2019年9月16日月曜日

船長と夕暮猪  佐藤文香

 船長、雉がいますと吉岡に言われて振り向くと、そこには雉ではなく夕暮猪がいた。夕暮猪じゃないか、と吉岡に言うと、おかしいなさっきまでは雉だったのにと顎髭をしごく。

 先日研究室の後輩の吉岡とふたりで花見舟に乗ったところ、酔った吉岡が、高原さんは船長で僕は隊員です、と言い出したので、お前それならお前は隊員じゃなくて船員じゃないのかと注意すると、じゃあ僕は一般人でいいので高原さんだけ船長やってくださいと言う。それがなかなかおもしろいと思った私はペンギンダイアリーに書き留めておいた。翌日吉岡が昨日なんか失礼なことしませんでしたか、と聞いてきたから、私は船長で君は一般人だ、とペンギンダイアリーを見せてやった。吉岡は顎髭をしごきながら、じゃあ船長、今日は雉を見に行きましょうと言う。雉は山にいるんだろう? どこに行くつもりだよ、と聞くと、巻末付録に雉の見れる山一覧が載ってました、と私のペンギンダイアリーを開いて見せる。ら抜き言葉が気に入らない私もそれは一度いい季節にどこかへ見に行かねばという気になり、それが花曇の今日であることも悪くないと直感した。吉岡がペンギンダイアリーの他のページを次々読もうとするので奪い返すと、シールページに挟んであった愛するタカオの写真が棒棒鶏の上に舞い落ちた。タカオはバナナを食べているときが一番かわいい。

 雉ではなく夕暮猪がいたのは、もう萎れつつある石蕗の花の黄の奥で、彼は鼻を上下させてその根元の土を嗅いでいた。吉岡は雉を探しに少し登山道を登り、私は夕暮猪と待つことにした。このあたりは雉が多いの、と聞くと、さあ、夕暮猪の方が多いんじゃないですか、と、グレーの体を杉の木に擦り付けながらこたえる。我々の仲間は雉よりかは強いですからね、と言うので、それはそうだろうと言うと、いやしかし、体は雉より強いですが頭は雉より弱いですよ、と言い、「猪」と刺青を入れた額を突き出して見せた。どうせなら夕暮と彫ればよかったのに、と私が言うと、雉にもそう言われました、と残念そうな顔をした。

 そのうち吉岡が山を降りてきて、雉よりすごいものを見つけましたよ、と嬉しそうだ。なんだ、生け捕りかなにかにしたらよかったのに、と私が言うと、いやいや船長じゃあるまいし、と笑いながら、スマートフォンを見せてきた。映っていたのは夕焼で、まさかこれを私に見せたいだとかセンチなことを言うんじゃないだろうな、と拡大しても拡大しても夕焼だった。