2023年6月16日金曜日

池田澄子第八句集『月と書く』(朔出版)感想など  佐藤文香

池田澄子第八句集『月と書く』(朔出版)が刊行された。と言っても、まだお手元にない方も多いだろう。ここでいろいろ書いて読んだ気になられても困るので、核心にならないだろう句について、意味のあるようなないようなことを書いておく。



青虫の食べ終わらない後姿

青虫、というと、どの子からどの子までが青虫なのだろうか。『角川俳句大歳時記』には「菜虫」が立項されていて、「青虫」は傍題。紋白蝶の幼虫を言うことが多いが、広くアブラナ科の野菜を食う虫で、緑で、「長毛をそなえない小型のもの」とのこと。「長毛をそなえない」とはいい言い方だな。そなえると毛虫ということだ。
この句、青虫が葉っぱをもくもくと食べている様子をずっと見ている。自分の家の庭だとすると、家の植物が被害を受けているわけだが、そんなことより虫の様子がかわいいのだろう。青虫は背後にいるこの人に気づいておらず、がんばって食べている。ぷりぷりとした背中を「後姿」と言ったところに、人間っぽさが出ていて面白い。
池田澄子という人はどうも青虫が好きらしい。〈人が人を愛したりして青菜に虫〉(『たましいの話』)という句がすでに人口に膾炙しており、ごく身近なところから世界で通じる大きな愛に到達するところにこの作者の大俳人たる所以があるわけだが、一方でこういう小さくどうでもよく完結する句の後味のうまみもまた、この人の”佳さ”(池田澄子は「佳」という字をよく使う)だと思う。〈日向は今日も静かに移動してみせる〉〈風をよく通した部屋をあたためる〉、こういう薄味の、しかし環境の機微を過不足なく書いた句もいい。


行ったことあるあるテレビニュースの瀧

私事だがアメリカに1年行って帰ってきたので、ナショナルジオグラフィックなどのテレビ番組でヨセミテが映ると「行った行った!」と嬉しくなる。行く前は大自然に興味がなかったから、そういう番組には見向きもしなかったのに。
たしかに、テレビに知り合いが出ている、なんていうときにも嬉しくなって見ることがあるし、雑誌の美容ライターおすすめコスメなんかでも、自分が使っているものを見つけると「わかってるじゃーん」などとニヤニヤする。ニュースなんだから驚きや新しさが大事だが、知っているものを見つけて安心する方に、実は需要があるのだ。
……ということを、俳句でわざわざ指摘するという新しさが、この句にはあるかもしれない。〈想像のつく夜桜を見に来たわ〉(『いつしか人に生まれて』)と対になっているともいえる。
言うまでもないが、ピエール瀧さんの話ではありません。


真夜を猛暑のツイート&リツイート

池田澄子はツイッターをやっている。リツイートされた経験のある方や、コメントが来て驚いた方もいらっしゃると思う。ツイッターの句はすでにほかの人にもあるし(私にもある)、そもそもツイッターよりBlueskyの時代だろ、などと言うのは簡単だが、この句のいいところは上五の字余りで七音になっているところの、真夜「を」猛暑「の」の助詞の運びによる節回しである。〈夕されば灯して家や隅に葱〉〈逢いたしと切に素秋の夜風かな〉などもそうなのだけど、夕されば→灯して→家/隅→葱、とか、逢いたし→切に→素秋の→夜風と、どんどん要素が出てくるわりにS字フックを描くように無理なく繋がれていて、それで内容的に展開もされていく気持ちよさがある。〈夕風のやがて夜風の芽の柳〉なんかも、「の」でしかつないでないのになんと巧みであることか。
また、さきほどの句もリアルな瀧ではなくテレビの瀧、これもツイートの内容的に猛暑。もちろん実際も暑いのだろうが、夜だから本人が今つぶやくなら「熱帯夜」となりそうなところだ。ただ、(池田澄子は自発的につぶやくことはあまりしない人だから)昼の猛暑のツイートが夜流れてきて、いやはやほんに暑かったわね今日は、といった気分でそれをリツイートしている、という作者像が(私には)見えてくる。
なお、池田澄子は書きぶりが"ふつう"なだけでなく、〈STARBUCKS COFFEEと灯りおり淑気〉(『思ってます』)など、現代のふつうの身の回りの素材も"ふつう"に詠んでいる。土偶や蛍のような根源的なものばかりではないのである。

最後に、まだ『月と書く』を持っていない方はこれ以降は読まない方がいいですが、核心になる句というと、やはりこのあたり。

夏の月逢えない友たちは寝たか
逢う前の髪を手櫛の涼しさよ
帰ってもひとりだけれど綺麗な月
逢いたいと書いてはならぬ月と書く



今回の装幀、『此処』に引き続き水戸部功さんによるものだが、第一句集『空の庭』(著者自装)のようなかたちで、とご依頼されたそうで、そのときの気持ちに立ちかえりたいという意図があるようだ。前句集『此処』は集大成のような一冊で、大きな賞ももらったことだし、わかる気がする。『空の庭』と『月と書く』とは、のちほどちゃんと読み比べたい。私自身はあとがき(および帯)の「人類よ、地球を壊さないで」みたいなのにはあまり興味がないが、〈お久しぶり!と手を握ったわ過去の秋〉は帯の一句としてバッチリこの一冊を象徴しており、そのセルフプロデュースのうまさ、仕事人ぶりにも感銘を受ける。

今までの池田澄子の句で「逢う」句だと、〈椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ〉(『ゆく船』)が一番有名だろうか。その切なさレベル、おスミ調を保ったまま、「逢う」名句がこんなに量産されたのが『月と書く』の時期、となる。こんなに澄子を逢いたい気持ちにさせ、句を書かせたのだから、コロナもえらいものだ。

最後に一句挙げるとすれば。

やっと逢えて近付かないで初時雨 池田澄子『月と書く』

澄子さんのお宅からせっかく徒歩10分のところに住んでいるのに、来週引っ越してしまう。昨日句集とソフトクリームを持ってきてくださったのに、引っ越したらはやく逢いに行かないと、と思っている。そして澄子さんには「またその句?」と笑われそうだけれど、私は〈未だ逢わざるわが鷹の余命かな〉(『空の庭』)を、まだずっと、思ってます。