと苦手だったのだけど、頭の中でしゃべっているのを写すようにしたら書けるようになった。文字起こしはわりと得意なので、自分の言葉を文字起こしする感覚で書いている。脳で考えを音読しながら書いている。私の言葉が文字になるのは必ず体の中で音に変換してからだ。
俳句を書くときは、音や色、軽さなど、ある語を多面的に認識して、体の内側のどこかに当てて、その反響のようなものをつかって言葉同士を結びつけるような感覚がある。しゃべりは止めて何度も句の言葉を心内音として繰り返す。このとき、思考の意味のつながりも塞きとめておくことになるというところに、自分の句作らしさがあるのかもしれない。要するに俳句を書くとき(いや、書き直すときだろうか。私は書き始めながら推敲する)というのは、しゃべるのとは違う回路をつかっている。もし私単体に作家としての価値があることもあるとすれば、このしゃべらないときの自分のような気がする。じっとスマホの画面を見ていたり、だらだら歩いているときに、そういうことをしている。電車や風呂でもだ。それはしかしなかなか、テレビ映えするものでないので、やはりマンボウを見たり、海辺を歩いたりするしかない。
誰かとしゃべると、そしてしゃべりながら何かできると、思い出になる。思い出は、句作の際の、体の内側の反響の具合などに関わってくる。思い出づくりの最中は、そこにある素材から語彙を得ることができる。そういった意味では、句作ではあるのだ、マンボウを見て、海辺を歩くことも。私が、それでは不安なだけだ。しゃべらなくなるときだけがほんとうな気がするから。
でも、誰かとしゃべっていたい。
(撮影;関悦史)