2020年5月15日金曜日

唯子  佐藤文香

唯子が鋏を貸してほしいと言う。自分のがあるじゃない、と私は唯子の手許を指差して言う。そうじゃないのと唯子は言う。茜ちゃんの鋏がいいの、と言う。 私のは持ち手が黒く唯子のはパステルがかったグリーンで、刃渡がいくばくか私のの方が長く、しかもこちらの方が鋭そうで唯子のは安全っぽい、つまり唯子のはお道具箱に入っていそうな学習用の鋏、私のは家にあったものを適当に持ってきた、そういう違いがある。

そういったことをつづめて、私ののが大人だから? と私が言うと、唯子は深く頷いた、その首の動きが不自然なので、いや私が大人なんじゃなくて鋏がね、と付け加えると、唯子は首を振る。茜ちゃんのがいいの、鋏じゃなくてもいいの、なんならお焼きでもいいの、おんなじ野沢菜味でもいいの、茜ちゃんがひとくち齧ったのがよいの、一度でも茜ちゃんのものになったものならなんでもいいの、茜ちゃん、わたし今の茜ちゃんの次の瞬間の茜ちゃんになりたいの、私ねって言い始めた茜ちゃんの、次の言葉、そうね目的語から動詞かしら、それを発するようでありたいの、茜ちゃんの鋏で、茜ちゃんが今まで切っていたそのいろ紙の続きを切りたいの、ごめんね茜ちゃん、そう言って唯子は、私の鋏を手に取り、鋏の持ち手と刃先だけが見えるように両手で持ち、祈るように手を組んだ。

私は、わざと心中を察さない風に唯子を見、なぜか震える唯子の二の腕を人差し指と中指で撫でたあと、そのまま二指を唯子の左頬に当てた。ぐっと近寄って、私が次何言うかわかる? と尋ねながら目を合わせ、指を左耳にずらし、耳の中に入れてから自分の顔を左へ(唯子にとっては右へ)まわり込ませて、右耳に唇を当て、わかる? ともう一度聞いた。わかりません、と悲しげに、しかし熱くなって答える唯子に、私はゆっくり、

 つ、る、む、ら、さ、き、

と囁き、唇を離し、指も離して、何事もなかったかのように、唯子の鋏で、さきほどのいろ紙を切り抜いた。 

唯子は、自分の手汗で金属臭を放ちだした私の鋏を持ち直し、大きく開いて、その刃の一番内側を舐めた。少し唾液が糸を引いたのが見えた。