映画の一シーンのような光景ながら、空想で作ったものとは思いにくい妙な重みがあって、それは「極道」の濁音の重さや、「けり」の断定性から来ているわけではない。
「極道」は相手の内面まで承知していなければ出てこない語で、「ヤクザ者」「暴力団員」「柄の悪い男」といった見た目の先走った捉え方とは違う。一句の主は相手の生き方をそれなりに受けとめているのである。「雪の埠頭」なる決まりすぎの情景は内面としての風景であり、両者はそれをともにしている。その寡黙な連帯によって、彼は「極道」と同格の強さを帯びることになるのだが、しかし、そうした己の像に酔ういとまもあらばこそ、たちまち極道は送られ、二人は別れを迎える。
ただの背景のようであった「雪」が不意に冷たさをもって肌身に迫ってくるのはこの時だ。王維「元二の安西に使するを送る」にも通じそうな友情の表出が、彼方を思うスケール感ではなく、鋭い断念へと転じるのは、この一人となってから受ける雪のためなのである。